今更、話すことなどございません

わらびもち

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ベネディクト伯爵家の使用人達の心情

 ベネディクト伯爵家に仕える者たちは皆、薄々気づいていた。
 新しい奥方が連れてきた令嬢がこの屋敷の中でひとり浮いた存在になっていることを。

 屋敷の中で主人たちから呼びかけられることは少なく、話の輪にも入れない。
 実の母親である奥方でさえ彼女のことを気にも留めず、まるで最初から娘の存在などなかったかのように扱われていた。
 
 見知らぬ屋敷へ突然連れてこられ、不安に押し潰されそうな少女をよそに、奥方と主人は気ままに時を過ごしている。その光景を目にした使用人達の胸の中に言いようのない嫌悪が積み重なっていく。とてもじゃないが、まともな大人のすることとは思えない。
 だが、それ以上に目に余るのはこの家の嫡男――アリオスの言動だった。彼は令嬢と顔を合わせるたび、まるで楽しむかのように嫌味を投げかけてくる。いや、実際に楽しんでいるのだろう。そのときの彼の顔には内面をそのまま映したかのような醜悪な笑みが浮かんでいる。

 使用人の間でこの嫡男の評判は最悪だった。自分より立場の弱い者を執拗に苛める性質で、彼の嫌がらせに泣かされた使用人は数知れない。父親の前では猫を被るためか、伯爵は彼の歪んだ性根に気づいていない。それとなく上の立場の使用人達が嫡男の言動を伯爵に伝えてはいるのだが、呆れた顔で「困った奴だ」と言うだけ。嫡男の行動に歯止めをかける者はこの屋敷に誰もいなかった。

 自分が標的にされぬよう、嫡男に逆らわずにきた使用人たちだが、令嬢の部屋選びだけは話が別だった。
 彼は令嬢に屋敷でいちばん陽当たりの悪い客間をあてがえと、わざわざ命じてきたのである。
 件の部屋はいくら換気をしても湿気がこもり、かびの臭いが常につきまとっていた。貴族の令嬢が暮らす場所とは到底言えぬ部屋である。「流石にそれは……」と異を唱えたが、仕える家の息子の命令に逆らうことは不可能だった。仮に命令を聞かず、別の部屋を令嬢に用意したとなれば嫡男は間違いなく怒り狂うだとう。その矛先が自分達にくるだけならまだいいが、令嬢にまで向いては可哀想だと使用人達はしぶしぶ命令に従った。せめてと数人がかりで掃除したが、かび臭さはどうにもならない。使用人達は令嬢が病気にならないかが心配でたまらなかった。

 無関心な義理の父、自分さえよければそれでいい母、嫌がらせばかりしてくる義理の兄、そして不衛生な部屋。
 こんな環境で暮らす令嬢は日を追うごとに元気を失っていったが、それを心配しても使用人たちにはどうすることもできない。せめて陰ながら見守ることしかできなかった。

 そんなある日のことだった。廊下から、嫡男と令嬢が言い争う声が聞こえてくる。慌てて様子を見に行くと、嫡男が令嬢の持ち物を奪い取り、それを上に掲げて楽しそうに笑っているではないか。
 令嬢が「返してください」と訴えても、嫡男は「嫌だね」とまるで子供のように拒否している。その姿に使用人は心の底から情けなくなった。伯爵家の嫡男として、また人としても男としても褒められるべきでない恥知らずの行いである。流石にこれは……と仲裁に入ろうとした瞬間、なんと令嬢が嫡男の手をひねり上げたのだ。

 それは実に見事な光景だった。か弱く、大人しいと思われていた令嬢が自分より年上の男に毅然と立ち向かう。その凛とした姿に思わず息を呑んだ。事態は収まったといえど、嫡男の人の物を奪うという卑劣な行為を見過ごすわけないはいかない。使用人はすぐさま主人へと今しがたあったことを報告しに向かった。

 主人も息子の振る舞いを恥じたのか、令嬢に直接謝罪していた。
 これで事態は収まったかと思われたが、そうではない。屋敷内での令嬢への扱いは何ら変わることはなかったのだ。

 そうして、舞踏会の日が来た。煌びやかな衣装に着飾った主人一家の中に令嬢の姿はない。
 彼女も伯爵家の一員となったのだからドレスを身につけて参加するのが当然である。それなのに主人が何を考えてこのような真似をしているのか──到底理解できなかった。”仲間外れ”という幼稚な言葉が使用人達の頭の中に浮かぶ。

 皆が胸に嫌な思いを抱えた翌朝、事件は起こった。
 令嬢の部屋の扉を叩くが、返事はない。鍵は内側からかかっていない――。冷たい恐怖が全身を駆け抜け、思わず扉に手をかけた。

「お嬢様、失礼いたします」

 そう言って扉を開けると、目に飛び込んできたのは誰もいない部屋だった。
 ベッドは整えられ、窓も閉ざされたまま。
 しかし、そこにいるはずの令嬢の姿だけがまるで最初から存在しなかったかのように消えていた。

「いない……?」

 誰かの声が震え、次の瞬間、屋敷中にざわめきが広がった。
 階段、廊下、中庭、物置――名を呼ぶ声が重なり合い、朝の光の中で不安だけが濃くなっていく。
 使用人たちは顔を見合わせた。
 
 ――あの方は、どこへ行ってしまわれたのか。

 その問いに答えられる者は誰もいない。
 困惑し、焦る使用人達だが、心の奥底ではいつかこんなことが起きるのではないかという予感を抱いていたのも確かだった。

 唖然とする使用人たちの耳に馬車の車輪の音が屋敷の外から響く。誰も声を出せず、ただその音に身をこわばらせるだけだった。

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