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ユージーン

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48.saltarello

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 輸送車襲撃の事件から三日が経った。
 あの日以降、襲撃はぱたりと止んで、吸血鬼の起こす大きな事件は、都内では発生していない。
 嵐の前の静けさのよう。そんなことをあんじゅは思ったが、荒れ狂うような出来事は、できれば来てほしくはなかった。それは、きっと世界のどの人も思っていることだろう。未来永劫事件事故なく、平和になればいい、誰もがそう思っているものの、必ず大きな嵐は来る。だから、できる限り平和なこの時が長く続けばいいと思う方向に切り替えた。その時に備えるために。
 けれど、もしかしたら嵐を望んでいる者もいるのかもしれない。ごく少数、案外それは、自分の近くにいる存在。
「んっ……」
 凝った身体を伸ばす。パソコンの前に座って、肩が凝ったり、ここまで目が疲れてきたのは、初めてだった。
 梨々香に渡されたソフトは、あんじゅの仕事をスムーズに運んでくれた。処理スピードをあげてくれたりといった、ほんの小さな点ばかりだが、かなり助けられている。
 文字を打ち込みながら、あんじゅは机に置いた【彼岸花】の身分証をちらりと見た。表記は、『技術班』兼『戦術班』となっている。内勤優先といった感じなのだろうか。現に、今日はこうして出勤しているものの、仕事は『技術班』の方を任されている。本日、現場には、柚村京と鵠美穂と氷姫幸宏が出ている。
『霧峰、いいか?』
 耳に挿したインカムから、京の声がした。小休止に力を抜いていた身体と思考が、すぐに引き締められる。
「はい、なんですか?」
『今から言う人物の身元を調べて、端末に送ってくれ』
 わかりました、と言ってあんじゅは言われた名前を打ち込む。出てきた人物の資料をぱっと見るが、怪しい点はない。
「……特に普通の人っぽいですけど」
『いや、俺の通信端末に送ってくれ』
「あっ……す、すいません」
 言われた最後の言葉を忘れていた。資料を送ると、京から礼を言われ、あんじゅはやりかけていた仕事に戻る。
 しばらくすると今度は早見から連絡がきた。
『あんじゅちゃんゴメンね、いい?』
「あっ、はい。大丈夫です」
『秋葉原の輸送車襲撃の報告書。少し訂正する箇所あったから直してもらえるかしら。小さな箇所なんだけど、上が会議前に直せってうるさくてさ』
「わかりました。送ってもらえますか」
 すぐに訂正箇所を直して送信すると、あんじゅは自分の作業に戻る。
「進まない……」
 それでも以前よりは進んだ方か。本格的に隊が合併してから、忙しさは増したものの、慣れと梨々香のソフトのおかげで、少しの余裕が生まれるくらいにはついていけている。
 しばらく作業を進めて、ひと段落したのであんじゅはコーヒーを淹れようと立ち上がった。さすがに前みたいな失敗をしない様に、砂糖とミルクは多めに入れておくことを意識して。
「あの……綾塚さん、コーヒー飲みますか?」
 あんじゅは、一緒にオフィスにいた沙耶に声をかける。沙耶は、キーボードで文字を打っては考える動作を見せており、時々憂いのため息をついていた。
「……なにか言ったか?」
「あっ、えっと、コーヒーは?」
「ああ……貰おう。コーヒーメーカーのメモリーに記憶させてあるだろう? その設定でいい」
 あんじゅは備え付けられていた画面からリストを開くと、沙耶の文字をタッチする。一瞬だけ、平仮名で表記された が目に入ったが、それ以上特に気にすることもなかった。
「どうぞ」
「ありがとう」
 紙コップを受け取った沙耶は一口啜ると、画面に戻った。
「なにされてるんですか?」
「三日前に秋葉原の輸送車襲撃事件があっただろう」
「はい」
「……それの、反省文だ」
「え?」
 報告書のことかと、あんじゅは思った。だが、輸送車の件の報告書は全員がすでに提出している。反省文。一体なんの反省文なのだろうか。
 内容が気になったので、思わず画面を覗き込む。

《私、綾塚沙耶は、公休の部下に仕事を押し付け、勝手に吸血鬼を追いかけました。申し訳ありません。》

 真っ白な画面の中央には、それだけが表記されていた。
「反省文ってこれですか?」
「……ああ、早見からだ。下水道まで私が吸血鬼を追いかけのは、お前も知っているだろう?」
「ええ、はい」
「あの件で、もの凄く怒られた」
 目を伏せた沙耶は、その時を思い出したのか、ため息をつく。参っている風に見受けられたが、反省しているのかどうかは、あんじゅにもよくわからなかった。参っているという部分を見れば、あまり非を感じていないようにも見える。
「霧峰。こういうのを書いたことがないんだが、反省文は……これでいいのか?」
「えっと……」
 あんじゅは言葉に詰まる。正直言えば短い。この後に続く言葉があるのならまだしも、沙耶はそれ以上を書くことが億劫そうに見える。物憂いを見せる沙耶の顔を見て、あんじゅはなんだか珍しく思えた。
「綾塚さんがいいと思うなら….それで」
 中途半端な言葉を投げて、あんじゅは逃げる。沙耶が、アドバイスが上手く転ばなかったことを人のせいにするような性格とは思えなかったが、あんじゅはアドバイスに自信がなかったので、この答えで締めた。
 沙耶は、あんじゅを一瞥すると、画面に戻る。しばらく見つめた後で肩を竦めると、保存してからパソコンの電源を落とした。
「怒っているか?」
「えっ?」
 沙耶からの一言に、あんじゅは面食らった。
「いえ……別に。どうしてですか?」
「銃を渡して、無理に頼んだからな。立場上断れなかったんだろう」
「えっと、私そういうのには慣れてますから。だから、気にしなくていいですよ」
「そうか」
 沙耶はそう言うと、コーヒーを啜る。会話が止み、あんじゅも自分のデスクに戻った。ほんの少しの会話だったが、ここまで沙耶と話したのは初めてだったのではないだろうか。意外と、困り顔を見せるものなのだな、とあんじゅは思う。沙耶と会った最初の頃は、無感情な一面が多く目についたので、印象そのままに、あんじゅは沙耶の性格を決めつけていた。
 しばらく作業をしていると、現場に出ていた三名が戻ってきた。全員、表情には疲れの色が見えている。
「暑いな……まだ五月だぞ……」
 氷姫幸宏は、入ってくるなりに上半身の服を脱ぎ捨てた。女性二人(入ってきた美穂を含めれば三人だが)の視線などおかまいなしに。幸宏の肉体は細身だが、意外にも筋肉がついている。
「あの……氷姫さん。冷房つけますから服着てください」
「別にいいだろ。なんだ? 俺の身体見て興奮してんのか、霧峰ちゃん」
「してません」
 あしらってからリモコンを手に取る。温度調整をしようとしたその時に、美穂に手を掴まれた。
「寒いからやめてよ」
「えっ……あっ、でも鵠さんも外暑かったんじゃ」
「ここに来るまでの冷房だけで事足りたわ。ほら、リモコン置きなさいよ」
 美穂に強く言われ、あんじゅは素直に従う。。リモコンがあんじゅの手を離れた瞬間に、幸宏がそれを取って、冷房をつけた。冷たい空気が、室内に一気に流れ込む。
「ちょっと! 寒いって言ったでしょうが!」
「知らねえよ。寒いんなら服着てろ」
 青筋を立てた美穂がリモコンを奪おうとするが、避けた幸宏がわざと温度を下げた。
「あんた、ふざけんじゃないわよ!」
「うっせえな、別にいいだろうが」
「暑いんなら、その鬱陶しい長い髪切ればいいでしょうが!」
 美穂の怒号が飛び、幸宏がそれに負けじと応戦しだした。あんじゅは、その場から逃げるように立ち去る。巻き込まれるのは、ごめんこうむる。
「あいつら、元気だな」
 京がミネラルウォーター片手に、あんじゅの方へとやってきた。
「あの、柚村さんそれどうしたんですか?」
 あんじゅは京の腕の包帯を見て訊く。
「……吸血鬼に噛まれた。だいぶ吸われたよ」
 わりと深刻なことなのに、軽い物言いだった。
「大丈夫ですか?」
「問題ないだろ」
「でも……能力種にありましたよね? 血を吸った相手に影響を与えるのが」
「そいつ普通の吸血鬼だったから、大丈夫だろ」
 京はそう言って水を飲む。目の前では、美穂と幸宏の諍いがまだ続いていた。
 あっ、とあんじゅは不意にあることを思い出した。
「あの、柚村さん。入院していた時なんですけど、女の人がお見舞いに来てました」
「女の人?」京は訝しんだ様子であんじゅを見てきた。
「はい。えっと、カウボーイハット被ってて──」
 そこで、京の目が一瞬見開かれた。あんじゅはそれに気がついたものの、止めることなく続けた。
「──それで、その女の人、一人称が僕だったんですけど」
 あんじゅは、そこで言葉に詰まってしまう。驚いた様子を見せた京だが、次の瞬間には顔を強張らせた。その表情に、あんじゅはどことなく恐ろしさを感じてしまう。京が手にしているペットボトルのへこむ音が、小さく聞こえた。
「柚村さん……?」
 声をかけた。でもなにを聞いていいか、あんじゅはわからないでいた。京の反応からして、見知った人なのだろう。でも、それを聞くのに、あんじゅは躊躇ってしまう。触れたところで自分には関係のないことなのかもしれないし、なにより、口にした時の京の表情を見て、それ以上踏み込んでいいのかわからなかった。
「……そいつ、名乗ったか?」
「いえ、でも……花束を渡してきました。メッセージカード付きで。確か、千尋って名前が書かれてました」
 あんじゅが名前を言っても、京は反応を示さなかった。驚きもしない。人物が予想通り、といった風に落ち着き払っている。
 扉の開く音がした。会議を終えた早見が戻って来た。いつものラフな格好とは違い、スカートスーツ姿できっちりとしている。黒縁眼鏡も様になっており、いつもと違う姿にあんじゅは思わず見とれてしまう。
「ただいまー……寒っ、この部屋寒くない!?」
 早見の反応を見て、美穂がほら見ろ、といった表情を幸宏に向ける。それでも両者の悶着は収まる様子はない。また啀み合いが始まった。
「あっ、あんじゅちゃんありがとうね」
 はい、と返すと、早見は沙耶のデスクへと向かっていった。
「どう? 沙耶ちゃんは?」
 屈託のない笑顔を見せる早見に、沙耶は先ほどの反省文を見せた。
「んー、短いけど、まあよし!」
 画面を覗き込んで頷くと、早見は沙耶の頭を撫でる。撫でられた方の沙耶は、少し鬱陶しそうにしていた。
「はーい、みんなー」
 早見の手の叩く音が響いた。自分のデスクに戻った早見は座るように促す。
「とりあえず本日の業務は終わり。夜間は他の隊が受け持つわ。というわけで、今日この後予定ある人ー?」
 テンション高く手を挙げる早見に、何人かが怪訝そうな面持ちになる。なにかいいことでもあったのだろうか。あんじゅは周りを見渡すが、誰も挙手するものはいない。
「なにかするんですか?」と京が訊いた。
「そうよ。大事なお仕事するから、あとでメールする場所に七時に集合」
 あんじゅは壁にかかった時計に目をやる。ちょうど二時間後だった。
「もう一度聞くけど、誰も予定ないのよね? ないなら来なさい。これは、隊長命令よ。来ないと、激おこぷんぷん丸だから」
 そう言って、早見は軽やかな足取りで出て行く。残された面々はそれぞれに事を再開する。リモコン争奪戦は、美穂の方が白旗を出したようで(というよりは、幸宏を相手にすることをやめたようだが)報告書をまとめにかかっていた。
「柚村さん」あんじゅは隣に座る京に訊ねる。
「なんだ?」
「……激おこぷんぷん丸ってなんですか?」
 京は考える素振りを見せたが、すぐにかぶりを振った。
 とりあえずあんじゅは、残っている仕事を片付けることにする。時間がかかっても、三十分ほどで終わるだろう。それにしても、なんの仕事なのだろうか。破顔した早見の顔はやけに楽しそうに見えたが。
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