獣血の刻印

小緑静子

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六話 夜の平原

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 ほんのわずかに欠けた月が夜空に浮かぶ。それは風がやんだ平原を、ぼんやりと照らしていた。

 ひとびとは月明かりを避けるためにローブを羽織り、焚き火を拠り所に腰を落ちつけた。食事をとる彼らの表情がどこか疲れて見えるのは、おそらく昼間の騒ぎが原因だろう。欠伸をしながら、パンと干し肉を噛みしめる者もいた。

 悠真はるまも周囲に倣い、御者から食事を受け取る。両手に抱えてジヴァンを探すと、彼はひとびとから離れた場所にいた。かろうじて灯りがとどくそこは仄暗い。

 ジヴァンは件の親子と一緒におり、母親になにかを話している様子がうかがえた。彼女は静かに耳をかたむけ、相槌を打っている。そこに剣呑な雰囲気はない。母親はジヴァンに頭をさげ、娘の手を引くと焚き火のそばへ歩いていった。

 暗がりに残されたのは悠真とジヴァンだけ。悠真は訪れた機会に静かに深呼吸をした。薬の件を境にジヴァンと会話ができていない。数時間とはいえ、初めてのことだった。

 悠真は手に力を込めた。こちらを見ずに座る男へ、慎重に近づく。

「ジヴァン、食事もらってきた」
「ああ」

 もともとジヴァンは愛想があるわけではない。しかし食事を受け取る仕草が、どこか素っ気なく感じてしまった。軽くなった片手が妙に寒く思え、沈黙が重くのしかかる。

 悠真はいたたまれなくなり「ごめん」と頭を下げた。

「なにがだ?」
「薬を勝手にあげてしまって……」

 ジヴァンの声音はいつもと変わらない。それがかえって罪悪感に苛まれ、言葉がしぼみそうになる。しかしそれではいけない。悠真は顔を上げた。

 布で隠れたジヴァンの横顔を見つめ、胸中で反芻していた思いを言葉にする。

「今回のことは自分の責任だってわかってる。だから、ヴェルムテラへは俺ひとりで行くよ。どこに向かえばいいのか、前に見た地図で覚えてるし……これ以上、ジヴァンに迷惑をかけるつもりはないから」

 そう言って思い出すのは、まるで絵画のような簡素な地図だった。地球と比べ精密ではなく、心許ない代物。悠真は不安をおくびにも出さないよう努めた。

 だがジヴァンに「無理だな」と、呆れを含んだ調子で言われてしまう。

 夜がかかる灰色の瞳が悠真にむく。そこに昼間の冷厳さが微かにみえた。

「ここからどれだけ離れているか、おまえならわかっているだろう。だからあの親子に、ヴェルムテラのことを言わなかった。いや、言えなかったが正しいか。なにせこの世界のことを、なにも知らないんだからな」
「それは……」 

 考えを見透かされ、悠真は言い淀む。

「おまえに他人の面倒をみる余裕がどこにある。身の上でいえば、あの親子より悪い状況なんだぞ」

 ジヴァンが視線をなげた先には、焚き火の前で寄り添う親子の姿があった。このままなにもなければ、彼女たちは無事に目的地に辿りつけるだろう。アストリオン教会という、東大陸の権力者にじかに睨まれる悠真と違って。ジヴァンの怒りはもっともだった。

「でも放っておけなかった。赫物だからって、なにもしていないひとを責めるのはおかしいだろ」  

 悠真は同じ経験をしているため、親子のつらさがわかる。話し合い、理解してもらうことを許されず、一方的に非難され、暴力をふるわれる。まるで正しいことであるかのように。そこに命の平等さはない。

 ──おなじ、ひと、なのに。

 悠真は自分がそんな考えをいだくことに驚いた。

 同時にジヴァンに対し、誠実ではなかったと改めて気づかされる。貴重な薬を分け与えるのは、軽はずみな判断ではない。それなのに悠真の一存で手放した。

「勝手をして本当にごめん。ジヴァンの気持ちを蔑ろにするつもりはなかったんだ」

 一言一言、謝罪を込めていう。

「ひとのことばかりだな」とジヴァンは諦めた様子で嘆息すると、いつもの静かな灰色の瞳が悠真を映す。
「これ以上いうと俺は本当のひとでなしか──次は相談しろ」

 許してもらえたことに悠真は驚愕した。おもわず「いいのか?」と訊けば「また樽にでもはいればいい」と軽口を返してくれる。安堵と嬉しさに体が温かくなったようだった。

 隣に座るよう視線で促され、悠真は口元を緩ませながら腰を落ちつける。ジヴァンは食事に手をつけた。ばりりとパンをちぎる音が心地いい。悠真も隣に倣い、パンを口へ運んだ。美味しいと素直に思える味だった。




 腕を負傷した傭兵は護衛の代わりに火の番をかってでた。今晩から御者と交代制でおこなうと言う。

 ひとびとは焚き火を中心に寝袋を敷いた。ジヴァンはその周辺をひとりで巡視することになる。先に寝ろとジヴァンに言われたが、悠真は見張りくらいならできるからと、隣に居座った。

「おまえは意外と頑固だな」
「そんなこと初めて言われた」

 おそらく悠希ゆきも言われたことはないだろう。それでも嫌な気にならなかった。頑固が褒め言葉ではないとわかっているのに、不思議な気分だ。

 寝息だけが聞こえる静かな夜は更けていく。ときおり焚き火が小さく音をたてたが、ふたりの位置からは遠い。そんななかジヴァンは世間話でもするように、悠真へ語りかけた。

「あの親子だが、ひとまずフロリアナの実家へ向かうそうだ。離婚したばかりで、身の振り方はこれから決めるつもりだったらしい」

 ジヴァンはゆっくりと歩きだした。悠真も続き、大きな背を見つめる。

「それならと思ってな。彼女にヴェルムテラへ向かう、別の方法を教えておいた。時間はかかるだろうが子供を想えばそれしかない」

 その言葉に悠真は目をく。まさか、ふたりでそんな会話をしていたとは思いもしなかった。

「てっきり関わりたくないんだと思ってた。だから、ちょっと一緒にいたのが意外だったんだけど」
「おまえが助けなければ、そのつもりだった」

 なんでもないようにジヴァンは言うが、まるで悠真のために行動したように聞こえてしまう。悠真はどう返せばいいのかわからず、言葉をつまらせた。

 ジヴァンは周辺を軽く見回す。火の番をする御者の背に顔を止めると、悠真へ振り返った。

「こういうときはまず御者を口止めしろ。金は常套手段だ。そうすればフロリアナに着いてからも親子は無事だろう。うるさい乗客より、御者のほうが世間では信頼があるからな」

 そうでなければこの商売はできない、と腕を組む。

 いつのまにか根回しまで終えていた事実。悠真は茫然とした。ジヴァンがそこまでしてくれているとは思わなかったからだ。なんとか「そう」とだけ返事をする。

 そんな悠真の前にジヴァンは丸薬をひとつ差しだした。

「そろそろ飲んでおけ。満月が近くなれば権能も強くなる。体に異変があれば言え」
「──ありがとう」

 ふたりで分けた薬をさらに分ける。それはジヴァンの負担が重くなるということ。ジヴァンならわかっていたはずだ。それなのに許してくれた。冷酷なのか、そうでないのか、よくわからない。

 いまはジヴァンの想いに応え、素直に薬を飲みくだす。

 するとジヴァンに頭を撫でられた。不意をつかれて心臓が大きく鼓動を打つ。

「なに?」乱れたフードをそのままに、悠真はおもわず尋ねると、ジヴァンは平然とした表情で「いや」と手を引っ込めた。そうして踵を返し「もう寝ろ」と歩いていってしまう。

 悠真は鼓動がおちつかず、これで眠れるわけがない、と遠のく背中へ呆れを向けた。

 ジヴァンは掴み所がない男だとつくづく思う。赫物同士という理由で悠真を助けてくれたのに、他の赫物には容赦がない。かといって冷酷を貫くこともなく、助けてくれる。見返りを求めることもなく。

 親子への配慮は予想外だった。悠真では到底無理な助けだ。

 ──もし俺がジヴァンのようなひとだったら、あのとき悠希を助けられたのかな。

 ジヴァンに憧憬をはらんだ瞳をむけた。

 巨漢の背は頼り甲斐があるほど広く、脚は胴を支えるに値するほど強靭で、筋だつ腕は脅威をものともしない。

 布からこぼれる赤銅色の髪は、月明かりを受けて、銀色のように錯覚した。

 ぞくり──。

 風もないのに急に肌が粟立つ。まさか風邪だろうか。

 暗がりを見やれば、ひとけのない自然が広がっている。街まであと数日はかかると聞いた。権能のほかにも、体調に気をつけなければ迷惑となる。

 悠真は胸中でジヴァンに寝る挨拶をそっと送ると、焚き火のそばへ歩を進めた。
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