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うら若き有閑貴族夫人になったからには、安穏なだらだらニート生活をしたい。【1】
グレイ・ダージリン(10)
ふわり、とバンカムの良い香りが漂って来た。振り向くと、イドゥリースとスレイマンの姿。
二人共部屋に入って来るなり、疲れた様子でソファーに座り込む。
旅に出る事が決まってからというもの、彼らはカフェの為に手伝いに出ていたのだ。
「『お帰り。二人共、バンカムのお仕事お疲れ様』」
二人の全身に染み付いているバンカムの香りに大変さを感じ取った僕は、侍女にお茶を用意して貰う。暫くして温かいお茶を受け取った二人は、一口啜って大きく呼吸をした。
「『本当に大変でした。旅の間はゆっくり眠りたいものです』」
「『相当な量を焙煎してきたから、道具の癖とか慣れて来て、コツは掴んだと思う。これで向こう数ヶ月はバン豆も大丈夫。後はハヤトやセナ達が頑張ってくれれば』」
ハヤトというのはスレイマンの実家であるヒラール商会が寄越してくれた者で、セナはバン豆焙煎職人の一人。
カフェの仕事の事を知ったスレイマンの両親が、地揺れと大波で家無しになった職人達に新天地で働かないかと声を掛けてくれていたのだ。
そうして数日前やってきたのがトラス語を解するヒラール商会のハヤトとセナ他数人の職人達。
彼らの住まいはキーマン商会が世話をしている。ハヤトはセナ達の世話と通訳の他、キーマン商会でヒラール商会関係の仕事に携わる事になっていた。
「『暫くバン豆は見たくない……』」
「『同感だよ、イドゥリース』」
ぐったりとしている彼ら。こういう時は何も考えずさっさと体を横たえて休むに限る。
「『二人共、暫く仮眠を取ると良いよ。食事の時間になったら呼びに来るから』」
そう言って、彼らの世話を侍女に頼むと僕は部屋を後にしたのだった。
***
その情報が知らされたのは、その次の日の事。まるで神が見計らったかのようなタイミングだった。
カフェも引継ぎが無事に終わり、僕達の荷造りと引継ぎはほぼ整っていて何時でも出発出来る。
その日――サイモン様は朝早くからトラス王オディロン陛下に神聖アレマニア帝国からの使節団の件や領地へ行く件について、不在の間の諸々の根回しをする為に宮中へ参内されたのだけれど。
サイモン様は帰宅した後、僕とマリーを執務室へ呼び出した。準備に早めに取り掛かっておいて正解だったと言われ、マリーがその意味を問いかける。
「ああ、実は使節団の先触れの使者がやってきたそうだ。受け入れ承諾の返事をしてからまだ二週間も経過していないというのに」
早すぎる、と僕は内心驚く。
使節団の代表もデブランツ大司教であり、アーダム第一皇子ではないとの事だった。
マリーはデブランツ大司教ならば王都を離れなくても良いのでは、と言うが、僕はどうにも嫌な予感がしている。それはサイモン様も同じようで、やはり王都は離れるべきだという結論だった。
二週間もしない内に返事が来たという事は、少なくとも使節団は国境付近に居ると考える方が妥当。
そこで疑問が一つ。皇帝選挙があると言っても、それはまだ数年先の話。少なくとも二年の猶予がある。それなのに何故彼らはそこまで急ぐ必要があるのか。
――急がせる何か。誰かと競争でもしている?
そこまで考えて僕ははっとした。
デブランツ大司教は求心力を失いつつあり、不寛容派は前教皇派と皇帝派に分かれている。であれば、デブランツ大司教の競争相手は一人しかいない。
サイモン様は「何事にも抜け穴はある」と仰った。
もし僕がアーダム第一皇子でマリーを狙うとしたら、マリーを守る人達や寛容派勢力以外にもデブランツ大司教を出し抜かなければならない。
それには、身分を隠し、お忍びで秘密裏に動くのが手っ取り早い。
顔を上げると、マリーがいつの間にかトラス王国の地図を広げた前でじっと目を閉じていた。何らかの力を使っているのだろう。
サイモン様と僕が邪魔をしないように固唾を呑んで見守る中、時折顔を顰めたりしていたマリー。暫くの後、その蜜色の双眼を開けると、体を抱きしめてぶるりと震えた。
「大丈夫、マリー?」
慌てて近付いて抱きしめる。「何を見た?」とサイモン様の問いに、マリーは青褪めた顔をゆるゆると上げた。
「神聖アレマニア帝国のアーダム第一皇子は……既にトラス王国内に、モンブローという町に居るわ。……ごめんなさい、ちょっと未確認生物というか、ゴリラ変異種というか。そういうのを見てしまって、キモ過ぎて気分が……」
そこまで言って、マリーは僕の胸に顔を埋める。後半部分の良く分からない単語は後で訊くとして。
モンブローだって!?
その町は王都から早馬で三、四日の距離。
デブランツ大司教率いる使節団よりも大分先んじて王都に迫っている事になる。僕とサイモン様は思わず顔を見合わせた。
二人共部屋に入って来るなり、疲れた様子でソファーに座り込む。
旅に出る事が決まってからというもの、彼らはカフェの為に手伝いに出ていたのだ。
「『お帰り。二人共、バンカムのお仕事お疲れ様』」
二人の全身に染み付いているバンカムの香りに大変さを感じ取った僕は、侍女にお茶を用意して貰う。暫くして温かいお茶を受け取った二人は、一口啜って大きく呼吸をした。
「『本当に大変でした。旅の間はゆっくり眠りたいものです』」
「『相当な量を焙煎してきたから、道具の癖とか慣れて来て、コツは掴んだと思う。これで向こう数ヶ月はバン豆も大丈夫。後はハヤトやセナ達が頑張ってくれれば』」
ハヤトというのはスレイマンの実家であるヒラール商会が寄越してくれた者で、セナはバン豆焙煎職人の一人。
カフェの仕事の事を知ったスレイマンの両親が、地揺れと大波で家無しになった職人達に新天地で働かないかと声を掛けてくれていたのだ。
そうして数日前やってきたのがトラス語を解するヒラール商会のハヤトとセナ他数人の職人達。
彼らの住まいはキーマン商会が世話をしている。ハヤトはセナ達の世話と通訳の他、キーマン商会でヒラール商会関係の仕事に携わる事になっていた。
「『暫くバン豆は見たくない……』」
「『同感だよ、イドゥリース』」
ぐったりとしている彼ら。こういう時は何も考えずさっさと体を横たえて休むに限る。
「『二人共、暫く仮眠を取ると良いよ。食事の時間になったら呼びに来るから』」
そう言って、彼らの世話を侍女に頼むと僕は部屋を後にしたのだった。
***
その情報が知らされたのは、その次の日の事。まるで神が見計らったかのようなタイミングだった。
カフェも引継ぎが無事に終わり、僕達の荷造りと引継ぎはほぼ整っていて何時でも出発出来る。
その日――サイモン様は朝早くからトラス王オディロン陛下に神聖アレマニア帝国からの使節団の件や領地へ行く件について、不在の間の諸々の根回しをする為に宮中へ参内されたのだけれど。
サイモン様は帰宅した後、僕とマリーを執務室へ呼び出した。準備に早めに取り掛かっておいて正解だったと言われ、マリーがその意味を問いかける。
「ああ、実は使節団の先触れの使者がやってきたそうだ。受け入れ承諾の返事をしてからまだ二週間も経過していないというのに」
早すぎる、と僕は内心驚く。
使節団の代表もデブランツ大司教であり、アーダム第一皇子ではないとの事だった。
マリーはデブランツ大司教ならば王都を離れなくても良いのでは、と言うが、僕はどうにも嫌な予感がしている。それはサイモン様も同じようで、やはり王都は離れるべきだという結論だった。
二週間もしない内に返事が来たという事は、少なくとも使節団は国境付近に居ると考える方が妥当。
そこで疑問が一つ。皇帝選挙があると言っても、それはまだ数年先の話。少なくとも二年の猶予がある。それなのに何故彼らはそこまで急ぐ必要があるのか。
――急がせる何か。誰かと競争でもしている?
そこまで考えて僕ははっとした。
デブランツ大司教は求心力を失いつつあり、不寛容派は前教皇派と皇帝派に分かれている。であれば、デブランツ大司教の競争相手は一人しかいない。
サイモン様は「何事にも抜け穴はある」と仰った。
もし僕がアーダム第一皇子でマリーを狙うとしたら、マリーを守る人達や寛容派勢力以外にもデブランツ大司教を出し抜かなければならない。
それには、身分を隠し、お忍びで秘密裏に動くのが手っ取り早い。
顔を上げると、マリーがいつの間にかトラス王国の地図を広げた前でじっと目を閉じていた。何らかの力を使っているのだろう。
サイモン様と僕が邪魔をしないように固唾を呑んで見守る中、時折顔を顰めたりしていたマリー。暫くの後、その蜜色の双眼を開けると、体を抱きしめてぶるりと震えた。
「大丈夫、マリー?」
慌てて近付いて抱きしめる。「何を見た?」とサイモン様の問いに、マリーは青褪めた顔をゆるゆると上げた。
「神聖アレマニア帝国のアーダム第一皇子は……既にトラス王国内に、モンブローという町に居るわ。……ごめんなさい、ちょっと未確認生物というか、ゴリラ変異種というか。そういうのを見てしまって、キモ過ぎて気分が……」
そこまで言って、マリーは僕の胸に顔を埋める。後半部分の良く分からない単語は後で訊くとして。
モンブローだって!?
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