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五十五話 所詮は他人事
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財政破綻を危惧した義元公が財政均衡をはかるため、
治水工事を減らし、代官所を廃しして年貢を上げたることに
雪斎様が猛然と反対して以来、
義元公は雪斎様に対して本気で怒ることはなくなった。
雪斎様が厳しい口調で諫言しても、口答えせず、笑いながら聞き流された。
雪斎様は恥じ入られ、義元公にお暇を請うた。
義元公は引き留めることなくそれをお許しになった。
雪斎様は隠遁する長慶寺に向かう前、
一宮の屋敷にお立ち寄りになられた。
そこで父ではなく元実を直接お呼びよせになった。
「そなたは義元公よりお目をかけられているゆえ、
まだお話をお聞きになるやもしれぬ。義元公はこれより、
御公約を守られるため、
織田信長討伐の兵を挙げられる。
その時の陣立てを献策するのじゃ」
「はい」
「まず、義元公はご隠居なさり、
今川氏真公を御大将として大軍をもって尾張を攻める。
信長は数では勝てぬことを知っているので乾坤一擲、
今川方本陣に奇襲をかけてくることとなろう。
信長本隊が今川本隊を襲うている時、
ご隠居様の軍が背後から信長隊を挟撃する。
さすれば信長の首は取れる」
「しかし、それでは氏真公のお命が危のうございます」
「分かっておる。天下を取るためには、我が子とて殺す気概なくば取れぬものだ」
「まさか、それを御屋形様に仰せになられたのですか」
「いかにも」
「それは遠ざけられて当然でございまする」
「甘い、それでは天下は取れぬ」
「他に誰かに仰せになりましたか」
「松平の竹千代に言うた」
「幼き故、理解できますまい」
「いや、理解した」
「理解したふりをしただけでございましょう。あれは粗忽者にて背伸びをするところがございます」
「そうかの」
「そうでございます」
「では、頼んだぞ、元実」
「御屋形様に無礼打ちされまする」
「今川家のために死んでくれぬかな」
「我が死んで今川家が守れるならまだしも、義元公はご意見を変えられるとはおもいませぬ。
当方犬死にの上、不忠者の誹りをうけてはたまりませぬ。
恐れながら他をおあたりくださりませ」
「そうか、それは残念じゃの、竹千代に言うておいてよかった」
雪斎様はよろよろと蛇行しながらお帰りであった。
長慶寺に入られると、雪斎様は弘治元年のうちに亡くなられた。
雪斎様が亡くなられると、朝比奈泰能殿も病気を理由に出仕しなくなり、
以後は嫡子の朝比奈泰朝が参上するようになった。
雪斎様がお亡くなりになると、
義元公は織田信勝の借書を集めるよう勘定方にお命じになられた。
元実は驚いて御用商人友野二郎兵衛と共に義元公の御前に参上した。
「恐れながら、明日にも織田信長を討伐せんとする時に
その弟の信勝の借書をお集めになる意図が我ら浅学の身には理解しかねます。
なにとぞご教授いただきたく、伏して御願いもうしあげます」
義元公のお怒りに触れぬよう、元実は慎重に言葉を選んでたずねた。
「信長は攻めぬことにした。すぐ和議にいたす」
「では、今川家中に対し、織田信長を攻めると公約された事は反故になさいますか」
「うむ、状況がかわった」
公約破りであった。
「もし、差し支えなくば、その変わりし状況をお教えたまえれば、
我ら今川家中の諸将に説明して回りまする」
「誰か不満を言うておるか」
「いえ、決して。ただ、御屋形様の英知の片鱗だけでも賜り、
より優れたご見識を学びたいその一心でございまする」
「ならば教えてやろう。藤林長門の偵察によるとな、
信長の動員兵力は約七百、弟信勝の動員兵力は二千に及ぶそうじゃ。
戦は数が多い方が必ず勝つ。
七百対二千なら必ず二千が勝つ。
戦うまでもなく信長は弟に屈服するであろう。
それでも合戦するなら、信長は真性のうつけじゃ。
それもまたよい、死にっぷりを見物してやろう」
「かしこまりました。早速、織田信勝の借書を集めまする」
今川館からの帰り道、元実はとぼとぼと歩きながら二郎兵衛と話をした。
「本当にこれでよいのであろうか」
「御屋形様がご判断なされた事、失敗しても我らが責任を問われることはございませぬ」
「真にそう思うか」
「はい、されど、上役に命令された時はご注意でございます。
上役に無理難題押し付けられて失敗した時、
上役はあなた様に罪をなすりつけて参ります。
それを防ぐため、事前にその上役の上役か、
それとも御屋形様に密告しておくのです。
さすれば、あなた様は死なずに済みまする。
情にほだされて上役をかばい立てすれば全ての罪をなすりつけられまする。
頂点と中堅の違いでございまする」
「そなた、今川のお国が良くなるよう考えて居るのではなく、そのような人事の駆け引きばかり
かんがえておるのか」
「国のためを思い讒言して、それが受け入れられましょうや。人は己の見たいものを見ます。
我が身を捨て、諫言しつづけた雪斎様はどうなりましたか。」
「しかし、今川のお国が滅びれば、そなたも職を失い路頭に迷うであろう」
「今川が滅べば、金を持って……いや、なんでもございませぬ。今川はほろびませぬ。
今まで長年続いた今川家、簡単に滅ぶものではございませぬ」
「まことにそう思うか」
「さてはて」
二郎兵衛はとぼけて顔をそらした。
そんな姿を見ながら元実は、とぼとぼ歩いて帰った。
治水工事を減らし、代官所を廃しして年貢を上げたることに
雪斎様が猛然と反対して以来、
義元公は雪斎様に対して本気で怒ることはなくなった。
雪斎様が厳しい口調で諫言しても、口答えせず、笑いながら聞き流された。
雪斎様は恥じ入られ、義元公にお暇を請うた。
義元公は引き留めることなくそれをお許しになった。
雪斎様は隠遁する長慶寺に向かう前、
一宮の屋敷にお立ち寄りになられた。
そこで父ではなく元実を直接お呼びよせになった。
「そなたは義元公よりお目をかけられているゆえ、
まだお話をお聞きになるやもしれぬ。義元公はこれより、
御公約を守られるため、
織田信長討伐の兵を挙げられる。
その時の陣立てを献策するのじゃ」
「はい」
「まず、義元公はご隠居なさり、
今川氏真公を御大将として大軍をもって尾張を攻める。
信長は数では勝てぬことを知っているので乾坤一擲、
今川方本陣に奇襲をかけてくることとなろう。
信長本隊が今川本隊を襲うている時、
ご隠居様の軍が背後から信長隊を挟撃する。
さすれば信長の首は取れる」
「しかし、それでは氏真公のお命が危のうございます」
「分かっておる。天下を取るためには、我が子とて殺す気概なくば取れぬものだ」
「まさか、それを御屋形様に仰せになられたのですか」
「いかにも」
「それは遠ざけられて当然でございまする」
「甘い、それでは天下は取れぬ」
「他に誰かに仰せになりましたか」
「松平の竹千代に言うた」
「幼き故、理解できますまい」
「いや、理解した」
「理解したふりをしただけでございましょう。あれは粗忽者にて背伸びをするところがございます」
「そうかの」
「そうでございます」
「では、頼んだぞ、元実」
「御屋形様に無礼打ちされまする」
「今川家のために死んでくれぬかな」
「我が死んで今川家が守れるならまだしも、義元公はご意見を変えられるとはおもいませぬ。
当方犬死にの上、不忠者の誹りをうけてはたまりませぬ。
恐れながら他をおあたりくださりませ」
「そうか、それは残念じゃの、竹千代に言うておいてよかった」
雪斎様はよろよろと蛇行しながらお帰りであった。
長慶寺に入られると、雪斎様は弘治元年のうちに亡くなられた。
雪斎様が亡くなられると、朝比奈泰能殿も病気を理由に出仕しなくなり、
以後は嫡子の朝比奈泰朝が参上するようになった。
雪斎様がお亡くなりになると、
義元公は織田信勝の借書を集めるよう勘定方にお命じになられた。
元実は驚いて御用商人友野二郎兵衛と共に義元公の御前に参上した。
「恐れながら、明日にも織田信長を討伐せんとする時に
その弟の信勝の借書をお集めになる意図が我ら浅学の身には理解しかねます。
なにとぞご教授いただきたく、伏して御願いもうしあげます」
義元公のお怒りに触れぬよう、元実は慎重に言葉を選んでたずねた。
「信長は攻めぬことにした。すぐ和議にいたす」
「では、今川家中に対し、織田信長を攻めると公約された事は反故になさいますか」
「うむ、状況がかわった」
公約破りであった。
「もし、差し支えなくば、その変わりし状況をお教えたまえれば、
我ら今川家中の諸将に説明して回りまする」
「誰か不満を言うておるか」
「いえ、決して。ただ、御屋形様の英知の片鱗だけでも賜り、
より優れたご見識を学びたいその一心でございまする」
「ならば教えてやろう。藤林長門の偵察によるとな、
信長の動員兵力は約七百、弟信勝の動員兵力は二千に及ぶそうじゃ。
戦は数が多い方が必ず勝つ。
七百対二千なら必ず二千が勝つ。
戦うまでもなく信長は弟に屈服するであろう。
それでも合戦するなら、信長は真性のうつけじゃ。
それもまたよい、死にっぷりを見物してやろう」
「かしこまりました。早速、織田信勝の借書を集めまする」
今川館からの帰り道、元実はとぼとぼと歩きながら二郎兵衛と話をした。
「本当にこれでよいのであろうか」
「御屋形様がご判断なされた事、失敗しても我らが責任を問われることはございませぬ」
「真にそう思うか」
「はい、されど、上役に命令された時はご注意でございます。
上役に無理難題押し付けられて失敗した時、
上役はあなた様に罪をなすりつけて参ります。
それを防ぐため、事前にその上役の上役か、
それとも御屋形様に密告しておくのです。
さすれば、あなた様は死なずに済みまする。
情にほだされて上役をかばい立てすれば全ての罪をなすりつけられまする。
頂点と中堅の違いでございまする」
「そなた、今川のお国が良くなるよう考えて居るのではなく、そのような人事の駆け引きばかり
かんがえておるのか」
「国のためを思い讒言して、それが受け入れられましょうや。人は己の見たいものを見ます。
我が身を捨て、諫言しつづけた雪斎様はどうなりましたか。」
「しかし、今川のお国が滅びれば、そなたも職を失い路頭に迷うであろう」
「今川が滅べば、金を持って……いや、なんでもございませぬ。今川はほろびませぬ。
今まで長年続いた今川家、簡単に滅ぶものではございませぬ」
「まことにそう思うか」
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そんな姿を見ながら元実は、とぼとぼ歩いて帰った。
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