47 / 76
四十七話 不気味なる者
しおりを挟む
今川館の奥座敷で義元公と拝謁し、伊賀衆らは深々と頭を下げた。
居並ぶ方々は今川義元公、田原雪斎様、朝比奈泰能殿、服部友貞、
そして伊賀衆を引率したる一宮実元と小姓数名。
「おお、来てくださったか、御屋形様、この藤林殿は伊賀随一の透っ波でございまするぞ」
服部友貞は大げさに気色を表して早口で言った。
泰能殿が顔を背けた。
「名は何と言うぞ」
雪斎様が問う。
「藤林長門守でございます」
「長門守とはお覚えよろしからず。
かつて当家には岩室長門守という不熟者がおっての、
その名前は変えよ。どうせ自称であろう」
泰能殿が仰せになった。
「藤林長門守でございまする」
藤林が繰り返した。
「何」
泰能殿のこめかみに青筋が立った。
「これは恐れ入りまする、
藤林長門守という通り名は世間に知れ渡っておりまする。
功名は尊敬を生み、人を集める場合でも、
報を集める時でも何かと役に立ちまするゆえ、なにとぞご容赦を」
友貞が釈明する。
「かまわぬ、そのまま名乗れ」
義元公がお許しになった。
「什麼生」
突然義元公が厳しいお声を発せられた。
伊賀の小僧は少しも動じず、むしろうすら笑いをうかべよった。
「説破」
伊賀の小僧、藤林はゆっくりと答える。
「兵とは何ぞや」
「兵は詭道なり」
「その論拠はいずくにありや」
「兵者、詭道也。
故能而示之不能、用而示之不用、
近而示之遠、遠而示之近、
利而誘之、乱而取之、
実而備之、強而避之、
怒而撓之、卑而驕之、
佚而労之、親而離之、
攻其無備、出其不意。
此兵家之勝、不可先傳也。」
藤林は漢文らしきものをそらんじた。
「夫未戦而廟筭、勝者得筭多也。
未戦而廟筭、不勝者得筭少也。
況於無筭乎。
吾以此観之、勝負見矣」
義元公がお言葉を返された。
意味が分からず元実は狼狽して周囲を見回した。
泰能殿と目があう。泰能殿は短く嘆息を漏らした。
「されば各々方、向学のために聞いておかれよ」
泰能殿は小姓衆を一瞥した。
小姓衆は居住まいを正して聞き耳を立てた。
「これは孫子の一文である。
兵は詭道なり。つまり戦うことは人を欺くことである。
能力のある者は無能を装い、遠くのものは近くに、近くのものを遠くに見せる。
利を見せて誘い、混乱させて取り込む。
力を充実させて備え、精強にも関わらず逃げて見せる。
敵を怒らせ平常心を失わせ、へりくだって油断させる。
何もせず自堕落に見せかけて敵を誘い、
敵の同盟国と親しくして仲を裂く。
敵の備えていない処を攻め、敵の予測しないところに進出する。
これが勝つための兵法である。そう伊賀の小僧は言うた。
されど、これは戦の小競り合い、
格闘における心得であって雑兵の心得である。
これに対して御屋形様はこう返された。
そもそも開戦にあたっては勝つ国の国力は高く負ける国の国力は低い。
この計算を事前に行わなければ勝つこともおぼつかない。
戦いとはすでに戦う前に勝敗は決まっているものである。
そうのたまわれたのだ。つまり、
天下に覇を争うような国の軍勢なればいずれも準備万端、
練兵も行き届いておる。つまるところ、
戦いは数じゃ。数多き者が勝ち、数少なき者が敗れる。
これが戦いの王道である」
「ならば、源義経の鵯越は如何なりや」
泰能殿のご教授に藤林が差し出口をはさんだ。
「如何に況んや、鵯越は浜より梶原景時の本隊が平家に倍する兵力で攻め寄せたこと。
義経が休戦の約定を破り背後に回り込んで挟撃したことが勝因である。
少数で多数を討ちたる談は後世の作り事じゃ」
「ご名答」
藤林が満足そうに笑った。
「おのれ、小僧試したか」
「もうよい」
義元公が制止された。
「ははっ」
泰能殿はかしこまって頭をさげられた。
「その方、使えることは分かった。して、これから何をする」
「掃除をいたしまする」
「掃除とな、当家の屋敷は汚れておるか」
「はい」
藤林は平然と言ってのけた。
今川館はどこも汚れてはおらぬ、
元来駿河者は勤勉にて、廊下は鏡のごとく磨かれ、
路地の隅々に枯れ葉一つ落ちてはおらぬ。
これほど清浄に掃き清められた処はめったにあるものではない。
「屋敷と言わず、路地といわず、商家といわず、
ざっと見渡しただけでも風魔、
甲州乱破、響談などがうごめいておりまする」
実元は背筋に悪寒が走った。
この童、口元に含み笑いを浮かべておる。
いかにも楽しそうだ。
今まで長らく駿河に居住まいして、
そのような気配、一度も感じたことがなかった。
この童、何を考えておるのやら分からぬ。
まことに気持ち悪きものであった。
これが顔のない輩というものか。
「よう言うてくれた、そなた望むがまま金子を与えるゆえ、今川家の掃除を頼むぞ」
「かしこまりました」
藤林は恭しく頭を下げた。
義元公は大層この不気味なる者をお気に入りのようであった。
この薄気味悪さを義元公はお感じにはならぬのであろうか、
それが元実には不思議でならなかった。
居並ぶ方々は今川義元公、田原雪斎様、朝比奈泰能殿、服部友貞、
そして伊賀衆を引率したる一宮実元と小姓数名。
「おお、来てくださったか、御屋形様、この藤林殿は伊賀随一の透っ波でございまするぞ」
服部友貞は大げさに気色を表して早口で言った。
泰能殿が顔を背けた。
「名は何と言うぞ」
雪斎様が問う。
「藤林長門守でございます」
「長門守とはお覚えよろしからず。
かつて当家には岩室長門守という不熟者がおっての、
その名前は変えよ。どうせ自称であろう」
泰能殿が仰せになった。
「藤林長門守でございまする」
藤林が繰り返した。
「何」
泰能殿のこめかみに青筋が立った。
「これは恐れ入りまする、
藤林長門守という通り名は世間に知れ渡っておりまする。
功名は尊敬を生み、人を集める場合でも、
報を集める時でも何かと役に立ちまするゆえ、なにとぞご容赦を」
友貞が釈明する。
「かまわぬ、そのまま名乗れ」
義元公がお許しになった。
「什麼生」
突然義元公が厳しいお声を発せられた。
伊賀の小僧は少しも動じず、むしろうすら笑いをうかべよった。
「説破」
伊賀の小僧、藤林はゆっくりと答える。
「兵とは何ぞや」
「兵は詭道なり」
「その論拠はいずくにありや」
「兵者、詭道也。
故能而示之不能、用而示之不用、
近而示之遠、遠而示之近、
利而誘之、乱而取之、
実而備之、強而避之、
怒而撓之、卑而驕之、
佚而労之、親而離之、
攻其無備、出其不意。
此兵家之勝、不可先傳也。」
藤林は漢文らしきものをそらんじた。
「夫未戦而廟筭、勝者得筭多也。
未戦而廟筭、不勝者得筭少也。
況於無筭乎。
吾以此観之、勝負見矣」
義元公がお言葉を返された。
意味が分からず元実は狼狽して周囲を見回した。
泰能殿と目があう。泰能殿は短く嘆息を漏らした。
「されば各々方、向学のために聞いておかれよ」
泰能殿は小姓衆を一瞥した。
小姓衆は居住まいを正して聞き耳を立てた。
「これは孫子の一文である。
兵は詭道なり。つまり戦うことは人を欺くことである。
能力のある者は無能を装い、遠くのものは近くに、近くのものを遠くに見せる。
利を見せて誘い、混乱させて取り込む。
力を充実させて備え、精強にも関わらず逃げて見せる。
敵を怒らせ平常心を失わせ、へりくだって油断させる。
何もせず自堕落に見せかけて敵を誘い、
敵の同盟国と親しくして仲を裂く。
敵の備えていない処を攻め、敵の予測しないところに進出する。
これが勝つための兵法である。そう伊賀の小僧は言うた。
されど、これは戦の小競り合い、
格闘における心得であって雑兵の心得である。
これに対して御屋形様はこう返された。
そもそも開戦にあたっては勝つ国の国力は高く負ける国の国力は低い。
この計算を事前に行わなければ勝つこともおぼつかない。
戦いとはすでに戦う前に勝敗は決まっているものである。
そうのたまわれたのだ。つまり、
天下に覇を争うような国の軍勢なればいずれも準備万端、
練兵も行き届いておる。つまるところ、
戦いは数じゃ。数多き者が勝ち、数少なき者が敗れる。
これが戦いの王道である」
「ならば、源義経の鵯越は如何なりや」
泰能殿のご教授に藤林が差し出口をはさんだ。
「如何に況んや、鵯越は浜より梶原景時の本隊が平家に倍する兵力で攻め寄せたこと。
義経が休戦の約定を破り背後に回り込んで挟撃したことが勝因である。
少数で多数を討ちたる談は後世の作り事じゃ」
「ご名答」
藤林が満足そうに笑った。
「おのれ、小僧試したか」
「もうよい」
義元公が制止された。
「ははっ」
泰能殿はかしこまって頭をさげられた。
「その方、使えることは分かった。して、これから何をする」
「掃除をいたしまする」
「掃除とな、当家の屋敷は汚れておるか」
「はい」
藤林は平然と言ってのけた。
今川館はどこも汚れてはおらぬ、
元来駿河者は勤勉にて、廊下は鏡のごとく磨かれ、
路地の隅々に枯れ葉一つ落ちてはおらぬ。
これほど清浄に掃き清められた処はめったにあるものではない。
「屋敷と言わず、路地といわず、商家といわず、
ざっと見渡しただけでも風魔、
甲州乱破、響談などがうごめいておりまする」
実元は背筋に悪寒が走った。
この童、口元に含み笑いを浮かべておる。
いかにも楽しそうだ。
今まで長らく駿河に居住まいして、
そのような気配、一度も感じたことがなかった。
この童、何を考えておるのやら分からぬ。
まことに気持ち悪きものであった。
これが顔のない輩というものか。
「よう言うてくれた、そなた望むがまま金子を与えるゆえ、今川家の掃除を頼むぞ」
「かしこまりました」
藤林は恭しく頭を下げた。
義元公は大層この不気味なる者をお気に入りのようであった。
この薄気味悪さを義元公はお感じにはならぬのであろうか、
それが元実には不思議でならなかった。
0
あなたにおすすめの小説
どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~
さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」
あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。
弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。
弟とは凄く仲が良いの!
それはそれはものすごく‥‥‥
「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」
そんな関係のあたしたち。
でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥
「うそっ! お腹が出て来てる!?」
お姉ちゃんの秘密の悩みです。
if 大坂夏の陣 〜勝ってはならぬ闘い〜
かまぼこのもと
歴史・時代
1615年5月。
徳川家康の天下統一は最終局面に入っていた。
堅固な大坂城を無力化させ、内部崩壊を煽り、ほぼ勝利を手中に入れる……
豊臣家に味方する者はいない。
西国無双と呼ばれた立花宗茂も徳川家康の配下となった。
しかし、ほんの少しの違いにより戦局は全く違うものとなっていくのであった。
全5話……と思ってましたが、終わりそうにないので10話ほどになりそうなので、マルチバース豊臣家と別に連載することにしました。
滝川家の人びと
卯花月影
歴史・時代
勝利のために走るのではない。
生きるために走る者は、
傷を負いながらも、歩みを止めない。
戦国という時代の只中で、
彼らは何を失い、
走り続けたのか。
滝川一益と、その郎党。
これは、勝者の物語ではない。
生き延びた者たちの記録である。
織田信長IF… 天下統一再び!!
華瑠羅
歴史・時代
日本の歴史上最も有名な『本能寺の変』の当日から物語は足早に流れて行く展開です。
この作品は「もし」という概念で物語が進行していきます。
主人公【織田信長】が死んで、若返って蘇り再び活躍するという作品です。
※この物語はフィクションです。
甲斐ノ副将、八幡原ニテ散……ラズ
朽縄咲良
歴史・時代
【第8回歴史時代小説大賞奨励賞受賞作品】
戦国の雄武田信玄の次弟にして、“稀代の副将”として、同時代の戦国武将たちはもちろん、後代の歴史家の間でも評価の高い武将、武田典厩信繁。
永禄四年、武田信玄と強敵上杉輝虎とが雌雄を決する“第四次川中島合戦”に於いて討ち死にするはずだった彼は、家臣の必死の奮闘により、その命を拾う。
信繁の生存によって、甲斐武田家と日本が辿るべき歴史の流れは徐々にずれてゆく――。
この作品は、武田信繁というひとりの武将の生存によって、史実とは異なっていく戦国時代を書いた、大河if戦記である。
*ノベルアッププラス・小説家になろうにも、同内容の作品を掲載しております(一部差異あり)。
大東亜戦争を有利に
ゆみすけ
歴史・時代
日本は大東亜戦争に負けた、完敗であった。 そこから架空戦記なるものが増殖する。 しかしおもしろくない、つまらない。 であるから自分なりに無双日本軍を架空戦記に参戦させました。 主観満載のラノベ戦記ですから、ご感弁を
もし石田三成が島津義弘の意見に耳を傾けていたら
俣彦
歴史・時代
慶長5年9月14日。
赤坂に到着した徳川家康を狙うべく夜襲を提案する宇喜多秀家と島津義弘。
史実では、これを退けた石田三成でありましたが……。
もしここで彼らの意見に耳を傾けていたら……。
独裁者・武田信玄
いずもカリーシ
歴史・時代
国を、民を守るために、武田信玄は独裁者を目指す。
独裁国家が民主国家を数で上回っている現代だからこそ、この歴史物語はどこかに通じるものがあるかもしれません。
【第壱章 独裁者への階段】 純粋に国を、民を憂う思いが、粛清の嵐を巻き起こす
【第弐章 川中島合戦】 甲斐の虎と越後の龍、激突す
【第参章 戦争の黒幕】 京の都が、二人の英雄を不倶戴天の敵と成す
【第四章 織田信長の愛娘】 清廉潔白な人々が、武器商人への憎悪を燃やす
【最終章 西上作戦】 武田家を滅ぼす策略に抗うべく、信長と家康打倒を決断す
この小説は『大罪人の娘』を補完するものでもあります。
(前編が執筆終了していますが、後編の執筆に向けて修正中です))
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる