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うら若き有閑貴族夫人になったからには、安穏なだらだらニート生活をしたい。【1】
グレイ・ダージリン(79)
海の香り。
夕闇の中、潮風が優しく髪を撫でていく。
僕は桟橋で横たわり、波の音を聞いていた。
そこへ可愛らしい蜜色の子犬がやってきたかと思うと、僕の口をペロペロと舐める。
思わず顔を逸らして逃れようとするんだけれど、生暖かい風が耳に吹き付けた。驚いて振り仰ぐと、濡れた髪のマリーが目を赤く光らせている。
よく見ると、腕には鱗があった。これはマリーじゃない。彼女の姿をした、何か――海妖セイレーンだ。
「ねえ、グレイ。血を少し頂戴、いいでしょう?」
妖艶にそう言って、マリーの姿をしたセイレーンは僕に肉薄すると首筋に舌を這わせ始める。その赤い瞳に魅入られたように動けなかった。
子犬の姿はいつの間にか消えていた。
舐められた後、そこに牙が突き立てられるんだ、と僕には直感的に分かった。
恐怖を覚え、それから逃れようと身を捩る。
「逃がさない」
セイレーンは執拗に追い、弄ぶように首筋に唇を近づけてくる。
拒もうと手を動かすも、彼女に絡め取られてドボンと海に落ちてしまった。
クスクスと笑うセイレーンの声。
い、息が出来ない……!
そう思ったのを最後に、僕は唐突に目が覚めた。水の感触はどこにもない。
「……」
鼻が誰かに摘ままれているような、妙な感触。そして忍び笑い。
かすかに瞼を開けると、マリーが悪い笑みを浮かべている。
――成程、だからあんな悪夢を見たんだ。
呆れると共に少しだけおかしみを覚えた僕は、隙を見て彼女を抱き込んで懲らしめたのだった。
***
「この度はご協力感謝致します」
コスタポリに到着すると、シルヴィオ第一王子殿下とガリア王国のべリザリオ・アスコーナ枢機卿が出迎えてくれた。
挨拶を交わした後、僕とマリーは軍艦を動かして貰った事のお礼を述べる。
べリザリオ枢機卿のことは話に聞いていた。サングマ教皇猊下がコスタポリを気にかけているマリーの為に手を回したのだ。
マリーは素直に喜んでいるけれど、聖女がコスタポリを気にかけている、とガリア王国の人心を掌握する意味もあるだろう。
港にある、真新しい建物の一室に移動して話をする。
殿下は首尾よくアーダム皇子達の船を拿捕することに成功したようだ。
ただ、フレールが言い寄ってきたそうで、辟易している様子。
僕は懇切丁寧にフレールの所業を伝えることにした。
フレールがしでかした事は流石に看過できない。表沙汰になれば、伯爵家の出であっても極刑は免れないだろう。
聖女であるマリーを呪おうとした上……間違ってアーダム皇子を呪った自分の罪をマリーに擦り付けて魔女だと言いがかりをつけ、挙句アレマニアの男達に殺させるよう仕向けたという話。
それを聞いたシルヴィオ殿下とベリザリオ枢機卿は、あまりのことに顔色を悪くしている。
ベリザリオ枢機卿が体は大丈夫かとマリーに問うている。
僕も心配で堪らなかった。
間違ってアーダム皇子を呪ったそうだし、呪い返しをした、と元気そうに言うけれど……
先刻見た悪夢を思い出す。あれは呪いの残滓か何かだったのだろうか。
僕が引き受けることでマリーに害がないなら幾らでも……
そんなことを考えていると、
「……確認なのだけど、彼女のことは連れ帰って貰えるよね?」
シルヴィオ殿下はフレールもアーダム皇子も連れて帰って貰いたい様子。
そりゃそうだ、魔女に片足を突っ込んでいる女と厄介事でしかない北の大国の皇子を留めておくなんて。
僕でも嫌だ。
フレールに関しては無理に連れ帰って極刑となると、マリーが傷つくかも知れない。最後の慈悲として本人に決めさせよう。
そしてアーダム皇子に関しては――
「……こちらはどうするのが最善なのか。相談に乗って頂ければと思うのですが」
神聖アレマニア帝国は大国だ。次期皇帝とも目されているアーダム皇子の身柄の扱いは慎重を要する。
「恐れながら、」
「発言の許可を」
前脚と後ろ脚が挙手をする。
僕がどうぞと促すと、獰猛な獅子を思わせるような笑みを浮かべて海難事故に見せかけて全員殺してしまえばよいと仄めかした。
……うーん、それも一つの手ではあるけれど。万が一露見した場合、戦争という流れになると困るなあ。
彼らの提案に、シルヴィオ殿下は顔を引き攣らせてマリーを見る。
マリーは思案し、交渉の結果次第で海難事故に遭わせるかどうかを決めても遅くないと口にした。
「殺せばそこでおしまいだものね……搾り取れるものは絞り取らなくちゃ」
小さな呟き。
殺されかけたのに、賠償で解決しようとするなんて。マリーはやっぱり優しいな、と思う。
ちらりと見ると、シルヴィオ殿下の引きつった顔が蒼白になり、ベリザリオ枢機卿の笑みが固まっていた。
……何か問題でもあったのだろうか?
夕闇の中、潮風が優しく髪を撫でていく。
僕は桟橋で横たわり、波の音を聞いていた。
そこへ可愛らしい蜜色の子犬がやってきたかと思うと、僕の口をペロペロと舐める。
思わず顔を逸らして逃れようとするんだけれど、生暖かい風が耳に吹き付けた。驚いて振り仰ぐと、濡れた髪のマリーが目を赤く光らせている。
よく見ると、腕には鱗があった。これはマリーじゃない。彼女の姿をした、何か――海妖セイレーンだ。
「ねえ、グレイ。血を少し頂戴、いいでしょう?」
妖艶にそう言って、マリーの姿をしたセイレーンは僕に肉薄すると首筋に舌を這わせ始める。その赤い瞳に魅入られたように動けなかった。
子犬の姿はいつの間にか消えていた。
舐められた後、そこに牙が突き立てられるんだ、と僕には直感的に分かった。
恐怖を覚え、それから逃れようと身を捩る。
「逃がさない」
セイレーンは執拗に追い、弄ぶように首筋に唇を近づけてくる。
拒もうと手を動かすも、彼女に絡め取られてドボンと海に落ちてしまった。
クスクスと笑うセイレーンの声。
い、息が出来ない……!
そう思ったのを最後に、僕は唐突に目が覚めた。水の感触はどこにもない。
「……」
鼻が誰かに摘ままれているような、妙な感触。そして忍び笑い。
かすかに瞼を開けると、マリーが悪い笑みを浮かべている。
――成程、だからあんな悪夢を見たんだ。
呆れると共に少しだけおかしみを覚えた僕は、隙を見て彼女を抱き込んで懲らしめたのだった。
***
「この度はご協力感謝致します」
コスタポリに到着すると、シルヴィオ第一王子殿下とガリア王国のべリザリオ・アスコーナ枢機卿が出迎えてくれた。
挨拶を交わした後、僕とマリーは軍艦を動かして貰った事のお礼を述べる。
べリザリオ枢機卿のことは話に聞いていた。サングマ教皇猊下がコスタポリを気にかけているマリーの為に手を回したのだ。
マリーは素直に喜んでいるけれど、聖女がコスタポリを気にかけている、とガリア王国の人心を掌握する意味もあるだろう。
港にある、真新しい建物の一室に移動して話をする。
殿下は首尾よくアーダム皇子達の船を拿捕することに成功したようだ。
ただ、フレールが言い寄ってきたそうで、辟易している様子。
僕は懇切丁寧にフレールの所業を伝えることにした。
フレールがしでかした事は流石に看過できない。表沙汰になれば、伯爵家の出であっても極刑は免れないだろう。
聖女であるマリーを呪おうとした上……間違ってアーダム皇子を呪った自分の罪をマリーに擦り付けて魔女だと言いがかりをつけ、挙句アレマニアの男達に殺させるよう仕向けたという話。
それを聞いたシルヴィオ殿下とベリザリオ枢機卿は、あまりのことに顔色を悪くしている。
ベリザリオ枢機卿が体は大丈夫かとマリーに問うている。
僕も心配で堪らなかった。
間違ってアーダム皇子を呪ったそうだし、呪い返しをした、と元気そうに言うけれど……
先刻見た悪夢を思い出す。あれは呪いの残滓か何かだったのだろうか。
僕が引き受けることでマリーに害がないなら幾らでも……
そんなことを考えていると、
「……確認なのだけど、彼女のことは連れ帰って貰えるよね?」
シルヴィオ殿下はフレールもアーダム皇子も連れて帰って貰いたい様子。
そりゃそうだ、魔女に片足を突っ込んでいる女と厄介事でしかない北の大国の皇子を留めておくなんて。
僕でも嫌だ。
フレールに関しては無理に連れ帰って極刑となると、マリーが傷つくかも知れない。最後の慈悲として本人に決めさせよう。
そしてアーダム皇子に関しては――
「……こちらはどうするのが最善なのか。相談に乗って頂ければと思うのですが」
神聖アレマニア帝国は大国だ。次期皇帝とも目されているアーダム皇子の身柄の扱いは慎重を要する。
「恐れながら、」
「発言の許可を」
前脚と後ろ脚が挙手をする。
僕がどうぞと促すと、獰猛な獅子を思わせるような笑みを浮かべて海難事故に見せかけて全員殺してしまえばよいと仄めかした。
……うーん、それも一つの手ではあるけれど。万が一露見した場合、戦争という流れになると困るなあ。
彼らの提案に、シルヴィオ殿下は顔を引き攣らせてマリーを見る。
マリーは思案し、交渉の結果次第で海難事故に遭わせるかどうかを決めても遅くないと口にした。
「殺せばそこでおしまいだものね……搾り取れるものは絞り取らなくちゃ」
小さな呟き。
殺されかけたのに、賠償で解決しようとするなんて。マリーはやっぱり優しいな、と思う。
ちらりと見ると、シルヴィオ殿下の引きつった顔が蒼白になり、ベリザリオ枢機卿の笑みが固まっていた。
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