Ambivalent

ユージーン

文字の大きさ
上 下
65 / 163
apoptosis

63.she makes me happy

しおりを挟む


「なにか飲みますか?」
 美濃原カイエにそう言われたあんじゅは、仕事の手を止めて紅茶を頼む。隊のオフィスには、コーヒーメーカーの他にも早見の持ってきた紅茶のパックが置いてある。
 紅茶を受け取り、一口飲むとあんじゅは息を吐いた。
「ありがとう」
「顔色が良くないですね」
「そう……かな?」
 言ってみたものの、なんとなくあんじゅもそれを自覚していた。その原因はわかっている。モールのこと。篠田未羽のことだ。
 助ける。そう約束したのに、それを守ることができなかった。自分の知らないところで決まっていた事柄。それに意を唱えることを許されなかった。あんじゅ自身も諦めが悪く、なにもかもが終わったのに考えてしまう時があった。救えたのではないか、と。
「責任を感じる必要はないですよ。そもそも、俺たちが責任を感じるのも変な話ですけど」
「そうかもしれません」
 確かに、カイエの言う通りではある。吸血鬼を殺す組織の人間なのに吸血鬼に同情するだなんて。
「けれど、……だから、守らなきゃって。ちゃんと収容所に送って、いつか吸血鬼から人間に戻る方法が見つかって、その時に……」
 あんじゅは自然と流れた一粒の涙を拭き取る。紅茶を一口啜ると、上條真樹夫がやってきた。
「あ、あの……」
「上條さん、どうかしましたか?」
「あの……あれ、く、鵠……さん……の」
 こもり声の真樹夫はおそるおそる鵠美穂を指差す。出社してから、美穂はソファに寝転んだまま、天井を見つめてほとんど動かなかった。
「その、頼みたい……えっと、仕事があるんだけど……」
「仕事?」
 代わりにやろうか、とあんじゅは言ってみたが、どうも美穂本人ではないとダメな用件らしく、真樹夫は困り顔になっていた。
「えっと……く、鵠さん……だ、大丈夫なの?」
 大丈夫、とは自信を持って口にできなかった。モールの事件で、美穂は沙耶を撃った。それは本人の意思ではなく、能力を持っている吸血鬼に噛まれたことによって引き起こされた。幸い死亡者は出なかったものの、事件以来美穂は完全に落ち込んでいる。以前のような高飛車な面影はどこにもなかった。
「私、ちょっと様子見てきます」
 あんじゅは紅茶を飲み干すと、ソファの方に向かった。
「あの……鵠さん」
 あんじゅが声をかけると、美穂は身体を起こした。
「……なによ?」
「えっと……大丈夫ですか?」
 なにも言わないまま、美穂は再びソファに身体を投げ出す。美穂はクッションを顔に埋めて、見える全てを遮断した。
「放っておいてよ。大丈夫だから」
「えっと、でも……」
「大丈夫って言ってるでしょ」
 強く言われて、それ以上は言葉の接ぎ穂が見つからない。仕方なしに、あんじゅはカイエたちの方へと戻っていく。
「美濃原くん、バトンタッチ……」
「……あまり話したことないんですけど」
 困り顔のまま、カイエは美穂のところへ足を運ぶ。遠くから様子を見ていると、カイエは起き上がった美穂に余計なお世話だのと怒られていた。みんな心配している、と素直に接していたカイエだが、美穂にボロクソに言われてからこちらに戻ってきた。
「えっと、なに言ったの?」
「別に。まあ元気そうだし、放置してても大丈夫だと思いますけど」
 そう言うとカイエは机に戻り仕事を再開した。元気そう、そうカイエは言ったが、あんじゅの見る限りとてもそうは見えない。なんとか活気を取り戻してくれる方法はないのだろうか。そんなことを考えていると、気の抜けたような声が部屋に広がった。
「うーっす」
「氷姫さん、おかえりなさい」
「寂しかったか、霧峰ちゃん」
「え? いえ……別に」
「ひっでえな、俺だって傷つくんだぞ」
「あはは……あれ?」
 戻ってきたのが幸宏だけなことにあんじゅは首をかしげる。確か、京と幸宏で沙耶を病院まで迎えに行ったはずだが。
「あの……柚村さんと綾塚さんは?」
「あいつらなら、なんか用事で呼ばれたよ。柴咲もいたぞ」
「柴咲さんが?」
「ああ。あいつここ辞めたのに、俺らと関わること多いよな」
 椅子に乱暴に腰掛けた幸宏は、沙耶の机を睨みつける。苛立っているのは明白だった。
「綾塚さんの様子はどうでしたか?」
「ピンピンしてたぜ、生意気言えるくらいにな」
「生意気って……氷姫さん、一応部下なんですから」
「俺は認めてねえ」
 相変わらず沙耶とは折り合いが悪いようだ。どうしてそこまでいがみ合うのかがあんじゅには理解できなかった。副隊長の地位とはそんなに役得が多いものなのだろうか。
「氷姫さんって、どうして副隊長の地位にこだわるんですか?」
「決まってんだろ。給料が上がるからだよ」
「他には?」
「それだけに決まってんだろ」
「ええっ……」
 あまりにも俗な理由に、あんじゅは拍子抜けした。幸宏に特別な理由があるのだろうと思ったが、なにもない。
「他の仕事探した方がいいんじゃないですか?」
「転職とか面倒じゃねえか。だいたい、この髪の俺をどこの企業が採用してくれるんだ?」
「面接で落とされますね……」
 長髪以外にも口の悪さという点があるが、そこは言わず、胸にしまうことにした。
「ところで鵠のやつ、ずっと寝てるけどなにしてやがんだ?」
「あの、この前の件で……」
 そう言ってあんじゅは説明する。
「……つまり、うちのスナイパーは、そのせいで落ちこんでんのか」
「なんとかして慰めてあげようと思ってるんですけど、どうしたらいいですか?」
「放っておけよ。副隊長は生きてんだぜ? なのに死んだみたいにウジウジジメジメしやがって。この梅雨時期で、ただでさえ湿気てんのに、誰かさんがうちのオフィスの湿度を上げてやがる」
 冷たい幸宏の態度にあんじゅは顔をしかめる。
「そこまで言わなくても……」
「どうせ聞こえてやしねえよ。言い返す気力もねえんだろうし。辛気臭い空気撒き散らすナメクジ女なんか──」
 突然、幸宏の顔にクッションが飛んできた。
「誰がナメクジよ!!」
 起き上がった美穂は踏み鳴らすような足取りで幸宏の方に向かっていった。
「辛気臭いだのなんだの好き勝手言ってくれてんじゃないわよ、このクソロン毛!」
「ああっ!? テメエがウジウジ落ち込んでるから慰めてやってんだろーが! 俺に感謝しやがれ!」
 両者の怒号が飛び交う。あんじゅは二人を止めようとしたが、巻き込まれそうな気がしたので足が止まる。大きな音が一つする度に、隣にいる真樹夫が小さな悲鳴をあげた。
「おらどうした、鵠。復活したんなら元気よく殴ってみろよ。ここだよ。まあ、テメエのヘナチョコパンチなんざ、痛くも──」
 そこで幸宏の言葉は終わった。言い終える前に美穂に殴り飛ばされたから。美穂の拳は幸宏の頬に命中し、幸宏はそのまま副隊長の──沙耶の机まで吹き飛んでいった。
「ヘナチョコパンチの味はどうよ、気に入った?」
 幸宏はなにも答えない。安否を確認しに行ったカイエは様子を見て
「……死んだんですか?」
「気絶してるだけです」
 不意に扉の開く音がする。現れたのは綾塚沙耶で、自分のデスクの惨状を目の当たりにして、一瞬だけ目を丸くした。ため息を吐くと、沙耶は真樹夫を指名して訊いた。
「上條、なにがあった?」
 事態の追求に真樹夫を選んだのは、得策とも言える。口数も少なく喋ることが苦手なので、アドリブの機転も利かないだろう。くぐもりながらも、真樹夫は沙耶に全てを説明した。
「わかった、ありがとう」
 聞き終えた沙耶は静かに頷く。そして、美穂の元へと向かっていった。
「鵠」
「は、はい」
「私は大丈夫だ。お前もいい加減に元気を出せ」
 沙耶はつま先立ちになると、自分よりも背丈のある美穂の髪を優しく撫でる。その光景を見たあんじゅは、どこか微笑ましく思えた。
「いい射撃の腕だ。これからも頼りにしてる」
「は、はい……あの、もちろんです!」
 美穂にその言葉を送り届けた沙耶は室内を見渡す。
「京は?」
「柚村さんですか? 戻られてないですけど」
「そうか。鵠、机はちゃんと片付けておけ」
 美穂が「はい」と返事を返すと、沙耶は再びオフィスから出て行った。倒れている幸宏には一瞥しただけで気にかける様子もないまま。
「撫でらてた……沙耶さんに……頭……ふへへ……」
 当の本人が去った直後に、美穂は笑顔を見せた。口角が緩みすぎて、少しばかり不気味に見える笑顔。
「よかったですね、鵠さん」
「な、なによ……べ、別に……いや、嬉しいけど……」
 耳まで真っ赤に染まった美穂は再びクッションに顔を埋める。元気になってくれたようで、あんじゅは胸をなで下ろした。
「そういえば上條。なにか仕事あるんでしょ? 後でやっとくから、私のパソコンにさっさと送りなさいよ」
「えっ、あ……うん……」
「ったく、チンタラしてんじゃないわよ。男なんだからシャキッとしなさい」
 真樹夫に向ける厳しい口調はいつも通りのままだが、美穂の口元は綻んでいる。隠そうと思っても無意識にそう笑顔になってしまうのだろう。
「も、もしかして……」
 あんじゅに向かって真樹夫がぼそりと呟く。
「さっ、最初から……慰め……えっと、綾塚さんが慰めてればよかったんじゃ……」
 その指摘に、あんじゅは納得して頷く。確かに、自分たちが美穂にどんな工夫を凝らした慰めをしようとも、沙耶の一言の方がはるかに効果がありそうだった。
 美穂は口笛を吹かせて、沙耶の机の片付けにとりかかる。殴られた氷姫幸宏は気絶したまま、カイエによってソファに運ばれた。
しおりを挟む

処理中です...