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第二章 雪けぶる町
愛しているから、産まれて来るな
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跳ねるイルカに手を延ばす
深く真っ逆さまに落っこちて
彼女は海の中に横たわった
水面は銀の膜で覆われて
宙に浮かんだ彼を阻む
嗚呼そうしている間にも
廻る刃は近付いてーー
流れた胎児の行方など
誰も見ていない
ポチョムキン家のキッチンで、セリナは通販で取り寄せたルウとライスも使ってカレーライスを作った。最後にちょっとカリカリに焼いた薄切りベーコンを、肉の代わりに盛り付けて完成。
そのベーコンカレーを恐る恐る、彼女に言われた食べ方の、上に乗っけたベーコンをちょっとずつ齧りながら口に含むジョアン。
「¡Buenísimo!〈美味しい!〉こんなカレー初めてだけど。ちょっとチモーレに似てるかな?」
「口に合って良かった。彼もこれが大好きでね、付き合い始めた頃に作り方を教えてあげたら、毎日こればっかり食べてたの。流石に偏るでしょうって言っても聞かなくて、ちょっと困ったな」
家主のポチョムキン夫妻は、既に朝の散歩へ出掛けた後で、暇な休日を持て余したジョアンは皿洗い機を回すとテーブルに書き置きを残し、軽く家中を掃除して回っていたセリナにお願いして、一番近い都市まで車を出して貰った。車のラジオからはShape of youの曲が流れていた。
都市の街角では大道芸人が、オルガンを弾きながら歌っていた。
おいらの名前はポイポイロイ
ホイポイロイたら ホイポイロイ
笑わせるしか能のない
ちゃらんぽらんの 根なし草
おいらの名前はホイポイロイ
ホイポイロイたら ホイポイロイ
そこのイカしたべっぴんさん
おいらと踊っちゃくれねえか
おいらの名前はホイポイロイ
ホイポイロイたら ホイポイロイ!
二人はしばらく眺めた後、見物代を払おうとして、そこでセリナの財布がいつの間にかスリにあっていたことに気が付いた。
「どうしよう、薬も一緒に入れてたのに。あ…ダメ、もう気分が悪くなって来た」
「肩を貸すよ。どこか休める所を探そう」
一旦は公園のベンチに座ったもののセリナの体調は更に悪くなり、横になるため素泊まりのホテルに部屋を取った。ジョアンはセリナの回復を待って、最悪泊まることになるかも知れないとポチョムキン夫妻に連絡を入れた後、部屋から出て行こうとした。
「待って、どこに行くの? お願いだから私を一人にしないで!」
「玄関ロビーに行くだけだよ、落ち着いたらフロントに連絡して。曲がりなりにもホテルで男と二人きりなんて、何だかヤらしくない? セリナが駄目そうだったら、今日は僕も別の部屋を取るから」
ジョアンはそう言いながら、セリナの目尻に溜まった涙を指で払った。
「待ってジョアン、本当にお願い!」
甘やかさのかけらも無い、どうにか相手をこの場に押し留めようと繰り出された必死のキスは、涙に濡れてしょっぱかった。
二人とも着衣の状態でベッドに横たわり、セリナはジョアンと手を繋ぎながら話しているうちに、少しずつ落ち着きを取り戻した。
しかし二人は結局、その日の内には同じ部屋から出られなかった。明くる日ジョアンが開けたカーテンで、部屋に朝日が射し込んだ。素肌のまま微睡んでいたセリナは、より一層シーツにくるまりながら言った。
「ねえジョアン。さっきの話、1つだけ嘘なの。本当は流産してなかったの。事故の後に妊娠が発覚して、でも私一人じゃ育てられなかったから……」
ジョアンはベッドに乗り上げシーツを掻き分けると、腕をのばして彼女の腰に抱き着き、昨晩被膜越しに感じた泥濘を思い出しながら、薄い下腹部に頬を当てた。
「Beloved, 愛された者。胎児が心底羨ましいよ、――ここに居たんだね。最後まで愛されて」
次の日の夕方ようやく戻った二人を、ポチョムキン夫妻は何らかわりなく出迎えた。セリナは流石に長居し過ぎたと詫び、夫妻に帰国の意を伝えた。
「もう帰国するの? でも遅い時間だし、今晩は久しぶりに私が作るから。是非食べてから帰ってちょうだい」
クララ・ポチョムキンの言葉に、セリナは一瞬あからさまにほっとした表情を浮かべた。それからのクララの行動は早かった。自身の睡眠薬を砕いて4皿のオクローシカ(冷製スープ)のうち2皿に混ぜ、テーブルに並べた。
その日の真夜中、ポチョムキン夫妻は亡き息子の部屋の様子を覗き、今部屋を使っているジョアンが寝静まったことを確認すると、客間で眠るセリナに猿ぐつわを噛ませて縛り上げ、問答無用で車に乗せた。やがて人目につかない森の奥までやって来ると、ザウル・ポチョムキンはセリナを車から引っ張り出し、寒空の中、近くの木に繋いでから吐き捨てるように言った。
「何とふしだらな! お前はいったい何をしに来たんだ、たしかに謝っては欲しかった。だがそれで、全て赦されたと思うなよ」
「本当にザウルの言う通り。キリールを、過去の思い出になんかしないで頂戴。あなたがどう思ってるか知らないけど、私達にとっては大切な、たった一人の息子なの」
夫妻が帰宅すると、家の前で防寒着を着込んだジョアンが立っていた。彼だけではない、側には行きつけの料理店の娘イオニアと、教会の修道士メトディオスまでが顔を揃えていた。警戒感を強める夫妻に対し、メトディオスは親しげに話し掛けた。
「やあこんばんは。こうしてお話しするのは、キリールのパニヒダ以来ですね。セリナはどこです?」
『……』
「私とキリールは年も近く――ALTでしたっけ、彼が町を出て外国で暮らすまでは、普段から仲の良い友人同士でした。そんな彼が死んでしまっただなんて、私は未だに信じられません。明日にでもひょっこり教会に顔を出して、久しぶりだねグレブ、元気だった? とでも笑いかけてくれるような気がする」
「お言葉ですがね修道士。それを永遠に奪って台無しにしたのが、他でも無い彼女ではありませんか」
「クララ、奪われたのではありません。彼は我々よりも一足先に、主の御許へと旅立ったのです。再び会えるまで、我々はそれに恥じない生き方をしなくてはなりません。私の知る彼は、助かった妻の生存を喜びこそすれ、恨んだりはしないでしょう」
修道士メトディオスの説得に夫妻は折れ、彼等の案内で現場に向かった3人によって、セリナは救出された。彼女は凍傷を負っていたが壊死までは至らず、後日迎えに駆け付けた彼女の両親に伴われて退院すると、速やかに帰国の途についた。
「そもそも僕、睡眠薬は効かないんだよね。昔、無茶な飲み方し過ぎたからさ」
「いきなり来られて本当、どうすればいいかと思った。ジョアンは警察にはまだ通報しないでくれなんてほざくし」
「だってイオニ。すぐに警察呼んだら、ポチョムキン夫妻が逮捕されるじゃないか。まあセリナは全くの無事とはいかなかったし、夫妻も自首したから余計な配慮だったけど」
そう言いながら、ジョアンは自身の後見人となっている弁護士に電話を掛けた。
「あ、メスキータ弁護士? 僕のホームステイ先が無くなったんだけど、これからどうすればいい?」
「No hay problema. そちらは既に手配済みだ。それよりジョアン、君のうまれ故郷で大事件が起きたそうだ」
深く真っ逆さまに落っこちて
彼女は海の中に横たわった
水面は銀の膜で覆われて
宙に浮かんだ彼を阻む
嗚呼そうしている間にも
廻る刃は近付いてーー
流れた胎児の行方など
誰も見ていない
ポチョムキン家のキッチンで、セリナは通販で取り寄せたルウとライスも使ってカレーライスを作った。最後にちょっとカリカリに焼いた薄切りベーコンを、肉の代わりに盛り付けて完成。
そのベーコンカレーを恐る恐る、彼女に言われた食べ方の、上に乗っけたベーコンをちょっとずつ齧りながら口に含むジョアン。
「¡Buenísimo!〈美味しい!〉こんなカレー初めてだけど。ちょっとチモーレに似てるかな?」
「口に合って良かった。彼もこれが大好きでね、付き合い始めた頃に作り方を教えてあげたら、毎日こればっかり食べてたの。流石に偏るでしょうって言っても聞かなくて、ちょっと困ったな」
家主のポチョムキン夫妻は、既に朝の散歩へ出掛けた後で、暇な休日を持て余したジョアンは皿洗い機を回すとテーブルに書き置きを残し、軽く家中を掃除して回っていたセリナにお願いして、一番近い都市まで車を出して貰った。車のラジオからはShape of youの曲が流れていた。
都市の街角では大道芸人が、オルガンを弾きながら歌っていた。
おいらの名前はポイポイロイ
ホイポイロイたら ホイポイロイ
笑わせるしか能のない
ちゃらんぽらんの 根なし草
おいらの名前はホイポイロイ
ホイポイロイたら ホイポイロイ
そこのイカしたべっぴんさん
おいらと踊っちゃくれねえか
おいらの名前はホイポイロイ
ホイポイロイたら ホイポイロイ!
二人はしばらく眺めた後、見物代を払おうとして、そこでセリナの財布がいつの間にかスリにあっていたことに気が付いた。
「どうしよう、薬も一緒に入れてたのに。あ…ダメ、もう気分が悪くなって来た」
「肩を貸すよ。どこか休める所を探そう」
一旦は公園のベンチに座ったもののセリナの体調は更に悪くなり、横になるため素泊まりのホテルに部屋を取った。ジョアンはセリナの回復を待って、最悪泊まることになるかも知れないとポチョムキン夫妻に連絡を入れた後、部屋から出て行こうとした。
「待って、どこに行くの? お願いだから私を一人にしないで!」
「玄関ロビーに行くだけだよ、落ち着いたらフロントに連絡して。曲がりなりにもホテルで男と二人きりなんて、何だかヤらしくない? セリナが駄目そうだったら、今日は僕も別の部屋を取るから」
ジョアンはそう言いながら、セリナの目尻に溜まった涙を指で払った。
「待ってジョアン、本当にお願い!」
甘やかさのかけらも無い、どうにか相手をこの場に押し留めようと繰り出された必死のキスは、涙に濡れてしょっぱかった。
二人とも着衣の状態でベッドに横たわり、セリナはジョアンと手を繋ぎながら話しているうちに、少しずつ落ち着きを取り戻した。
しかし二人は結局、その日の内には同じ部屋から出られなかった。明くる日ジョアンが開けたカーテンで、部屋に朝日が射し込んだ。素肌のまま微睡んでいたセリナは、より一層シーツにくるまりながら言った。
「ねえジョアン。さっきの話、1つだけ嘘なの。本当は流産してなかったの。事故の後に妊娠が発覚して、でも私一人じゃ育てられなかったから……」
ジョアンはベッドに乗り上げシーツを掻き分けると、腕をのばして彼女の腰に抱き着き、昨晩被膜越しに感じた泥濘を思い出しながら、薄い下腹部に頬を当てた。
「Beloved, 愛された者。胎児が心底羨ましいよ、――ここに居たんだね。最後まで愛されて」
次の日の夕方ようやく戻った二人を、ポチョムキン夫妻は何らかわりなく出迎えた。セリナは流石に長居し過ぎたと詫び、夫妻に帰国の意を伝えた。
「もう帰国するの? でも遅い時間だし、今晩は久しぶりに私が作るから。是非食べてから帰ってちょうだい」
クララ・ポチョムキンの言葉に、セリナは一瞬あからさまにほっとした表情を浮かべた。それからのクララの行動は早かった。自身の睡眠薬を砕いて4皿のオクローシカ(冷製スープ)のうち2皿に混ぜ、テーブルに並べた。
その日の真夜中、ポチョムキン夫妻は亡き息子の部屋の様子を覗き、今部屋を使っているジョアンが寝静まったことを確認すると、客間で眠るセリナに猿ぐつわを噛ませて縛り上げ、問答無用で車に乗せた。やがて人目につかない森の奥までやって来ると、ザウル・ポチョムキンはセリナを車から引っ張り出し、寒空の中、近くの木に繋いでから吐き捨てるように言った。
「何とふしだらな! お前はいったい何をしに来たんだ、たしかに謝っては欲しかった。だがそれで、全て赦されたと思うなよ」
「本当にザウルの言う通り。キリールを、過去の思い出になんかしないで頂戴。あなたがどう思ってるか知らないけど、私達にとっては大切な、たった一人の息子なの」
夫妻が帰宅すると、家の前で防寒着を着込んだジョアンが立っていた。彼だけではない、側には行きつけの料理店の娘イオニアと、教会の修道士メトディオスまでが顔を揃えていた。警戒感を強める夫妻に対し、メトディオスは親しげに話し掛けた。
「やあこんばんは。こうしてお話しするのは、キリールのパニヒダ以来ですね。セリナはどこです?」
『……』
「私とキリールは年も近く――ALTでしたっけ、彼が町を出て外国で暮らすまでは、普段から仲の良い友人同士でした。そんな彼が死んでしまっただなんて、私は未だに信じられません。明日にでもひょっこり教会に顔を出して、久しぶりだねグレブ、元気だった? とでも笑いかけてくれるような気がする」
「お言葉ですがね修道士。それを永遠に奪って台無しにしたのが、他でも無い彼女ではありませんか」
「クララ、奪われたのではありません。彼は我々よりも一足先に、主の御許へと旅立ったのです。再び会えるまで、我々はそれに恥じない生き方をしなくてはなりません。私の知る彼は、助かった妻の生存を喜びこそすれ、恨んだりはしないでしょう」
修道士メトディオスの説得に夫妻は折れ、彼等の案内で現場に向かった3人によって、セリナは救出された。彼女は凍傷を負っていたが壊死までは至らず、後日迎えに駆け付けた彼女の両親に伴われて退院すると、速やかに帰国の途についた。
「そもそも僕、睡眠薬は効かないんだよね。昔、無茶な飲み方し過ぎたからさ」
「いきなり来られて本当、どうすればいいかと思った。ジョアンは警察にはまだ通報しないでくれなんてほざくし」
「だってイオニ。すぐに警察呼んだら、ポチョムキン夫妻が逮捕されるじゃないか。まあセリナは全くの無事とはいかなかったし、夫妻も自首したから余計な配慮だったけど」
そう言いながら、ジョアンは自身の後見人となっている弁護士に電話を掛けた。
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