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幸せだった日々
(所有物、か…………)
湯殿に満ちていた蒸気が薄れ、花弁が浮かぶ湯面にも静けさが戻っていた。
エルザはゆるやかに身を起こし、湯の中から白磁のような肌を現す。すぐさま控えていた女官たちが寄り添い、絹布を広げてその身を包み取った。濡れた肌に布が貼りつくたび、花の蜜のような香りがふわりと空気に溶けていく。
「第六夫人様、こちらへ」
もうひとりの女官が大理石の床を渡るようにして案内する。
奥まった一角、厚手のカーテンに囲まれた脱衣の間。そこにはすでに、身支度のすべてが整えられていた。
クッションの並ぶ低い長椅子に腰を下ろすと、すぐに女官たちが左右から取り囲み、乾いた布でそっと肌を押さえる。力を入れず、ただ水分を吸わせるように。足元から順に、丁寧に、礼を尽くすような手つきだった。
次に香油が塗られる。黄金色に輝く液体が掌で温められ、足首からふくらはぎ、腕、首筋へと運ばれていく。油はすぐに肌に吸い込まれ、わずかに艶を残すだけ。髪はすでに別の女官が梳き始めていた。白檀の櫛で根元から梳かし、絡まりひとつ許さぬよう時間をかけて整える。宝石のように並べられた香の小瓶から、今日はナツメグとサフランの香りが選ばれた。
「……この匂い、あまり好きじゃないのだけど……」
嗅ぎなれない香りに顔をしかめたエルザに、女官は驚いたように口を開いた。
「こちらは旦那様がお好きな香りでございます。本日はこちらを使用するよう仰せつかっております。誠に恐れ入りますが、何卒ご理解賜りますようお願い申し上げます」
丁寧な言葉遣いだが、暗に「お前に拒否権などない」と言われているのはエルザにも分かる。
ここではまるでお姫様のように扱われるが、彼女の意見が聞き入れられることはない。
すべてをあの男のために捧げることを強要される。
「お召し物を」
声とともに、薄絹の衣が差し出される。深紅に金糸を織り交ぜた透けるような上衣、その下には滑らかな藍色のガーゼ、そして腰には真珠の飾り紐が結ばれる。
(なんなのよ、このはしたない服は……)
肌を露出することは、はしたないと忌避されていた国で生まれ育ったエルザにとって、この透ける布地を身につけることには抵抗がある。エルザも大胆に肌を露出させたドレスを身に纏ったことはあるが、あれとは比べ物にならないほど見える肌の面積が広い。
この国で女性は皆この衣装を身に着けるというのであれば、まだ納得できた。
だが女官たちの衣装は少しも肌が透けて見えない。しっかりとした厚地の布で作られた衣装を身に纏っている。
ということは、これはエルザのために用意されたものだと理解せざるを得ない。
すべてはあの男──旦那様と呼ばれている彼の為だと思うと吐き気がする。
「それでは朝食をご用意させていただきますので、お部屋でお待ちください」
「……食欲がないの。あまり食べたくないわ」
「いえ、しっかり召し上がっていただかなくては旦那様のお相手は務まりません。お勤めをしっかり果たせるよう、頑張ってください」
「………………」
こんなふうに、エルザの行動は一から十まであの男のために決められてしまう。
そこに拒否権は存在せず、断れば強制的に従わされる。
(ここにいる人たちは私の意志なんてどうでもよいのだわ……。……あの人ならば、こんな風に私の意見を無視することもなかったのに)
ほろりと涙が零れる。あの人とは、散々蔑ろにしてきた前の夫のことだ。
エルザがここに来てから思い浮かべるのは、かつて何人もの女の人生を踏み台にしてまで手に入れようとした初恋の相手──レイモンドではない。今の彼女の心を占めているのは別れた夫、ミスティ子爵だった。
──こんなはずではなかった。
この地に足を踏み入れて以来、エルザの胸には後悔の念ばかりが渦巻いていた。
思い出すのは、かつての夫との退屈ながらも平和な日々。夫は、初恋の相手レイモンドのように華やかな美貌を持ち合わせてはいない、地味な男だった。所作も言葉も洗練されておらず、どこか野暮ったい。
けれど、彼はまっすぐ自分を愛してくれた。大切にしてくれた。彼はエルザを所有物とは決して扱わず、口煩いながらもこちらの意志を尊重してくれたのだ。
「あんなに大切にしてくれたのに、愛してくれたのに……どうしてあの手を離してしまったのかしら」
後悔は、日に日に深くなっていた。
失って初めて分かる。夫との生活がどれだけ穏やかで幸せだったかが……。
湯殿に満ちていた蒸気が薄れ、花弁が浮かぶ湯面にも静けさが戻っていた。
エルザはゆるやかに身を起こし、湯の中から白磁のような肌を現す。すぐさま控えていた女官たちが寄り添い、絹布を広げてその身を包み取った。濡れた肌に布が貼りつくたび、花の蜜のような香りがふわりと空気に溶けていく。
「第六夫人様、こちらへ」
もうひとりの女官が大理石の床を渡るようにして案内する。
奥まった一角、厚手のカーテンに囲まれた脱衣の間。そこにはすでに、身支度のすべてが整えられていた。
クッションの並ぶ低い長椅子に腰を下ろすと、すぐに女官たちが左右から取り囲み、乾いた布でそっと肌を押さえる。力を入れず、ただ水分を吸わせるように。足元から順に、丁寧に、礼を尽くすような手つきだった。
次に香油が塗られる。黄金色に輝く液体が掌で温められ、足首からふくらはぎ、腕、首筋へと運ばれていく。油はすぐに肌に吸い込まれ、わずかに艶を残すだけ。髪はすでに別の女官が梳き始めていた。白檀の櫛で根元から梳かし、絡まりひとつ許さぬよう時間をかけて整える。宝石のように並べられた香の小瓶から、今日はナツメグとサフランの香りが選ばれた。
「……この匂い、あまり好きじゃないのだけど……」
嗅ぎなれない香りに顔をしかめたエルザに、女官は驚いたように口を開いた。
「こちらは旦那様がお好きな香りでございます。本日はこちらを使用するよう仰せつかっております。誠に恐れ入りますが、何卒ご理解賜りますようお願い申し上げます」
丁寧な言葉遣いだが、暗に「お前に拒否権などない」と言われているのはエルザにも分かる。
ここではまるでお姫様のように扱われるが、彼女の意見が聞き入れられることはない。
すべてをあの男のために捧げることを強要される。
「お召し物を」
声とともに、薄絹の衣が差し出される。深紅に金糸を織り交ぜた透けるような上衣、その下には滑らかな藍色のガーゼ、そして腰には真珠の飾り紐が結ばれる。
(なんなのよ、このはしたない服は……)
肌を露出することは、はしたないと忌避されていた国で生まれ育ったエルザにとって、この透ける布地を身につけることには抵抗がある。エルザも大胆に肌を露出させたドレスを身に纏ったことはあるが、あれとは比べ物にならないほど見える肌の面積が広い。
この国で女性は皆この衣装を身に着けるというのであれば、まだ納得できた。
だが女官たちの衣装は少しも肌が透けて見えない。しっかりとした厚地の布で作られた衣装を身に纏っている。
ということは、これはエルザのために用意されたものだと理解せざるを得ない。
すべてはあの男──旦那様と呼ばれている彼の為だと思うと吐き気がする。
「それでは朝食をご用意させていただきますので、お部屋でお待ちください」
「……食欲がないの。あまり食べたくないわ」
「いえ、しっかり召し上がっていただかなくては旦那様のお相手は務まりません。お勤めをしっかり果たせるよう、頑張ってください」
「………………」
こんなふうに、エルザの行動は一から十まであの男のために決められてしまう。
そこに拒否権は存在せず、断れば強制的に従わされる。
(ここにいる人たちは私の意志なんてどうでもよいのだわ……。……あの人ならば、こんな風に私の意見を無視することもなかったのに)
ほろりと涙が零れる。あの人とは、散々蔑ろにしてきた前の夫のことだ。
エルザがここに来てから思い浮かべるのは、かつて何人もの女の人生を踏み台にしてまで手に入れようとした初恋の相手──レイモンドではない。今の彼女の心を占めているのは別れた夫、ミスティ子爵だった。
──こんなはずではなかった。
この地に足を踏み入れて以来、エルザの胸には後悔の念ばかりが渦巻いていた。
思い出すのは、かつての夫との退屈ながらも平和な日々。夫は、初恋の相手レイモンドのように華やかな美貌を持ち合わせてはいない、地味な男だった。所作も言葉も洗練されておらず、どこか野暮ったい。
けれど、彼はまっすぐ自分を愛してくれた。大切にしてくれた。彼はエルザを所有物とは決して扱わず、口煩いながらもこちらの意志を尊重してくれたのだ。
「あんなに大切にしてくれたのに、愛してくれたのに……どうしてあの手を離してしまったのかしら」
後悔は、日に日に深くなっていた。
失って初めて分かる。夫との生活がどれだけ穏やかで幸せだったかが……。
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