どうして許されると思ったの?

わらびもち

文字の大きさ
131 / 136

幸せだった日々

(所有物、か…………)

 湯殿に満ちていた蒸気が薄れ、花弁が浮かぶ湯面にも静けさが戻っていた。
 エルザはゆるやかに身を起こし、湯の中から白磁のような肌を現す。すぐさま控えていた女官たちが寄り添い、絹布を広げてその身を包み取った。濡れた肌に布が貼りつくたび、花の蜜のような香りがふわりと空気に溶けていく。

「第六夫人様、こちらへ」

 もうひとりの女官が大理石の床を渡るようにして案内する。
 奥まった一角、厚手のカーテンに囲まれた脱衣の間。そこにはすでに、身支度のすべてが整えられていた。

 クッションの並ぶ低い長椅子に腰を下ろすと、すぐに女官たちが左右から取り囲み、乾いた布でそっと肌を押さえる。力を入れず、ただ水分を吸わせるように。足元から順に、丁寧に、礼を尽くすような手つきだった。

 次に香油が塗られる。黄金色に輝く液体が掌で温められ、足首からふくらはぎ、腕、首筋へと運ばれていく。油はすぐに肌に吸い込まれ、わずかに艶を残すだけ。髪はすでに別の女官が梳き始めていた。白檀の櫛で根元から梳かし、絡まりひとつ許さぬよう時間をかけて整える。宝石のように並べられた香の小瓶から、今日はナツメグとサフランの香りが選ばれた。

「……この匂い、あまり好きじゃないのだけど……」

 嗅ぎなれない香りに顔をしかめたエルザに、女官は驚いたように口を開いた。

「こちらは旦那様がお好きな香りでございます。本日はこちらを使用するよう仰せつかっております。誠に恐れ入りますが、何卒ご理解賜りますようお願い申し上げます」

 丁寧な言葉遣いだが、暗に「お前に拒否権などない」と言われているのはエルザにも分かる。
 ここではまるでお姫様のように扱われるが、彼女の意見が聞き入れられることはない。
 すべてをあの男のために捧げることを強要される。

「お召し物を」

 声とともに、薄絹の衣が差し出される。深紅に金糸を織り交ぜた透けるような上衣、その下には滑らかな藍色のガーゼ、そして腰には真珠の飾り紐が結ばれる。

(なんなのよ、このはしたない服は……)

 肌を露出することは、はしたないと忌避されていた国で生まれ育ったエルザにとって、この透ける布地を身につけることには抵抗がある。エルザも大胆に肌を露出させたドレスを身に纏ったことはあるが、あれとは比べ物にならないほど見える肌の面積が広い。

 この国で女性は皆この衣装を身に着けるというのであれば、まだ納得できた。
 だが女官たちの衣装は少しも肌が透けて見えない。しっかりとした厚地の布で作られた衣装を身に纏っている。

 ということは、これはエルザのために用意されたものだと理解せざるを得ない。
 すべてはあの男──旦那様と呼ばれている彼の為だと思うと吐き気がする。

「それでは朝食をご用意させていただきますので、お部屋でお待ちください」

「……食欲がないの。あまり食べたくないわ」

「いえ、しっかり召し上がっていただかなくては旦那様のお相手は務まりません。お勤めをしっかり果たせるよう、頑張ってください」

「………………」

 こんなふうに、エルザの行動は一から十まであの男のために決められてしまう。
 そこに拒否権は存在せず、断れば強制的に従わされる。

(ここにいる人たちは私の意志なんてどうでもよいのだわ……。……あの人ならば、こんな風に私の意見を無視することもなかったのに)

 ほろりと涙が零れる。あの人とは、散々蔑ろにしてきた前の夫のことだ。
 エルザがここに来てから思い浮かべるのは、かつて何人もの女の人生を踏み台にしてまで手に入れようとした初恋の相手──レイモンドではない。今の彼女の心を占めているのは別れた夫、ミスティ子爵だった。

 ──こんなはずではなかった。

 この地に足を踏み入れて以来、エルザの胸には後悔の念ばかりが渦巻いていた。

 思い出すのは、かつての夫との退屈ながらも平和な日々。夫は、初恋の相手レイモンドのように華やかな美貌を持ち合わせてはいない、地味な男だった。所作も言葉も洗練されておらず、どこか野暮ったい。
 けれど、彼はまっすぐ自分を愛してくれた。大切にしてくれた。彼はエルザを所有物とは決して扱わず、口煩いながらもこちらの意志を尊重してくれたのだ。

「あんなに大切にしてくれたのに、愛してくれたのに……どうしてあの手を離してしまったのかしら」

 後悔は、日に日に深くなっていた。
 失って初めて分かる。夫との生活がどれだけ穏やかで幸せだったかが……。
 

あなたにおすすめの小説

完結 辺境伯様に嫁いで半年、完全に忘れられているようです   

ヴァンドール
恋愛
実家でも忘れられた存在で 嫁いだ辺境伯様にも離れに追いやられ、それすら 忘れ去られて早、半年が過ぎました。

【完結】初めて嫁ぎ先に行ってみたら、私と同名の妻と嫡男がいました。さて、どうしましょうか?

との
恋愛
「なんかさぁ、おかしな噂聞いたんだけど」 結婚式の時から一度もあった事のない私の夫には、最近子供が産まれたらしい。 夫のストマック辺境伯から領地には来るなと言われていたアナベルだが、流石に放っておくわけにもいかず訪ねてみると、 えっ? アナベルって奥様がここに住んでる。 どう言う事? しかも私が毎月支援していたお金はどこに? ーーーーーー 完結、予約投稿済みです。 R15は、今回も念の為

離婚する両親のどちらと暮らすか……娘が選んだのは夫の方だった。

しゃーりん
恋愛
夫の愛人に子供ができた。夫は私と離婚して愛人と再婚したいという。 私たち夫婦には娘が1人。 愛人との再婚に娘は邪魔になるかもしれないと思い、自分と一緒に連れ出すつもりだった。 だけど娘が選んだのは夫の方だった。 失意のまま実家に戻り、再婚した私が数年後に耳にしたのは、娘が冷遇されているのではないかという話。 事実ならば娘を引き取りたいと思い、元夫の家を訪れた。 再び娘が選ぶのは父か母か?というお話です。

【完結】え、別れましょう?

須木 水夏
恋愛
「実は他に好きな人が出来て」 「は?え?別れましょう?」 何言ってんだこいつ、とアリエットは目を瞬かせながらも。まあこちらも好きな訳では無いし都合がいいわ、と長年の婚約者(腐れ縁)だったディオルにお別れを申し出た。  ところがその出来事の裏側にはある双子が絡んでいて…?  だる絡みをしてくる美しい双子の兄妹(?)と、のんびりかつ冷静なアリエットのお話。   ※毎度ですが空想であり、架空のお話です。史実に全く関係ありません。 ヨーロッパの雰囲気出してますが、別物です。

お嬢様はお亡くなりになりました。

豆狸
恋愛
「お嬢様は……十日前にお亡くなりになりました」 「な……なにを言っている?」

〖完結〗私はあなたのせいで死ぬのです。

藍川みいな
恋愛
「シュリル嬢、俺と結婚してくれませんか?」 憧れのレナード・ドリスト侯爵からのプロポーズ。 彼は美しいだけでなく、とても紳士的で頼りがいがあって、何より私を愛してくれていました。 すごく幸せでした……あの日までは。 結婚して1年が過ぎた頃、旦那様は愛人を連れて来ました。次々に愛人を連れて来て、愛人に子供まで出来た。 それでも愛しているのは君だけだと、離婚さえしてくれません。 そして、妹のダリアが旦那様の子を授かった…… もう耐える事は出来ません。 旦那様、私はあなたのせいで死にます。 だから、後悔しながら生きてください。 設定ゆるゆるの、架空の世界のお話です。 全15話で完結になります。 この物語は、主人公が8話で登場しなくなります。 感想の返信が出来なくて、申し訳ありません。 たくさんの感想ありがとうございます。 次作の『もう二度とあなたの妻にはなりません!』は、このお話の続編になっております。 このお話はバッドエンドでしたが、次作はただただシュリルが幸せになるお話です。 良かったら読んでください。

五年後、元夫の後悔が遅すぎる。~娘が「パパ」と呼びそうで困ってます~

放浪人
恋愛
「君との婚姻は無効だ。実家へ帰るがいい」 大聖堂の冷たい石畳の上で、辺境伯ロルフから突然「婚姻は最初から無かった」と宣告された子爵家次女のエリシア。実家にも見放され、身重の体で王都の旧市街へ追放された彼女は、絶望のどん底で愛娘クララを出産する。 生き抜くために針と糸を握ったエリシアは、持ち前の技術で不思議な力を持つ「祝布(しゅくふ)」を織り上げる職人として立ち上がる。施しではなく「仕事」として正当な対価を払い、決して土足で踏み込んでこない救恤院の監督官リュシアンの温かい優しさに触れエリシアは少しずつ人間らしい心と笑顔を取り戻していった。 しかし五年後。辺境を襲った疫病を救うための緊急要請を通じ、エリシアは冷酷だった元夫ロルフと再会してしまう。しかも隣にいる娘の青い瞳は彼と瓜二つだった。 「すまない。私は父としての責任を果たす」 かつての合理主義の塊だった元夫は、自らの過ちを深く悔い、家の権益を捨ててでも母子を守る「強固な盾」になろうとする。娘のクララもまた、危機から救ってくれた彼を「パパ」と呼び始めてしまい……。 だが、どんなに後悔されても、どんなに身を挺して守られても、一度完全に壊された関係が元に戻ることは絶対にない。エリシアが真の伴侶として選ぶのは、凍えた心を溶かし、温かい日常を共に歩んでくれたリュシアンただ一人だった。 これは、全てを奪われた一人の女性が母として力強く成長し誰にも脅かされることのない「本物の家族」と「静かで確かな幸福」を自分の手で選び取るまでの物語。

皆さん勘違いなさっているようですが、この家の当主はわたしです。

和泉 凪紗
恋愛
侯爵家の後継者であるリアーネは父親に呼びされる。 「次期当主はエリザベスにしようと思う」 父親は腹違いの姉であるエリザベスを次期当主に指名してきた。理由はリアーネの婚約者であるリンハルトがエリザベスと結婚するから。 リンハルトは侯爵家に婿に入ることになっていた。 「エリザベスとリンハルト殿が一緒になりたいそうだ。エリザベスはちょうど適齢期だし、二人が思い合っているなら結婚させたい。急に婚約者がいなくなってリアーネも不安だろうが、適齢期までまだ時間はある。お前にふさわしい結婚相手を見つけるから安心しなさい。エリザベスの結婚が決まったのだ。こんなにめでたいことはないだろう?」 破談になってめでたいことなんてないと思いますけど?  婚約破棄になるのは構いませんが、この家を渡すつもりはありません。