物語の幕は上がらない

わらびもち

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件のパン屋へ

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 黒塗りの馬車が街角のパン屋の前に静かに停まる。朝の光を受けて金の家紋が鈍く輝いていた。
 その中でリンデン家の嫡男は座席に背筋を伸ばし、窓の向こうをじっと見つめていた。

「ここが件の娘がいる店か……」

 窓の外から店を眺め、嫡男は小さな声で呟いた。昨日、トマスに尋問して得た情報によると、ここにレオナルドを誑かした平民の娘”シェリー”がいるという。

「若様、娘は私が迎えてまいります。どうぞここでお待ちください」

 嫡男は従者の申し出に短く頷く。従者はすぐさま馬車から離れ、足早に店へと向かっていった。
 店の扉が開くと、香ばしい匂いが従者の花をくすぐる。

「い、いらっしゃいませ……」
 
 店内には客の姿はない。エプロンをつけた恰幅のいい女性店員が、高貴な家に仕える従者の装いをした男の来訪に驚きを隠せないでいる。そんな戸惑った姿の女性店員に従者は柔らかな笑みを浮かべて近づいた。

「失礼いたします、マダム。少々お聞きしたいのですが……こちらに”シェリー”という名のレディはいらっしゃいますか?」

「え? シェリーですか? はい、あの子はうちの店員ですが……なにか?」

「さようでございますか。実は少々お話し申し上げたいことがございまして、シェリー嬢はおいででしょうか?」

「あ……は、はい。奥にいますので只今呼んで参ります。少々、お待ちを」

 拒絶する余地を与えないほど洗練された従者の物腰に、女性店員は慌てた様子で奥へと引っ込んでいく。
 しばらく奥で騒がしい声が響いたかと思うと、一人の少女が店員に手を引かれて出てきた。
 少女は従者の姿を見るなり目を細め、まるで探し物を見つけたかのように指を突き出した。

「ちょっと、その服! の服と同じじゃない? なに? あんた、トマスの代理?」

「ちょっとシェリー、やめなさいッ! 無礼でしょうが!」

「だって女将さん、あの服トマスと同じだよ? あの変に堅苦しい刺繍と色! 絶対そうでしょ!」

 あまりにも無礼過ぎる娘の態度に店員が顔色を変え、娘の指を慌てて押し下げる。
 娘──シェリーは悪びれもせず従者をじろじろ観察し始めた。
 その瞬間、従者の胸中に微かな苛立ちが走る。普段なら冷静に対応できる彼だが、この娘の無遠慮さには表情に出さずとも強い嫌悪感が芽生えた。しかし、彼は表面上は礼を崩さず、静かに答える。

「……少々、お話したいことがございます。店内ではお邪魔になりますので、外までお越し願えますか」

「ふーん。いいけど。どうせレオのことでしょ?」

 面倒くさそうに答え、公爵家の子息を渾名で呼ぶシェリーに従者からわずかに殺気が漏れ出る。
 聞き間違いでなければ先程トマスのことも呼び捨てにしていた。ただの平民の娘が、下位とはいえ貴族のトマスを。
 ここまで無礼で身の程知らずな娘にレオナルドが心を奪われているのかと思うと、嫌悪と信じられなさで胸が震える。こんな、カレンデュラ家の令嬢に勝るものなど一つもない娘の何処に惹かれたというのか。レオナルドもトマスも趣味が悪い、と吐き捨てたくなった。

「お客様……うちの店員が申し訳ございません」
 
 女性店員が真っ青な顔で深々と頭を下げているのが哀れでならない。
 それと同時に、客商売であるにもかかわらずよくもこんな無礼な女を雇っていられるものだと理解に苦しむ。
 
 外へ出た途端、シェリーの視線は馬車へ吸い寄せられた。扉に刻まれた紋章を見てさらに目を丸くする。

「……うわ、なにこれ。でっか。金ピカ!」

 明け透けな物言いに従者は眉を顰め、馬車の扉を開ける。
 本心ではこんな無礼で下品な娘を主人に近づけたくない。だが、その主人からの命令なので致し方なく案内した。

「こちらへ。中で主人がお待ちです」

 シェリーは好奇心を隠しもせず馬車に乗り込む。内心で嫌悪の感情を膨らませながらも従者は静かに扉を閉めた。
 
 馬車の中、嫡男は悠然とした態度でシェリーを迎える。
 その装いと優雅な佇まいから相手が高貴な身分だと明らかだというのに、シェリーは不躾な態度のまま腰を下ろし、彼の顔をじっと見つめた。

「で、あんた誰? レオの知り合い?」

 あまりにも無礼な物言いに嫡男は眩暈を覚えたが、それを表に出さず静かにシェリーを見返した。
 
「私はレオナルドの兄だ。君がレオナルドの愛人か?」

 シェリーに会うまでは、正式に名乗りを上げて挨拶するつもりでいた。だが、これほど無礼な相手に礼を尽くす気にはなれず、嫡男は単刀直入に要件を伝える。

「は? 何、その言い方! 私はレオの恋人よ! 愛人なんて言って馬鹿にしないで!」

「言い方などどうでもいい。婚約者がいる男が愛玩する女の呼び名は”愛人”だ。まあ、それも今日限りで終わる。もう君と愚弟を会わせることはない」

 彼の物言いに一瞬キョトンとするシェリーだが、すぐに不機嫌な顔で頬を膨らました。

「何それー? いくらお兄さんだからって、弟の恋愛にまで口出しする?」

「……平民の君には貴族のことなど分からないかもしれないが、それが貴族の常識だ。同じ公爵家とはいえ、子息でしかない愚弟と、次期当主の私では手にする権力が違う。貴族において、当主の命令は絶対だ。口出す権利が私にはある」

「えー? そんなの酷い! レオナルドが可哀想よ!」

「何とでも言うがいい。どうせ、平民の君には貴族のことなど理解できないだろう。いくら君や愚弟が文句を言おうとも無駄だ。公爵の命令に背けるわけがないのだから」

 彼は今はまだ嫡男という立場だが、その気になればいつでも父親から当主の座を奪って自分がその座に就くことが出来る。あの頭がことごとく弱くなったレオナルドには当主として命じた方が早いかもしれない──そう考えながら彼はシェリーをまじまじと眺めた。

(多少見目はいいかもしれんが、それを台無しにするほど中身は下品だな。弟は、こんな幼子でも出来る礼儀すら学べていない無礼な女の何がいいのやら……)

 ここに来るまではレオナルドとトマスが傾倒するくらい魅力ある娘を想像していた。
 だが、実際会ってみると下品で粗野で無礼で、どこに何の魅力があるのか皆目見当つかないほど酷い。
 もう少し慎ましい女性であったなら、こちらも礼を尽くして弟と別れるよう説得するつもりだったのだが、こんな礼儀知らずには必要以上に会話するだけ無駄だ。要件だけ告げたらさっさと帰すか、と思っていたところに急にシェリーはニヤニヤと下卑た笑いをし始めた。

「ふーん……ならさ、レオだって、私も、お兄さんとは対等になるよね?」

「は…………?」

 シェリーの突如として放たれたその言葉に、彼はただ言葉を失う。
 すぐには理解出来ず、深い衝撃の中で唖然として目を丸くするのだった。
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