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三話 ヴェルムテラへ(1)
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樽から出ると、そこは街道から逸れた丘の麓だった。
木陰から臨む景色に橙色の街は見あたらない。青空を背景に一本の街道が敷かれているだけだった。青々とした丘を迂回する土の道は、ゆるやかな蛇行を描いている。
そよぐ青草の香りが木陰を吹き抜けた。そのうち葡萄酒の匂いは消えるだろう。
「本当に、はなればなれだ」
穏やかな情景には似合わない喪失感がぽつりとこぼれた。
悠希はあれからどうなっただろう。医者に怪我を診てもらえただろうか。命は無事だと言われても、確かめようがないので、不安がつのる。
「助けてくれてありがとうございます。それで、俺が弟と離れなくてはいけなかった理由を、教えてくれませんか」
樽を処分してきた男へ、端的に訊く。悠真に自覚がないと言った男の言葉が気になっていた。
「今日はアウレリア大聖堂で、神子の召喚がおこなわれる日だったことは知っているな」
「いいえ……」異世界人なので知りません、と言いたかったが、そこまで信用していいのかわからず、首を振る。
「ずいぶんと世情に疎いんだな」
男は呆れながら木陰に座ったので、悠真も適当に腰を落とす。
「神託によって選ばれた神子は、大陸のどこにいようと、女神によって大聖堂へ召喚される。つまり、おまえの弟は神子に選ばれたということだ。これまで男が選ばれた歴史はないが、保護と言っていたのなら、間違いないだろう。まさか、神子がどういう役割かまで知らないわけないだろうな」
「すみません。それも知らないんです。神子という立場が俺たちにとって、どう問題なんですか?」
「──おまえみたいなやつには初めて会うな。どういう生活をしてきたんだ?」
男は灰色の目を眇め、悠真を訝しむ。下手に隠すと、ややこしくなりそうな雰囲気だ。悠真は男にこれまでの経緯を説明することにした。
──ここまで助けてくれたひとを疑いたくない。大丈夫だと思ってついてきたわけだし、信じてみよう。揶揄っているって、怒られるなら、それまでだ。
話を訊き終えた男はしばらく黙考すると、麻袋からナイフを取りだした。刃の部分は牛革の鞘におさまっていたが、突然のことに悠真はぎょっとしてしまう。そして男はなぜか、そのナイフを悠真に渡し、「自分の目を確認してみろ」と不可解なことを言ってくる。どうやら、ナイフは鏡の代わりらしい。
悠真は首をかしげながらも素直に従った。鞘を抜き、あらわれた刃を覗き込む。そこには見慣れた黒い瞳、ではなく、赤い瞳が映っていた。柘榴石のような虹彩に既視感を覚える。
「なんですか、これ。もしかして、俺は病気なんですか?」
「病気のほうがましだと言うやつはいるだろうな。それは赫物の証だ」
「ケモノ……」
また、その言葉だ。ここへ来てからさんざん耳にした。決していい意味ではないのはあきらかだ。
「そのケモノってなんですか」
「特出な権能を与えられた存在のことを、そう呼んでいる。後天で瞳が赤くなるのは、体質が変化した証拠だ」
「権能?」
男は悠真に向き直ると、
「おまえは逃げているとき、なぜあの階まで来た。追われていたにしても、上へ逃げるのは愚策だと思わなかったか?」
と、なにかを確かめるように訊く。
「上に逃げるつもりはなかったんです。ただ外へ逃げようと思って、明るい道を選んでいたら、あそこについてしまって。いま思うと、あれは気のせいだったのかもしれない。窓がない通路もありましたから」
悠真はナイフを鞘にしまい息をつく。彼に出会わなければ、今頃どうなっていたか。考えただけで恐ろしかった。
悠真の言葉になにかを納得した男は、木に背をあずけ、座りなおす。どこか遠い目をしている横顔が街道へむく。瞳の翳がほんの少し濃くなったように見えた。
「おまえが感じたことは気のせいじゃない。あの階のさらに上、最上階には、赫物を呼ぶ存在がいる。権能はもともとその存在の一部だったからな」
「なにが最上階にいるんですか?」
「千年前、女神によって捕らえられた竜がいる」
「ニホンに竜という生き物はいるか?」と男が尋ねるので、悠真は「信じてくれるんですか」と思わず驚く。てっきり話を流されたと思っていた。
男は苦笑いをかすかに浮かべ「赤い目を見てまで、冷静でいられる人間はこの世界にいない」という。
話を聞くと、千年以上も昔、ひとつの国家が世界を統治していたらしい。土地や大陸ではなく、世界とは眉唾物だが、それを可能にしたのが竜の存在だったという。竜は天候も生死もなにもかも、不可能を可能にする権能をいくつも持っていたらしい。
歴史書に綴られている内容では、竜はひとを惑わし、国家を堕落させた。それを見かねた女神は竜を封印することで世界を救済した。だが、竜は諦めが悪く、封印される瞬間、自身の権能を世界に植えつけていた。血のような雨が三日三晩降りそそぎ、それを浴びたものは竜の眷属へと変貌した。眷属は赤い瞳を獣のようにぎらつかせ、竜の助けに応えて歩く。世界には不浄が残った。女神は竜と対峙したことで、力をそがれたため、地上へ使者を送った。それが神子。神子は女神の代わりに世界を浄化する。
まるで神話のような歴史に悠真は唖然とした。
木陰から臨む景色に橙色の街は見あたらない。青空を背景に一本の街道が敷かれているだけだった。青々とした丘を迂回する土の道は、ゆるやかな蛇行を描いている。
そよぐ青草の香りが木陰を吹き抜けた。そのうち葡萄酒の匂いは消えるだろう。
「本当に、はなればなれだ」
穏やかな情景には似合わない喪失感がぽつりとこぼれた。
悠希はあれからどうなっただろう。医者に怪我を診てもらえただろうか。命は無事だと言われても、確かめようがないので、不安がつのる。
「助けてくれてありがとうございます。それで、俺が弟と離れなくてはいけなかった理由を、教えてくれませんか」
樽を処分してきた男へ、端的に訊く。悠真に自覚がないと言った男の言葉が気になっていた。
「今日はアウレリア大聖堂で、神子の召喚がおこなわれる日だったことは知っているな」
「いいえ……」異世界人なので知りません、と言いたかったが、そこまで信用していいのかわからず、首を振る。
「ずいぶんと世情に疎いんだな」
男は呆れながら木陰に座ったので、悠真も適当に腰を落とす。
「神託によって選ばれた神子は、大陸のどこにいようと、女神によって大聖堂へ召喚される。つまり、おまえの弟は神子に選ばれたということだ。これまで男が選ばれた歴史はないが、保護と言っていたのなら、間違いないだろう。まさか、神子がどういう役割かまで知らないわけないだろうな」
「すみません。それも知らないんです。神子という立場が俺たちにとって、どう問題なんですか?」
「──おまえみたいなやつには初めて会うな。どういう生活をしてきたんだ?」
男は灰色の目を眇め、悠真を訝しむ。下手に隠すと、ややこしくなりそうな雰囲気だ。悠真は男にこれまでの経緯を説明することにした。
──ここまで助けてくれたひとを疑いたくない。大丈夫だと思ってついてきたわけだし、信じてみよう。揶揄っているって、怒られるなら、それまでだ。
話を訊き終えた男はしばらく黙考すると、麻袋からナイフを取りだした。刃の部分は牛革の鞘におさまっていたが、突然のことに悠真はぎょっとしてしまう。そして男はなぜか、そのナイフを悠真に渡し、「自分の目を確認してみろ」と不可解なことを言ってくる。どうやら、ナイフは鏡の代わりらしい。
悠真は首をかしげながらも素直に従った。鞘を抜き、あらわれた刃を覗き込む。そこには見慣れた黒い瞳、ではなく、赤い瞳が映っていた。柘榴石のような虹彩に既視感を覚える。
「なんですか、これ。もしかして、俺は病気なんですか?」
「病気のほうがましだと言うやつはいるだろうな。それは赫物の証だ」
「ケモノ……」
また、その言葉だ。ここへ来てからさんざん耳にした。決していい意味ではないのはあきらかだ。
「そのケモノってなんですか」
「特出な権能を与えられた存在のことを、そう呼んでいる。後天で瞳が赤くなるのは、体質が変化した証拠だ」
「権能?」
男は悠真に向き直ると、
「おまえは逃げているとき、なぜあの階まで来た。追われていたにしても、上へ逃げるのは愚策だと思わなかったか?」
と、なにかを確かめるように訊く。
「上に逃げるつもりはなかったんです。ただ外へ逃げようと思って、明るい道を選んでいたら、あそこについてしまって。いま思うと、あれは気のせいだったのかもしれない。窓がない通路もありましたから」
悠真はナイフを鞘にしまい息をつく。彼に出会わなければ、今頃どうなっていたか。考えただけで恐ろしかった。
悠真の言葉になにかを納得した男は、木に背をあずけ、座りなおす。どこか遠い目をしている横顔が街道へむく。瞳の翳がほんの少し濃くなったように見えた。
「おまえが感じたことは気のせいじゃない。あの階のさらに上、最上階には、赫物を呼ぶ存在がいる。権能はもともとその存在の一部だったからな」
「なにが最上階にいるんですか?」
「千年前、女神によって捕らえられた竜がいる」
「ニホンに竜という生き物はいるか?」と男が尋ねるので、悠真は「信じてくれるんですか」と思わず驚く。てっきり話を流されたと思っていた。
男は苦笑いをかすかに浮かべ「赤い目を見てまで、冷静でいられる人間はこの世界にいない」という。
話を聞くと、千年以上も昔、ひとつの国家が世界を統治していたらしい。土地や大陸ではなく、世界とは眉唾物だが、それを可能にしたのが竜の存在だったという。竜は天候も生死もなにもかも、不可能を可能にする権能をいくつも持っていたらしい。
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まるで神話のような歴史に悠真は唖然とした。
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