89 / 90
四章 それぞれの行く道
4話 八色の虹 前編
しおりを挟む
アロンはゆっくりと扉を開けた。目の前に広がるのは金づちやはさみが無造作に置かれた作業机、赤々と燃える火を抱く炉がある工房。そしてひとり黙々と鉄を打つ鍛冶師がいる。
「こ、こんにちは!」
その場でアロンが挨拶すると、ゴルドンは一瞬だけ顔を上げた後また手元の作業に戻った。
「親方、おれだ。アロンだぞ」
いそいそと歩み寄ってきたアロンに対し、ゴルドンは何の相槌も返さない。鉄がぶつかり合う高い音だけが部屋の中に響く。
冷淡とも思える扱いを受けても、アロンは怯まなかった。彼が冷たい人間ではないということは知っている。そして、彼にしか頼めないことがある。
アロンは大きく息を吸った。
「親方、おれを弟子にしてくれ!」
ゴルドンの手がぴたりと止まった。鷲のように鋭い目がアロンを見る。
「父さんと母さんはいいって言った。いるものはぜんぶ持ってきた。一人前になるまで帰らないってきめた!」
アロンはそう言って、背負っている大きな荷物を示した。中には相棒のクロスボウも入っている。当面のあいだ使うつもりはないが。
「はじめは『雑用』っていうのからするんだろ。それでいいよ。掃除でもお使いでもなんでもする! だから親方のしってること、ぜんぶおれに教えてくれ!」
ゴルドンは頷くでも出ていけと叱るわけでもなく、黙ってアロンを見つめ続けている。その気迫にもめげずアロンは言葉を続ける。
「親方みたいになりたいんだ。便利なものとかおもしろいものをいっぱい作ったり、だいじなものが壊れて困ってるひとを助けてやりたい……親方は、おれの英雄だから」
武器を手に悪を倒す者だけが英雄と呼ばれるのではない。約束をきちんと守ること、困っている誰かに迷わず手を差し伸べられること――それこそが本当の英雄の証だ。そして自分が本当に好きだと思えることに、いつまでも胸を張っていたい。だから、ゴルドンのようにものを作る人間になる道を選ぶとアロンは決めた。
また沈黙が流れる。今度はゴルドンが先に動いた。二階へ続く階段を見やる。
「……突き当りの部屋が空いている。掃除は自分でやれ」
「親方……!」
「荷物を置いたらすぐに降りてこい」
「わ、分かった!」
アロンはまっしぐらに階段へと走り、どたどたと二階へ駆けあがった。大騒ぎはするまいと思っていたが、抑えきれない感情が全身から溢れ出す。
「やったああぁぁー!」
鍛冶師ゴルドンは響く足音に耳を傾けながら、ふっと口元を緩ませた。
――虹石を黄色に染めるは、溢れる活力に動かされる者
尽きぬ好奇心が放つ輝きは、周りをまばゆく照らす光――
***
貧民街の広場に、食料の配給を待つ人々の長い列ができている。
最近になり、王家からの支援が定期的に為されるようになった。無論、ただ物資をばらまくだけでは根本的な問題の解決にはならない。だがまず必要なのは、明日の食べ物に困らない暮らしを保証することだろう。
どうやら、次に王国を導くことになる王子アレクサンドルはただの木偶の棒ではなさそうだ。ゼレーナはその光景を見届け、自分の家への道を辿った。
玄関まで数十歩というところで、ゼレーナは足を止めた。自宅の窓を色あせた服を着た子供が覗いている。泥棒に入る気なのかと思ったが、子供はその場から動かず、ずっとゼレーナの家の中を窓越しに見ているだけだった。
「人の家を覗くとは感心しませんね」
ゼレーナはつかつかとその子供の方へ歩み寄った。家主の登場に子供は驚き目を見開く。六、七歳くらいの少女は痩せていて黒髪にはつやがなく、靴を履いていない足は煤や泥で汚れて真っ黒だった。
「何をしていたんです?」
ゼレーナの問いに少女は答えず、怯えた目でゼレーナの顔を見上げるばかりだ。ゼレーナは小さく息をつくと、少女と目線が合うところまで屈んだ。以前なら問答無用で追い払っていただろうが、長らくお人好したちと行動を共にした影響か邪険にする気にはなれなかった。
「黙っていたら分かりませんよ。わたしに用があって来たんですか?」
「あ、あのね……」
か細い声で少女が言い、またすぐに黙ってしまった。ゼレーナは辛抱強く次の言葉を待った。やがて、少女はおそるおそる口を開いた。
「あたし、まほうつかいになりたいの」
それを聞き、ゼレーナは少女をじっと観察した。その体から魔力を感じ取ることはできない。彼女は才能を持たない人間だ。教えを乞いにゼレーナのもとに来たらしいが、余計な希望を持たせることはこの少女にとってかえって逆効果になる。
「……残念ですが、あなたには魔法使いの才能がありません。だから無理です」
きっぱりと告げられ、少女の目が潤む。一体なにが彼女を、魔女と呼ばれる自分のもとへ向かわせたのだろう。ゼレーナは少女から目を離さないまま問うた。
「あなたは、どうして魔法使いになりたいんですか?」
少女はこくんと唾を飲むと、間をあけずに答えた。
「……まほうつかいになったら、本がよめて字がかけるようになるんでしょ?」
「え……?」
「あたし、なんにもできないから……字が分かるようになればいいなって、思ったの」
ゼレーナの脳裏に幼い日のことが蘇る。希望や楽しみなど何もなく、飢えと戦っていた毎日。在りし日の自分が今、目の前にいる。
そして思い出した。今の自分が簡単にこなせることも、過去の自分にとっては魔法や奇跡に等しかったことを。
この少女に魔術の才能はない。魔術師として敬われる未来は望めない。だがゼレーナは知っている。人は魔法によって幸せになるのではないということを。
「いま言った通り、あなたには魔法使いにはなれません……ですが、文字の読み書きは魔法使いでなくてもできます。あなたにその気があればの話ですが」
今にも泣きそうだった少女の顔が、みるみるうちに明るくなっていく。
ゼレーナは姿勢を正すと玄関の扉に手をかけた。かつての師も、薄汚れた幼き日のゼレーナを見て同じ気持ちを抱いたのかもしれない。
「入りなさい。やるからにはしっかり勉強していただきますよ」
――虹石を緑色に染めるは、輝く英知に富める者
いかなる時もその瞳には、紛うことなき真理を映す――
***
エンディは自室で机に向かい、せっせと紙にペンを走らせていた。兄のアルフォンゾが部屋に入ってきたことに、すぐには気づかないほど集中していた。
「……エンディ、少し休んだらどうだ。今日も朝からずっとその調子らしいじゃないか」
アルフォンゾがそう言って、茶が入ったカップを机の上に置く。使用人の代わりに持ってきてくれたのだろう。エンディは兄の方を振り返った。
「ありがとう兄さん。大丈夫だよ。ずっと頭の中で考えが回っててさ。書きたくてどうしようもないんだ」
自警団として王国を救い、エンディは再びほぼ一日中を自分の家で過ごす生活に戻った。だがじっとしてはいられず、朝から晩まで物語を綴るようになった。それが楽しくてたまらない。書きたいものが次々と溢れ出てくるのだ。
あらすじは既に決まっている。剣を一振りだけ携えた若者が旅に出て、道中で心強い仲間たちと出会い時には強敵に苦しみながら、最後には人々を苦しめる巨悪を打ち破る英雄譚だ。
再びペンを動かし始めたエンディを見て、アルフォンゾは小さく息をついた。
「……無理はするなよ」
「うん!」
自分に残された時間があとどのくらいなのか、エンディには分からない。
生きていられる限り、書くことをやめたくない。自分の生きた証が、苦しむ誰かの手に渡って前に進むきっかけを与えられるなら、たとえ短い生涯で終わるとしても意味がある、そう思えるから。
エンディの心に死への恐怖は欠片もなかった。
「死神さん、欲張りでごめん。でももう少しだけ僕に時間をください」
エンディは呟き、新たな紙を机の上に広げた。
夜更け、アルフォンゾは再び弟の自室を訪れた。
エンディは座ったまま、机の上に頭を乗せて眠っていた。机上にはびっしりと文字が書き連ねてある紙が積み重なっている他、何やら失敗したらしく、ぐしゃぐしゃに丸められた紙も散らばっている。
現時点で完成している分をこっそり読んでしまいたい、という思いに一瞬かられたが、アルフォンゾはそれをぐっとこらえた。
エンディは必ず書き上げる。彼の魂がこもった物語を。それまでエンディは絶対に諦めないだろう。日に当たれずとも、剣を持てずとも、彼は立派な騎士の心を持っているから。
アルフォンゾは寝台から毛布をとってすやすや眠る弟の肩にかけてやり、静かに部屋を出た。
――虹石を藍色に染めるは、不屈の心を秘める者
苦難に抗う強き志は、死の運命をも遠ざける――
***
「かーっ! うめぇ!」
ギーランは上機嫌でどん、と空の酒杯をテーブルに置いた。すかさず給仕の女が、なみなみとお代わりの入った酒杯と入れ替える。
彼の前には酒だけではなく、パンや料理もずらりと並べられていた。高級な食材が使われているわけではないが、どれもたっぷりの量がある。
「どうぞどうぞ、たくさん食べて飲んでください」
一人の男が肉の炙り焼きが乗った皿をギーランの前に置いた。
「なんだぁ、いいのかよ? この村にある酒ぜんぶ飲み尽くしちまうぜ」
「構いませんとも。あなたはこの村の恩人です。誰も手を出せなかった魔物をみな倒してしまったのですから!」
イルバニア王国を出て再び旅に出たギーランが立ち寄った小さな村では、強い魔物が集団で近くに棲みついてしまったが打つ手がなく、村人はほとほと困り果てていた。
骨のある相手と戦いたくてうずうずしていたギーランはその魔物たちに単身挑み、傷を負いながらもすべて叩きのめした。その礼にと村人たちが総出で、酒や料理を振舞ってギーランをもてなしてくれた。
「そ、村長! 大変だ!」
一人の若者が顔を青くして、ギーランたちのもとに転がり込んできた。
「どうした、何があった?」
「魔物の残党がいたんだよ! もっとでっかくて、おっかない顔をしてる!」
それを聞いたギーランは席を立ち、壁に立てかけていた戦斧を肩に担いだ。
「ギーランどの?」
「そいつもぶっ倒してくるから、その酒片付けんじゃねえぞ」
「む、無理だよ、あんた一人だけでなんて……」
若者の制止を振り切り、ギーランはにやりと笑った。
「上等だ。そんだけ強ぇ奴となら思いきり楽しめるじゃねえか」
酒は置いておけよともう一度念押しし、ギーランは外へと出た。
村のはずれに件の魔物はいた。ねじれた太い角を生やした牛のような姿の魔物はギーランを見つけると低く唸り、蹄で地面をかいた。
確かに骨がありそうだ。生きて村に戻れるか分からない。だがそれがギーランの闘争心に火をつける。
戦の場が自分の生きる道だ。この先もそれはずっと変わらない。寝台の上で安らかに眠りにつく最期など、ギーランには全く縁がない。
もし持てる力のすべてを出し切って勝てたなら、その後に飲む酒は極上の味がするだろう。
「来いよ! 俺が相手になってやらぁ!」
突っ込んで来る魔物に対し、ギーランは雄叫びをあげて戦斧を振りかざした。
――虹石を赤黄色に染めるは、燃え上がる勇気に満ちた者
いかなる恐怖にも負けぬ者の杯は、勝利の美酒で満たされる――
「こ、こんにちは!」
その場でアロンが挨拶すると、ゴルドンは一瞬だけ顔を上げた後また手元の作業に戻った。
「親方、おれだ。アロンだぞ」
いそいそと歩み寄ってきたアロンに対し、ゴルドンは何の相槌も返さない。鉄がぶつかり合う高い音だけが部屋の中に響く。
冷淡とも思える扱いを受けても、アロンは怯まなかった。彼が冷たい人間ではないということは知っている。そして、彼にしか頼めないことがある。
アロンは大きく息を吸った。
「親方、おれを弟子にしてくれ!」
ゴルドンの手がぴたりと止まった。鷲のように鋭い目がアロンを見る。
「父さんと母さんはいいって言った。いるものはぜんぶ持ってきた。一人前になるまで帰らないってきめた!」
アロンはそう言って、背負っている大きな荷物を示した。中には相棒のクロスボウも入っている。当面のあいだ使うつもりはないが。
「はじめは『雑用』っていうのからするんだろ。それでいいよ。掃除でもお使いでもなんでもする! だから親方のしってること、ぜんぶおれに教えてくれ!」
ゴルドンは頷くでも出ていけと叱るわけでもなく、黙ってアロンを見つめ続けている。その気迫にもめげずアロンは言葉を続ける。
「親方みたいになりたいんだ。便利なものとかおもしろいものをいっぱい作ったり、だいじなものが壊れて困ってるひとを助けてやりたい……親方は、おれの英雄だから」
武器を手に悪を倒す者だけが英雄と呼ばれるのではない。約束をきちんと守ること、困っている誰かに迷わず手を差し伸べられること――それこそが本当の英雄の証だ。そして自分が本当に好きだと思えることに、いつまでも胸を張っていたい。だから、ゴルドンのようにものを作る人間になる道を選ぶとアロンは決めた。
また沈黙が流れる。今度はゴルドンが先に動いた。二階へ続く階段を見やる。
「……突き当りの部屋が空いている。掃除は自分でやれ」
「親方……!」
「荷物を置いたらすぐに降りてこい」
「わ、分かった!」
アロンはまっしぐらに階段へと走り、どたどたと二階へ駆けあがった。大騒ぎはするまいと思っていたが、抑えきれない感情が全身から溢れ出す。
「やったああぁぁー!」
鍛冶師ゴルドンは響く足音に耳を傾けながら、ふっと口元を緩ませた。
――虹石を黄色に染めるは、溢れる活力に動かされる者
尽きぬ好奇心が放つ輝きは、周りをまばゆく照らす光――
***
貧民街の広場に、食料の配給を待つ人々の長い列ができている。
最近になり、王家からの支援が定期的に為されるようになった。無論、ただ物資をばらまくだけでは根本的な問題の解決にはならない。だがまず必要なのは、明日の食べ物に困らない暮らしを保証することだろう。
どうやら、次に王国を導くことになる王子アレクサンドルはただの木偶の棒ではなさそうだ。ゼレーナはその光景を見届け、自分の家への道を辿った。
玄関まで数十歩というところで、ゼレーナは足を止めた。自宅の窓を色あせた服を着た子供が覗いている。泥棒に入る気なのかと思ったが、子供はその場から動かず、ずっとゼレーナの家の中を窓越しに見ているだけだった。
「人の家を覗くとは感心しませんね」
ゼレーナはつかつかとその子供の方へ歩み寄った。家主の登場に子供は驚き目を見開く。六、七歳くらいの少女は痩せていて黒髪にはつやがなく、靴を履いていない足は煤や泥で汚れて真っ黒だった。
「何をしていたんです?」
ゼレーナの問いに少女は答えず、怯えた目でゼレーナの顔を見上げるばかりだ。ゼレーナは小さく息をつくと、少女と目線が合うところまで屈んだ。以前なら問答無用で追い払っていただろうが、長らくお人好したちと行動を共にした影響か邪険にする気にはなれなかった。
「黙っていたら分かりませんよ。わたしに用があって来たんですか?」
「あ、あのね……」
か細い声で少女が言い、またすぐに黙ってしまった。ゼレーナは辛抱強く次の言葉を待った。やがて、少女はおそるおそる口を開いた。
「あたし、まほうつかいになりたいの」
それを聞き、ゼレーナは少女をじっと観察した。その体から魔力を感じ取ることはできない。彼女は才能を持たない人間だ。教えを乞いにゼレーナのもとに来たらしいが、余計な希望を持たせることはこの少女にとってかえって逆効果になる。
「……残念ですが、あなたには魔法使いの才能がありません。だから無理です」
きっぱりと告げられ、少女の目が潤む。一体なにが彼女を、魔女と呼ばれる自分のもとへ向かわせたのだろう。ゼレーナは少女から目を離さないまま問うた。
「あなたは、どうして魔法使いになりたいんですか?」
少女はこくんと唾を飲むと、間をあけずに答えた。
「……まほうつかいになったら、本がよめて字がかけるようになるんでしょ?」
「え……?」
「あたし、なんにもできないから……字が分かるようになればいいなって、思ったの」
ゼレーナの脳裏に幼い日のことが蘇る。希望や楽しみなど何もなく、飢えと戦っていた毎日。在りし日の自分が今、目の前にいる。
そして思い出した。今の自分が簡単にこなせることも、過去の自分にとっては魔法や奇跡に等しかったことを。
この少女に魔術の才能はない。魔術師として敬われる未来は望めない。だがゼレーナは知っている。人は魔法によって幸せになるのではないということを。
「いま言った通り、あなたには魔法使いにはなれません……ですが、文字の読み書きは魔法使いでなくてもできます。あなたにその気があればの話ですが」
今にも泣きそうだった少女の顔が、みるみるうちに明るくなっていく。
ゼレーナは姿勢を正すと玄関の扉に手をかけた。かつての師も、薄汚れた幼き日のゼレーナを見て同じ気持ちを抱いたのかもしれない。
「入りなさい。やるからにはしっかり勉強していただきますよ」
――虹石を緑色に染めるは、輝く英知に富める者
いかなる時もその瞳には、紛うことなき真理を映す――
***
エンディは自室で机に向かい、せっせと紙にペンを走らせていた。兄のアルフォンゾが部屋に入ってきたことに、すぐには気づかないほど集中していた。
「……エンディ、少し休んだらどうだ。今日も朝からずっとその調子らしいじゃないか」
アルフォンゾがそう言って、茶が入ったカップを机の上に置く。使用人の代わりに持ってきてくれたのだろう。エンディは兄の方を振り返った。
「ありがとう兄さん。大丈夫だよ。ずっと頭の中で考えが回っててさ。書きたくてどうしようもないんだ」
自警団として王国を救い、エンディは再びほぼ一日中を自分の家で過ごす生活に戻った。だがじっとしてはいられず、朝から晩まで物語を綴るようになった。それが楽しくてたまらない。書きたいものが次々と溢れ出てくるのだ。
あらすじは既に決まっている。剣を一振りだけ携えた若者が旅に出て、道中で心強い仲間たちと出会い時には強敵に苦しみながら、最後には人々を苦しめる巨悪を打ち破る英雄譚だ。
再びペンを動かし始めたエンディを見て、アルフォンゾは小さく息をついた。
「……無理はするなよ」
「うん!」
自分に残された時間があとどのくらいなのか、エンディには分からない。
生きていられる限り、書くことをやめたくない。自分の生きた証が、苦しむ誰かの手に渡って前に進むきっかけを与えられるなら、たとえ短い生涯で終わるとしても意味がある、そう思えるから。
エンディの心に死への恐怖は欠片もなかった。
「死神さん、欲張りでごめん。でももう少しだけ僕に時間をください」
エンディは呟き、新たな紙を机の上に広げた。
夜更け、アルフォンゾは再び弟の自室を訪れた。
エンディは座ったまま、机の上に頭を乗せて眠っていた。机上にはびっしりと文字が書き連ねてある紙が積み重なっている他、何やら失敗したらしく、ぐしゃぐしゃに丸められた紙も散らばっている。
現時点で完成している分をこっそり読んでしまいたい、という思いに一瞬かられたが、アルフォンゾはそれをぐっとこらえた。
エンディは必ず書き上げる。彼の魂がこもった物語を。それまでエンディは絶対に諦めないだろう。日に当たれずとも、剣を持てずとも、彼は立派な騎士の心を持っているから。
アルフォンゾは寝台から毛布をとってすやすや眠る弟の肩にかけてやり、静かに部屋を出た。
――虹石を藍色に染めるは、不屈の心を秘める者
苦難に抗う強き志は、死の運命をも遠ざける――
***
「かーっ! うめぇ!」
ギーランは上機嫌でどん、と空の酒杯をテーブルに置いた。すかさず給仕の女が、なみなみとお代わりの入った酒杯と入れ替える。
彼の前には酒だけではなく、パンや料理もずらりと並べられていた。高級な食材が使われているわけではないが、どれもたっぷりの量がある。
「どうぞどうぞ、たくさん食べて飲んでください」
一人の男が肉の炙り焼きが乗った皿をギーランの前に置いた。
「なんだぁ、いいのかよ? この村にある酒ぜんぶ飲み尽くしちまうぜ」
「構いませんとも。あなたはこの村の恩人です。誰も手を出せなかった魔物をみな倒してしまったのですから!」
イルバニア王国を出て再び旅に出たギーランが立ち寄った小さな村では、強い魔物が集団で近くに棲みついてしまったが打つ手がなく、村人はほとほと困り果てていた。
骨のある相手と戦いたくてうずうずしていたギーランはその魔物たちに単身挑み、傷を負いながらもすべて叩きのめした。その礼にと村人たちが総出で、酒や料理を振舞ってギーランをもてなしてくれた。
「そ、村長! 大変だ!」
一人の若者が顔を青くして、ギーランたちのもとに転がり込んできた。
「どうした、何があった?」
「魔物の残党がいたんだよ! もっとでっかくて、おっかない顔をしてる!」
それを聞いたギーランは席を立ち、壁に立てかけていた戦斧を肩に担いだ。
「ギーランどの?」
「そいつもぶっ倒してくるから、その酒片付けんじゃねえぞ」
「む、無理だよ、あんた一人だけでなんて……」
若者の制止を振り切り、ギーランはにやりと笑った。
「上等だ。そんだけ強ぇ奴となら思いきり楽しめるじゃねえか」
酒は置いておけよともう一度念押しし、ギーランは外へと出た。
村のはずれに件の魔物はいた。ねじれた太い角を生やした牛のような姿の魔物はギーランを見つけると低く唸り、蹄で地面をかいた。
確かに骨がありそうだ。生きて村に戻れるか分からない。だがそれがギーランの闘争心に火をつける。
戦の場が自分の生きる道だ。この先もそれはずっと変わらない。寝台の上で安らかに眠りにつく最期など、ギーランには全く縁がない。
もし持てる力のすべてを出し切って勝てたなら、その後に飲む酒は極上の味がするだろう。
「来いよ! 俺が相手になってやらぁ!」
突っ込んで来る魔物に対し、ギーランは雄叫びをあげて戦斧を振りかざした。
――虹石を赤黄色に染めるは、燃え上がる勇気に満ちた者
いかなる恐怖にも負けぬ者の杯は、勝利の美酒で満たされる――
0
あなたにおすすめの小説
【完結】幼馴染にフラれて異世界ハーレム風呂で優しく癒されてますが、好感度アップに未練タラタラなのが役立ってるとは気付かず、世界を救いました。
三矢さくら
ファンタジー
【本編完結】⭐︎気分どん底スタート、あとはアガるだけの異世界純情ハーレム&バトルファンタジー⭐︎
長年思い続けた幼馴染にフラれたショックで目の前が全部真っ白になったと思ったら、これ異世界召喚ですか!?
しかも、フラれたばかりのダダ凹みなのに、まさかのハーレム展開。まったくそんな気分じゃないのに、それが『シキタリ』と言われては断りにくい。毎日混浴ですか。そうですか。赤面しますよ。
ただ、召喚されたお城は、落城寸前の風前の灯火。伝説の『マレビト』として召喚された俺、百海勇吾(18)は、城主代行を任されて、城に襲い掛かる謎のバケモノたちに立ち向かうことに。
といっても、発現するらしいチートは使えないし、お城に唯一いた呪術師の第4王女様は召喚の呪術の影響で、眠りっ放し。
とにかく、俺を取り囲んでる女子たちと、お城の皆さんの気持ちをまとめて闘うしかない!
フラれたばかりで、そんな気分じゃないんだけどなぁ!
貧民街の元娼婦に育てられた孤児は前世の記憶が蘇り底辺から成り上がり世界の救世主になる。
黒ハット
ファンタジー
【完結しました】捨て子だった主人公は、元貴族の側室で騙せれて娼婦だった女性に拾われて最下層階級の貧民街で育てられるが、13歳の時に崖から川に突き落とされて意識が無くなり。気が付くと前世の日本で物理学の研究生だった記憶が蘇り、周りの人たちの善意で底辺から抜け出し成り上がって世界の救世主と呼ばれる様になる。
この作品は小説書き始めた初期の作品で内容と書き方をリメイクして再投稿を始めました。感想、応援よろしくお願いいたします。
最難関ダンジョンをクリアした成功報酬は勇者パーティーの裏切りでした
新緑あらた
ファンタジー
最難関であるS級ダンジョン最深部の隠し部屋。金銀財宝を前に告げられた言葉は労いでも喜びでもなく、解雇通告だった。
「もうオマエはいらん」
勇者アレクサンダー、癒し手エリーゼ、赤魔道士フェルノに、自身の黒髪黒目を忌避しないことから期待していた俺は大きなショックを受ける。
ヤツらは俺の外見を受け入れていたわけじゃない。ただ仲間と思っていなかっただけ、眼中になかっただけなのだ。
転生者は曾祖父だけどチートは隔世遺伝した「俺」にも受け継がれています。
勇者達は大富豪スタートで貧民窟の住人がゴールです(笑)
おっさん武闘家、幼女の教え子達と十年後に再会、実はそれぞれ炎・氷・雷の精霊の王女だった彼女達に言い寄られつつ世界を救い英雄になってしまう
お餅ミトコンドリア
ファンタジー
パーチ、三十五歳。五歳の時から三十年間修行してきた武闘家。
だが、全くの無名。
彼は、とある村で武闘家の道場を経営しており、〝拳を使った戦い方〟を弟子たちに教えている。
若い時には「冒険者になって、有名になるんだ!」などと大きな夢を持っていたものだが、自分の道場に来る若者たちが全員〝天才〟で、自分との才能の差を感じて、もう諦めてしまった。
弟子たちとの、のんびりとした穏やかな日々。
独身の彼は、そんな彼ら彼女らのことを〝家族〟のように感じており、「こんな毎日も悪くない」と思っていた。
が、ある日。
「お久しぶりです、師匠!」
絶世の美少女が家を訪れた。
彼女は、十年前に、他の二人の幼い少女と一緒に山の中で獣(とパーチは思い込んでいるが、実はモンスター)に襲われていたところをパーチが助けて、その場で数時間ほど稽古をつけて、自分たちだけで戦える力をつけさせた、という女の子だった。
「私は今、アイスブラット王国の〝守護精霊〟をやっていまして」
精霊を自称する彼女は、「ちょ、ちょっと待ってくれ」と混乱するパーチに構わず、ニッコリ笑いながら畳み掛ける。
「そこで師匠には、私たちと一緒に〝魔王〟を倒して欲しいんです!」
これは、〝弟子たちがあっと言う間に強くなるのは、師匠である自分の特殊な力ゆえ〟であることに気付かず、〝実は最強の実力を持っている〟ことにも全く気付いていない男が、〝実は精霊だった美少女たち〟と再会し、言い寄られ、弟子たちに愛され、弟子以外の者たちからも尊敬され、世界を救って英雄になってしまう物語。
(※第18回ファンタジー小説大賞に参加しています。
もし宜しければ【お気に入り登録】で応援して頂けましたら嬉しいです!
何卒宜しくお願いいたします!)
解呪の魔法しか使えないからとSランクパーティーから追放された俺は、呪いをかけられていた美少女ドラゴンを拾って最強へと至る
早見羽流
ファンタジー
「ロイ・クノール。お前はもう用無しだ」
解呪の魔法しか使えない初心者冒険者の俺は、呪いの宝箱を解呪した途端にSランクパーティーから追放され、ダンジョンの最深部へと蹴り落とされてしまう。
そこで出会ったのは封印された邪龍。解呪の能力を使って邪龍の封印を解くと、なんとそいつは美少女の姿になり、契約を結んで欲しいと頼んできた。
彼女は元は世界を守護する守護龍で、英雄や女神の陰謀によって邪龍に堕とされ封印されていたという。契約を結んだ俺は彼女を救うため、守護龍を封印し世界を牛耳っている女神や英雄の血を引く王家に立ち向かうことを誓ったのだった。
(1話2500字程度、1章まで完結保証です)
【最強モブの努力無双】~ゲームで名前も登場しないようなモブに転生したオレ、一途な努力とゲーム知識で最強になる~
くーねるでぶる(戒め)
ファンタジー
アベル・ヴィアラットは、五歳の時、ベッドから転げ落ちてその拍子に前世の記憶を思い出した。
大人気ゲーム『ヒーローズ・ジャーニー』の世界に転生したアベルは、ゲームの知識を使って全男の子の憧れである“最強”になることを決意する。
そのために努力を続け、順調に強くなっていくアベル。
しかしこの世界にはゲームには無かった知識ばかり。
戦闘もただスキルをブッパすればいいだけのゲームとはまったく違っていた。
「面白いじゃん?」
アベルはめげることなく、辺境最強の父と優しい母に見守られてすくすくと成長していくのだった。
裏切られ続けた負け犬。25年前に戻ったので人生をやり直す。当然、裏切られた礼はするけどね
竹井ゴールド
ファンタジー
冒険者ギルドの雑用として働く隻腕義足の中年、カーターは裏切られ続ける人生を送っていた。
元々は食堂の息子という人並みの平民だったが、
王族の継承争いに巻き込まれてアドの街の毒茸流布騒動でコックの父親が毒茸の味見で死に。
代わって雇った料理人が裏切って金を持ち逃げ。
父親の親友が融資を持ち掛けるも平然と裏切って借金の返済の為に母親と妹を娼館へと売り。
カーターが冒険者として金を稼ぐも、後輩がカーターの幼馴染に横恋慕してスタンピードの最中に裏切ってカーターは片腕と片足を損失。カーターを持ち上げていたギルマスも裏切り、幼馴染も去って後輩とくっつく。
その後は負け犬人生で冒険者ギルドの雑用として細々と暮らしていたのだが。
ある日、人ならざる存在が話しかけてきた。
「この世界は滅びに進んでいる。是正しなければならない。手を貸すように」
そして気付けは25年前の15歳にカーターは戻っており、二回目の人生をやり直すのだった。
もちろん、裏切ってくれた連中への返礼と共に。
異世界に転移したら、孤児院でごはん係になりました
雪月夜狐
ファンタジー
ある日突然、異世界に転移してしまったユウ。
気がつけば、そこは辺境にある小さな孤児院だった。
剣も魔法も使えないユウにできるのは、
子供たちのごはんを作り、洗濯をして、寝かしつけをすることだけ。
……のはずが、なぜか料理や家事といった
日常のことだけが、やたらとうまくいく。
無口な男の子、甘えん坊の女の子、元気いっぱいな年長組。
個性豊かな子供たちに囲まれて、
ユウは孤児院の「ごはん係」として、毎日を過ごしていく。
やがて、かつてこの孤児院で育った冒険者や商人たちも顔を出し、
孤児院は少しずつ、人が集まる場所になっていく。
戦わない、争わない。
ただ、ごはんを作って、今日をちゃんと暮らすだけ。
ほんわか天然な世話係と子供たちの日常を描く、
やさしい異世界孤児院ファンタジー。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる