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【8】もう一度踊るために

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 温人がこの部屋を去ってから数日後、「準備稿」と呼ばれるホンが勇士郎の手元に届いた。決定稿の一つ手前の台本で、本の形に印刷されたものが、関係者一同に配られるのだ。
 ここで俳優陣による最終的な意見や要望、また制作スタッフによるロケ場所や衣装、美術関連の問題点や、追加要望、変更箇所についての連絡等が、河合を通してあがってくる。勇士郎はそれらを踏まえて決定稿を目指すことになるのだ。
 そして河合から、マダムとソウタのなにか印象的なシーンがもうひとつあるといい、という注文が入ったため、勇士郎は全体を見渡しているところだった。
 入れるとしたら、クライマックス近くで、ソウタの心もだいぶ変化してきてはいるが、それでもまだ不安な気持ちを抱えている辺りがいいかなと思う。
 その不安な心を、ソウタが思わずマダムに告げてしまうようなシーンがいいと思ってずっと考えているのだが、なかなかいいシーンが浮かばなかった。
 カーソルはずっと、同じ場所でチカチカと点滅している。それを見つめているうちに勇士郎はひどく息苦しくなり、文書を閉じると部屋を出た。
 十月半ばになると、日々の気温差も大きくなる。部屋を出た勇士郎は、久しぶりにMINIに乗って、ブックカフェに向かった。
 温人が去っていったあの日からよく眠れなくて、日ごとに身体が弱っていっているのが判る。食欲もなかったけれど、何か食べないと持たない。今日の夕飯はカフェで軽くサンドイッチか何かを摘まめばいいだろう。
 駐車場を出て左折し、ゆるい坂を上るとあの交差点がある。
 七月の暑い日に、自転車に布団と風呂敷包みを積んだ温人に遭遇した場所だ。
 勇士郎は停止線で止まって、あの日の残像を探すみたいに目を細めた。
(おかしな男やったな、ほんまに……)
 初めて見た時の衝撃が蘇ってきて、勇士郎は思わず笑ってしまう。そしてすぐに鼻の奥がツンと痛くなった。
 きっともう、あんな男には出逢えない。
 もう二度とあんな風に、温かい腕に抱かれることもないだろう。
 顔を思い出すだけで愛しくて、悲しくて、目の前がぼんやりと滲んでしまう。
 プワン、と後ろからクラクションを鳴らされて、勇士郎は慌てて涙を拭うとMINIを発進させた。

 その後も相変わらず眠れない日々が続き、原稿も思うように修正と加筆が進まず、勇士郎はデスクで頭を抱えるばかりだった。
 これまで書いてきたものが、良いのか悪いのかも判らなくなってくる。スケジュールはギリギリだ。すでに準備稿を元に様々な人たちがクランクインに向けて動いている。
 プレッシャーは日ごとに強くなり、焦りのために食欲もほとんどなくなっていた。
 そんな日が続いたある日の午後、思いがけず温人からの郵便物が届いた。四角く薄いそれは、丁寧にクラフト紙で包まれており、栗原温人という差出人の上には、埼玉県の住所が書かれていた。
 勇士郎は急いで包みを開けた。綺麗な包装紙に包まれた板状のものと封筒が入っている。
 勇士郎はどきどきする胸を抑えながら、包装紙を丁寧に剥がした。そして出て来たものを見て、思わず目頭が熱くなった。
 それは『ニュー・シネマ・パラダイス』のサウンドトラックのレコードだった。一緒に映画を観た時、この曲もレコードで聴いてみたいと勇士郎が言ったことを、温人は憶えていてくれたのだ。
 勇士郎は滲む涙を拭いながら、同封されていた手紙の封を開けた。相変わらず上手くはないが、几帳面な文字が並んでいる。
『ユウさん、お元気ですか。俺は元気です。
 この前、ユウさんが聴いてみたいと言っていたレコードを見つけたので送ります。
 俺はあのあと、埼玉の祖父母のもとに戻り、そこでちゃんと生活しています。いつかユウさんに話した、自分が本当にしたいことのために、準備をしています。
 夜眠る時、あなたが泣いているような気がして、ずっと心配しています――』

 思わず手紙をくしゃりと握り締めて、そこに顔を埋めた。ぼろぼろと涙が零れ落ちる。
 温人に逢いたかった。とてもとても逢いたかった。
 背が高くて、優しくて、温かい腕を持ったひと。
 言葉足らずなところはあるけれど、いつもちゃんと自分のことを見ていてくれた。いつでも、自分の言葉に耳を傾けてくれた。
 優しく甘えさせてくれたあの腕が恋しくて、恋しくてたまらない。もう一度、あの腕に強く、強く、抱き締めて欲しいと思う。
 けれど、温人が自分の夢のために動き出したのなら、自分はそれを応援しなければならない。
 そして、自分もせめて温人に恥じないように、精一杯のことをしようと、勇士郎は強く心に誓った。


 温人から手紙とレコードが届いた日の翌日、勇士郎は都内のダンススタジオを訪れた。
 マダム・ノワール役の辰己鏡子が、タンゴレッスンをしているので見学してみないかと河合から勧められたのだ。話は通されているらしく、勇士郎はすぐに見学を許された。
 広いスタジオ内には辰己鏡子の他に、ダンス講師やそのほかのダンサー、ドラマのスタッフやマスコミ関係者と思われる人々が集まっていた。
 初めて生で見る辰己鏡子は、履いているヒールのせいもあると思うが、とても長身でスレンダーな体つきをしている。
 露出度の高い、稽古用と思われるドレスを着ていたが、引き締まった身体からはしなやかな獣を思わせる圧倒的なパワーとオーラが感じられた。さすが大女優だ。どこにいても、周りの人間から、彼女だけがパアッと浮き上がって見える。
 しかし勇士郎が本当に驚かされたのは、そのあとだ。タンゴの名曲がかかり、相手役の男性講師と吸い付くように身を寄せた瞬間、彼女の顔つきが変わった。
 とても還暦を過ぎているとは思えない、キレのある動きと、躍動するステップに、勇士郎は鳥肌が立つほどの感動を覚えた。
 パートナーとぴったり沿ったままのステップから脚をクロスさせ、絡め、跳ね上げる。腰から下を回転させ、そこからの速いステップはフロアを駆けるように移動し、複雑なターンののち、ぴたりと静止してのけ反る。
 流れるように、もつれるように展開するダンスは、男女の心の機微を示し、その完璧な動きによって見る者を激しく魅了した。
 ステップだけではない。辰己の眉を顰めた切なげな表情は、女の情念と哀切を表し、官能的としかいいようがない。
 彼女は今、本当に自分が往年のタンゴダンサー、マダム・ノワールだと信じて踊っているのだ。
 これがプロの仕事なのだと、勇士郎は強い感銘を受けた。
「あの、タカオカ先生ですよね、脚本の」
 呼びかけられて振り向くと、小柄な四十代くらいの男性が、にこにこしながらすぐ傍に立っていた。
「はい」
「私、辰己鏡子のマネージャーをやっております、宮澤みやざわと申します」
 相手が名刺を差し出したので、勇士郎も慌てて名刺を出し、挨拶をしながら交換をした。
「ウチの先生、今回もう、かなり気合入ってるんですよ!」
 宮澤が踊る辰己の方を見ながら、嬉しそうに言う。
「はい、僕も今見学させてもらってびっくりしました。ほんとに…、凄いです」
 勇士郎も改めて彼女のダンスを見つめながら、興奮ぎみに告げた。
「でもね、ここまで来るのに、実は相当転んでるんですよ、先生」
「え」
「あの高いヒールで踊るっていうのは、想像以上に大変らしくて、レッスン始めた当初はしょっちゅう転倒してました。身体なんかアザだらけです」
「――そうなんですか」
「はい。あの大女優、辰己鏡子が、若いスタッフたちの前で、みっともなく転ぶんですよ、何度も何度も。でも言い訳ひとつしないです、あのひと。すぐに立ち上がってまた再開するんです。私、それ見た時、一生このひとについていこうって思いました」
 誇らしげに彼女を見つめる彼の気持ちが痛いほどに伝わってきて、勇士郎の胸も俄かに熱くなった。
 どこか不遜にも見える、女王のような普段の立ち居振る舞いは、こうしたたゆまぬ努力と、妥協を許さぬプロ根性に裏打ちされた、彼女の、女優としてのプライドの表れなのだと知る。
「……カッコいいですね、本当に」
「はい!」
 勇士郎はふいに胸が苦しくなって、辰己を見ながら目を瞬かせた。自分が作り出したキャラクターに、大女優が全力で向き合ってくれている。何度転んでも、そのたびに起き上がって。
(それに比べて、オレはなんて情けない)
 傷つくことを怖れて、いつでも逃げてばかりいた。転ぶことを怖れて、二度と踊れなくなったダンサーのように。
「これ、辰己先生にお渡しいただけますか」
 持ってきた差し入れを宮澤に渡す。
「ご挨拶をしようかと思っていたんですが、このダンスを見ていたら邪魔したくないと思ってしまいました。今回お引き受けくださったこと、心から感謝しております、とお伝えください」
 勇士郎の気持ちが解ったのか、宮澤も差し入れを快く受け取り、オンエアを楽しみにしています、と言ってくれた。
 スタジオを出ようとしてふとフロアの奥で辰己のダンスを見ている青年の姿に気が付いた。間仕切りのカーテンの端を掴むようにして、熱心に彼女のダンスに見入っている。
 地味で大人しそうな彼の姿が、まるでドラマの中でマダムのダンスをこっそり見ているソウタのように見えて思わず足を止めた。
 そして次の瞬間、それが英圭吾だと気付き、仰天する。
(え、ほんまにアレ、英くん、か……?)
 あんなに派手で華やかな顔立ちの青年が、今は見た瞬間から忘れそうな地味な顔立ちに見える。誰も彼の存在には気付かない。
 もちろんその造作は変わっていないのだが、纏う雰囲気やその表情が、英圭吾とは別の青年だとしか思えないのだ。
 これが彼の、役へのアプローチなのかもしれない。
 いまステージで踊る辰己鏡子が、マダム・ノワールになり切っているのと同様に、英も、十五年間引きこもったソウタという青年として、今ここに居るのだ。
(ほんまに凄い――) 
 二人の役者の、プロとしての真摯な姿勢に、言葉に出来ないほどの感動を覚える。
 必ず良いホンにしなくてはならないと、勇士郎は強く思った。
 そしてこの仕事を無事に終えたら、温人に逢いに行こうと思う。
 今、もしかしたら、温人のそばには別の誰かがいるかもしれない。そうだとしても構わなかった。
 逢って、この気持ちだけは伝えたい。
 勇士郎は初めて、強い気持ちでそう思った。
 
 その夜から最終稿の仕上げに入った。
 勇士郎は赤いチェアに深く腰掛け、目を閉じて、深く息を吸い、ゆっくりと吐いた。
 それから静かにキーボードの上に指を置く。
 その人が生きてきた時間すべてが、その人を作る。けれどそれはまた別の時を重ねることで、変わることも出来るはずだ。
 この旅はまだ終わらない。何度でも迷えばいい。それが生きている者の特権だ。
 逃げずに探し求め続ける限り、新たな道は開かれる。
 そんな想いを込めて作品と向き合い、二日後の眩しい朝陽が昇る頃、最終稿を脱稿した。
 勇士郎は心地よい疲れとともに少し笑ったあと、意識を失うようにベッドに倒れ込んだ。

 十一月に入ってから、オンエアが一月に決まったと河合プロデューサーから連絡があった。
『今までで最高の照りツヤ出てたよ』という(おそらく)最高の賞賛の言葉が、勇士郎に力を与えてくれた。
 勇士郎は礼を言って電話を切ると、温人に、今まで伝えられずにいたレコードのお礼と、「温人に観て欲しい」というメッセージを添えて、オンエアの日時を知らせるメールを送った。

 それから数日後には、無事クランクインしたとの連絡を受けた。あとはもう、オンエアを待つだけだ。
 次の企画に取り掛かりながら、勇士郎は静かな秋の日々を過ごした。
 夜は時々、温人が置いて行った『愛の讃歌』を聴きながら、少しだけワインを飲んだりして、眠るまでの穏やかな時を過ごす。
 ソファの上で目を閉じていると、すぐ隣に温人がいるような気がした。温人、と呼んで、返って来る声を思い出しながら微笑む。
 寂しかったけれど、必ずまた逢えると信じているから、悲しくはなかった。

 大晦日の夜、思いがけず大阪の実家から電話があった。ぼんやり紅白を見ていた勇士郎は、携帯の画面に出た「実家」という文字に驚いて、思わずソファの上で正座をしてしまう。
「は、はい」
 緊張でかすれる声で応答すると、しばしの沈黙ののち、大きな声が耳に飛び込んで来た。
『高岡勇士郎さんですか!』
「は、はい! ……?」
『俺や、俺』
「え、――親父…?」
『せや、おまえ今どこにおるんや』
 何もかもが突然で、勇士郎は軽くパニックになる。
「え、オレ…が住んどるところ?」
『せや、どこにおるんや』
「千葉やけど」
「千葉か!」
「うん」
『千葉はええところか?』
「ええとこって、……うん、まあ、ええとこやよ。親父、ちょっと酔うとる?」
『うん、まあ、ちょっと飲んどる』
 また一瞬、沈黙が落ちる。父親と言い合いをしてから今日まで、六年あまりの空白がある。それゆえ何を話していいのか、まったく判らない。
『おまえ、幾つになったんや』
「オレ? 三十二やよ。今年の六月で三十二になった」
『そうか、三十二か。六月十一日やな』
「そうや、六月十一日や」
『……』 
「親父、あの、」 
『メシは食えとるんか』
 ハッとして、勇士郎は携帯を強く握る。それが訊きたかったのだろうか。
「……うん、…うん、ちゃんと食べとるよ。――親父、……あの、…ごめん」
 六年間、言えなかった言葉が、素直に飛び出した。自分の選んだ道が間違っていたとは思わないが、心配をかけたことは確かだ。父がどう思っているのかが怖くて、今までずっと考えないようにしてきた。
「心配かけて、ごめん」
 勇士郎がもう一度、きちんと言うと、電話の向こうで少し口ごもるような気配があり、そのあとカタン、と音がして電話の受話器が置かれたのが判った。
弥和みわー、勇士郎から電話や!』
 自分からかけておきながら、母に向かってそう叫ぶ声を聞いたとき、勇士郎は胸が熱くなって泣き笑いをした。
 はいはいはい、というのんびりした声が聞こえて、再び受話器が取り上げられる音がした。
『勇ちゃんか?』
「うん、勇士郎や。ご無沙汰してます」
『なんや、大人みたいな挨拶して』
 母がコロコロと笑う。ああ、そうだったと勇士郎は思った。頑固で武士気質な父親とは正反対の、おっとりしたこの母親に勇士郎はいつも助けられていたのだと思い出す。
 今更ながら、六年も連絡をせずに心配させたことを、心から申し訳なく思った。
「ごめん、長いこと連絡せえへんで」
『ほんまやわ、まあ、あんたのことやから、そない心配はしてへんかったけど。ちゃんと食べとるん?』
「うん、食べとるよ。仕事もちゃんとしとる」
『それはよう知っとるよ。あんたのドラマはみんな観とるで』
「え、ほんまに?」
『ほんまや。お父さんなんかなあ、自分の部屋用に、小さいテレビ買うたんやで。あんたのドラマ、こっそり録画して、独りで観てはるわ』
「えっ、ウソや……」
 ドキン、と心臓が跳ねた。まさかあの親父が、と心底驚き、それからジワジワと喜びがこみ上げて来る。
「知らんかった…、親父が観てくれとるなんて」
『ああいう人やから、口が裂けても言わんやろ』
 母がまた楽しそうに笑った。
「こ、今度な、一月にドラマやるんや。オレが書いたやつ。初めてのオリジナルや」
『知っとるよ。お父さん、テレビ番組の雑誌買うてきて丸つけとったわ』
「えー、ほんまに?」
 感動が頂点に達する。
『だって、あの人、辰己鏡子の大大大ファンやもん。せやから嬉しゅうて、我慢できんようなってかけたんやろ』
 意外な種明かしをされて、ちょっと微妙な気持ちになったが、応援してくれていることには間違いがなさそうなので、勇士郎は何度も礼を言い、必ず近いうちに帰省すると告げて電話を切った。
 この仕事をやっていて良かったと、改めてしみじみ思いながら、同時に、大切な家族をなくした温人のことを思い、胸がズキリと痛んだ。
 今、この夜を、温人はどんな風に過ごしているのだろう。祖父母と一緒に紅白でも見ているのだろうか。
 温人が寂しくしていなければいい、と勇士郎は思う。
 

 そして年が明け、一月十一日。オンエア当日となった。
 勇士郎は早めに夕食と風呂を済ませ、録画準備が整っていることを再度確認してから、リビングのソファに腰を落ち着けた。
 この瞬間は、何度経験しても激しく緊張する。しかも、今回は初のオリジナルということもあって、握り締めた手が強張った。
 今ここに温人がいてくれたら、と強く思う。
(温人、観てくれてるやろか……)


 ✦
          

 ホテル『夜間飛行』の一階には、広いダンスフロアがある。客席から一段高く作られたそのフロアには、ここでタンゴを踊った人々の、無数のステップの跡が刻まれている。
 凍てつく冬の夜、窓の外には雪が舞っていた。その静かな夜の奥から聞こえてくるのは、官能とパッションに満ちたタンゴ音楽だ。
 柔らかなスポットライトの落ちるフロアの中心で、一組の影が揺れている。
 マダム・ノワールと男爵だ。
 黒夫人と呼ばれるマダムは、いつも黒いドレスを身にまとっている。
 男爵というのは、普段はバーカウンターの中で、客たちに酒を振舞うバーテンダーのあだ名だ。
 このホテルの従業員はみな、相手のいない客たちのために、ステップを習得しなければならなかった。それはソウタも例外ではない。
 初めてターンの練習をした時は、目が回って吐いてしまったこともあるが、今ではもう、そんなこともなくなった。
 しかし今、マダムの相手をしている男爵のテクニックは玄人はだしで、ソウタの拙すぎるステップなどは比べるべくもない――。

◯ ホテル『夜間飛行』・ダンスフロア(夜)
  廊下まで漏れ聞こえる音楽。
  制服姿のソウタがドアの隙間から
  中を覗いている。
  フロアの上ではマダムと男爵が
  甘美なメロディにあわせて
  タンゴを踊っている。
  男爵、ソウタの姿に気付く。
男爵「んなとこで覗いてないで、入って来たらどうだ」
  ソウタ、ビクリと肩を震わせ、
  おずおずと中に入る。
  二人の華麗なダンスに
  目を奪われるソウタ。
  曲が終わり、哀愁を帯びた
  スローテンポなナンバーに
  変わる。
  マダム、おもむろに男爵から
  離れ、ソウタに向かって
  優雅に手を伸ばす。
ソウタ「いや、俺は――」
  マダムは手を伸ばしたまま
  ソウタを見ている。
  ソウタ、ためらったのち、
  ぎこちないステップで
  フロアに入る。
  マダムの手を取り、
  動きに合わせるが、
  ステップが複雑すぎて
  間に合わない。
マダム「下を見ない」
  慌てて顔をあげるソウタ。
  そのままもつれるように
  踊る二人。
  ソウタ、何度もマダムのヒール
  を踏む。
ソウタ「す、すみません」
マダム「(小さく笑い)吐かなくなっただけ、上等じゃないか」
  ソウタ、恥ずかしさに俯くが、
  すぐに慌てて顔をあげる。
  少しずつ二人の息が合い始める。
  マダム、乱れたソウタの
  髪を撫でる。
  母親のような仕草に、
  ソウタの顔がくしゃりと歪む。
ソウタ「――わ…分からないんです、俺、…どうして…、俺だけ、こうやって生きてるのか、…あんなに、母さんたちを苦しめて、…自分だけ逃げて。……もう、償うことも出来ないのに、…俺は、なにも、出来ないのに」
マダム「――」
ソウタ「どうやってこの先、…なんのために、生きればいいのか……分からないんです」
  マダム、無言でステップを
  踏み続ける。
ソウタ「……す、すみません」
マダム「考えればいい」
ソウタ「え…」
マダム「いまアンタがここにいること。この世界に残されたということ。その意味を考え続ければいい」
  ソウタ、ぽろりと涙を零す。
マダム「どう生きれば正解かなんて、誰に分かるんだい。アタシたちは神様じゃないんだ」 
  グイと涙を拭い、
  マダムを見るソウタ。
  毅然と前を向き続ける
  マダムが眩しい。
マダム「もし分かってるヤツがいるとしたら、そいつはもう、人間なのさ」
  マダム、ソウタを見て
  薄く微笑む。
マダム「あんたはどうなんだい、坊や――」
 

 ✦        


 
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