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一方その頃、公爵は
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朝の光が照らす中、重厚な馬車が軋む音を立てて止まり、扉が開く。
そこから降り立ったのは深い紺の外套をまとったクロエの父、カレンデュラ公爵であった。白銀の髪に薄く陽が差し、その面差しには長年の政務で培われた静かな威厳が宿っている。
出迎えの従者に案内され、公爵は娘の婚約者の家であるリンデン公爵家の屋敷の玄関前に立つ。
扉が開かれると、奥から優雅な足音と共に婚約者の母――リンデン公爵夫人がやってきた。穏やかな微笑みを浮かべながらも、その瞳には突然やって来た格上の相手への緊張感が滲み出ている。
「お久しゅうございます、公爵閣下。当家へようこそお越しくださいました」
さすがは高位の貴族夫人だけあって、先触れもなく突然訪れた公爵に対しても怪訝なそぶりひとつ見せず、むしろ歓迎の意を示した。しかし、その内心では緊張と不安と困惑が入り乱れている。おそらく——いや、確実に。公爵がこの屋敷を訪れた理由はひとつしかない。レオナルドのクロエに対する無礼な態度を咎めるためだ。
「突然の訪問、誠に失礼。少々、ご子息のことで話したいことがありましてな」
「……畏まりました。では、応接間へどうぞ。お茶をご用意いたしますね」
リンデン夫人は内心で「やっぱり……」と愕然とした。覚悟はしていたはずなのに、こうして突きつけられると焦燥が一気に胸を締めつけ、冷や汗が滲む。その心の内を悟られぬよう、必死に冷静を装いながら、夫人は公爵を応接間へ案内した。
応接間へと着くと、二人は互いに礼を交わし、椅子に腰を下ろす。
しばらくしてリンデン家の執事が茶を置いて下がると、公爵はゆっくりとそのカップに手を伸ばす――が、口をつけることはしなかった。静寂の中、彼の蒼い瞳が真正面に座る夫人を静かに見据える。
「……さて、夫人も社交界の噂は耳にしていると思いますが――」
その声には、父としての情と、公爵としての責務の両方が重なっていた。
リンデン夫人は黙して公爵の言葉に耳を傾け、緊張に思わず息を呑む。
「ご子息が、我が娘クロエを愚弄していると聞きましてな……。この件、夫人は母としてどうお考えかお伺いしたい」
低く落ち着いた声。その響きに、夫人の肩がわずかに強張る。
彼女は微笑みを保ちながらも、指先は膝の上で強くドレスの裾を掴んでいた。
「……ええ、勿論存じております。すべてはわたくしの不徳の致すところ。婚約者に対してそのような不作法を働く息子に育ててしまいましたのは、ひとえに母親であるわたくしの責任でございます」
「ほう……貴女の教育の責任と言いますと、貴家では我が娘を愚弄するような言葉を常日頃から吐いているということでしょうか?」
「滅相もございません! わたくしがクロエ様を悪く言うなど、家名に誓ってあり得ぬことでございます!」
「では、何故ご子息は我が娘にドレスの一枚も贈らないばかりか、ガラクタも同然の品を送りつけていたのでしょう? かような非常識な振る舞いは、ご子息が我が娘を──ひいては我が家を軽んじておられるがゆえの行為に他なりません」
柔らかな口調の奥に潜む刃のような言葉が夫人の胸を貫き、顔から血の気が引いた。
公爵はリンデン家自体がカレンデュラ家を見下しているからこそ、レオナルドがあのような非常識な真似を平然とするのだと思い込んでいる。それはまったくの誤解だと、夫人は必死に弁明した。
「まさか……! そのようなこと、決してございません! どうして当家が大恩ある貴家を軽んじることが出来ましょうや。愚息の分別つかぬ行動と、当家の貴家に対する感謝の気持ちはまったくの別物にございます!」
「ではどうしてご子息はそのような分別つかぬ真似を?娘を辱めるようなことが続くなら、この婚約の見直しもやむを得ぬと考えております」
「………………ッ!!」
公爵のその言葉に、夫人は深く頭を垂れた。
震える唇でやっとの思いで言葉を紡ぐ。
「……必ず、息子に厳しく申し伝えます。どうか……どうか、もう少しだけお時間を」
「時間……ね。そうは言っても、いたずらに娘の貴重な若さを浪費するわけにもいかないでしょう。……私はね、ご子息ならば娘を大切にしてくれると見込んでこそ、婚約を結んだのですよ。亡くなった妻が遺していった大切な娘を……生涯守り抜いてくれる男だと、そう思ったからこそ婚約を承諾した。なのに、この有様では妻に顔向けできぬ……」
額に手をあて、辛そうにうつむいた公爵を前に夫人はそれ以上何も言えなかった。
父親としての公爵の気持ちを考えると、申し訳なさで胸が潰れてしまいそうになる。
そして、それ以上に傷ついているであろうクロエのことを考えると、レオナルドとの婚約を解消してしまった方がいいのは分かってた。だが、そうなると王太子によく思われていないリンデン家が社交界から爪はじきにされる未来しか見えない。
この婚約こそが家の名誉回復の命綱。夫人はそれを痛いほど分かっているからこそ、何と言葉を紡いでいいのか分からない。それに彼女自身も息子が何故そのような真似をしたのか理解できないでいる。何故、大恩ある家の息女にそんな非常識で無礼な真似を平然とするのか。実の息子ながら頭がおかしくなってしまったのかと思えるような行為だ。
弁解の言葉を必死に探す夫人の耳に、ふと外から馬車の音が届いた。
そこから降り立ったのは深い紺の外套をまとったクロエの父、カレンデュラ公爵であった。白銀の髪に薄く陽が差し、その面差しには長年の政務で培われた静かな威厳が宿っている。
出迎えの従者に案内され、公爵は娘の婚約者の家であるリンデン公爵家の屋敷の玄関前に立つ。
扉が開かれると、奥から優雅な足音と共に婚約者の母――リンデン公爵夫人がやってきた。穏やかな微笑みを浮かべながらも、その瞳には突然やって来た格上の相手への緊張感が滲み出ている。
「お久しゅうございます、公爵閣下。当家へようこそお越しくださいました」
さすがは高位の貴族夫人だけあって、先触れもなく突然訪れた公爵に対しても怪訝なそぶりひとつ見せず、むしろ歓迎の意を示した。しかし、その内心では緊張と不安と困惑が入り乱れている。おそらく——いや、確実に。公爵がこの屋敷を訪れた理由はひとつしかない。レオナルドのクロエに対する無礼な態度を咎めるためだ。
「突然の訪問、誠に失礼。少々、ご子息のことで話したいことがありましてな」
「……畏まりました。では、応接間へどうぞ。お茶をご用意いたしますね」
リンデン夫人は内心で「やっぱり……」と愕然とした。覚悟はしていたはずなのに、こうして突きつけられると焦燥が一気に胸を締めつけ、冷や汗が滲む。その心の内を悟られぬよう、必死に冷静を装いながら、夫人は公爵を応接間へ案内した。
応接間へと着くと、二人は互いに礼を交わし、椅子に腰を下ろす。
しばらくしてリンデン家の執事が茶を置いて下がると、公爵はゆっくりとそのカップに手を伸ばす――が、口をつけることはしなかった。静寂の中、彼の蒼い瞳が真正面に座る夫人を静かに見据える。
「……さて、夫人も社交界の噂は耳にしていると思いますが――」
その声には、父としての情と、公爵としての責務の両方が重なっていた。
リンデン夫人は黙して公爵の言葉に耳を傾け、緊張に思わず息を呑む。
「ご子息が、我が娘クロエを愚弄していると聞きましてな……。この件、夫人は母としてどうお考えかお伺いしたい」
低く落ち着いた声。その響きに、夫人の肩がわずかに強張る。
彼女は微笑みを保ちながらも、指先は膝の上で強くドレスの裾を掴んでいた。
「……ええ、勿論存じております。すべてはわたくしの不徳の致すところ。婚約者に対してそのような不作法を働く息子に育ててしまいましたのは、ひとえに母親であるわたくしの責任でございます」
「ほう……貴女の教育の責任と言いますと、貴家では我が娘を愚弄するような言葉を常日頃から吐いているということでしょうか?」
「滅相もございません! わたくしがクロエ様を悪く言うなど、家名に誓ってあり得ぬことでございます!」
「では、何故ご子息は我が娘にドレスの一枚も贈らないばかりか、ガラクタも同然の品を送りつけていたのでしょう? かような非常識な振る舞いは、ご子息が我が娘を──ひいては我が家を軽んじておられるがゆえの行為に他なりません」
柔らかな口調の奥に潜む刃のような言葉が夫人の胸を貫き、顔から血の気が引いた。
公爵はリンデン家自体がカレンデュラ家を見下しているからこそ、レオナルドがあのような非常識な真似を平然とするのだと思い込んでいる。それはまったくの誤解だと、夫人は必死に弁明した。
「まさか……! そのようなこと、決してございません! どうして当家が大恩ある貴家を軽んじることが出来ましょうや。愚息の分別つかぬ行動と、当家の貴家に対する感謝の気持ちはまったくの別物にございます!」
「ではどうしてご子息はそのような分別つかぬ真似を?娘を辱めるようなことが続くなら、この婚約の見直しもやむを得ぬと考えております」
「………………ッ!!」
公爵のその言葉に、夫人は深く頭を垂れた。
震える唇でやっとの思いで言葉を紡ぐ。
「……必ず、息子に厳しく申し伝えます。どうか……どうか、もう少しだけお時間を」
「時間……ね。そうは言っても、いたずらに娘の貴重な若さを浪費するわけにもいかないでしょう。……私はね、ご子息ならば娘を大切にしてくれると見込んでこそ、婚約を結んだのですよ。亡くなった妻が遺していった大切な娘を……生涯守り抜いてくれる男だと、そう思ったからこそ婚約を承諾した。なのに、この有様では妻に顔向けできぬ……」
額に手をあて、辛そうにうつむいた公爵を前に夫人はそれ以上何も言えなかった。
父親としての公爵の気持ちを考えると、申し訳なさで胸が潰れてしまいそうになる。
そして、それ以上に傷ついているであろうクロエのことを考えると、レオナルドとの婚約を解消してしまった方がいいのは分かってた。だが、そうなると王太子によく思われていないリンデン家が社交界から爪はじきにされる未来しか見えない。
この婚約こそが家の名誉回復の命綱。夫人はそれを痛いほど分かっているからこそ、何と言葉を紡いでいいのか分からない。それに彼女自身も息子が何故そのような真似をしたのか理解できないでいる。何故、大恩ある家の息女にそんな非常識で無礼な真似を平然とするのか。実の息子ながら頭がおかしくなってしまったのかと思えるような行為だ。
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