3 / 7
第三章 兄貴の花
しおりを挟む
交番の巡査からは、坊のことを役所にも相談するように言われていたが、坊と一緒に過ごすうちになんだか彼を離しがたくなり、相談に行く日を、どんどん先延ばしにしてしまっていた。
だがこのところ亮次は頻繁に誰かの視線を感じるようになっていた。坊と夜の散歩をしている時も、誰かにつけられているような気がして振り返ることもあり、不安を覚えることがたびたびあった。
もしかして坊を保護したことで、知らぬ間に、なにか良からぬことに巻き込まれているのだろうか。
気のせいならいいのだが、何かあってからでは遅い。昼間の仕事は仕方ないとして、亮次は念のため夜の警備のバイトをしばらく休むことにした。
夕方もなるべく早くに帰宅し、坊のそばにいるようにしている。
亮次のアパートは、私鉄の最寄り駅から歩いて十分ほどのところにある。細い道が入り組む、寂しげな町の一角に建つそのアパートは、築年数も古く、外壁もくすんでいて、見るからに侘しい住まいだ。
けれど今その中に坊がいるのだと思うと、この建物自体が、なにか温かくて優しいものに包まれているような気がするのが不思議だった。
坊と一緒に暮らすようになってから、亮次は料理や洗濯、掃除などをめんどくさがらずにやり、少しずつ生活を整えるようになった。
職場でもなんだが雰囲気が変わったと言われ、仕事を終えると早々に帰ろうとするので、最近ではよく同僚に冷やかされたりもする。
亮次が玄関扉の鍵を開けると、坊はその音を耳ざとく聞きつけて、ドアの前で待っていてくれるようになった。
あんなに絵に夢中になっていた坊が、その手を止めて、亮次を迎えに出てきてくれるのだと思うと、なんだかくすぐったいような気持ちになる。
坊は亮次が作る不恰好な料理でも、嫌がらずになんでも食べた。特に亮次が作る塩結びが気に入ったらしく、食べたそうな気配を感じると亮次はそれを作ってやる。
具もなく、海苔も巻かれていないシンプルな握り飯だが、少し柔らかめに炊いた米に、濃いめの塩をまぶしてふんわりと握ってやると、喜んで食べているのが判った。
まるでヒナに餌を与える親鳥のような気分で、そんな自分の姿に亮次は苦笑してしまう。
誰かの世話をすることが、こんなに心浮き立つものだとは知らなかった。
そして自分はこれまでずっと、自分のためだけに生活してきたのだと気付く。自分の都合で食べ、眠り、仕事以外ではほとんど誰とも喋らずに過ごしてきた。
けれど今は違う。坊が傍にいると自然と優しい気持ちが沸き起こってきて、何でもしてやりたいという気持ちになるのだ。
自分がそんな感情を持つなんて思いもしなかった。まるで自分ではないみたいで、なんだか照れ臭くて、そして何故だか少し胸が痛んだ。
その晩は春らしい暖かな夜で、亮次は庭への戸を開け放すと、芳しい夜の空気を胸一杯に吸い込んだ。
サッシ戸の桟にもたれて座り、缶ビールをゆったりと傾ける。
坊は座椅子のように亮次の胸にもたれて座りながら、おとなしくしていた。ちいさな背中の優しい温もりが伝わってきて、亮次は思わず満たされたような溜め息をつく。
庭には白い花が幾つも咲いていた。ハナニラという花で、星の形をした、夜目にも目立つ可憐な花だ。
美里が亮次の実家の庭から分けて貰ったのだと言って持って来た。
享一が好きだった花だと、美里は言った。
「俺の兄貴は、宇宙に憧れてた。…星が好きだったんだ」
まるで発光しているかのように、暗がりに淡く浮かび上がるハナニラを見つめながら、亮次は独り言のように呟いた。
坊は小さく耳を動かし、それから庭の方を向いて亮次の胸に片頬をつける。亮次はその頭をそっと優しく撫でた。
亮次が今のアパートに移ったのは三年前の今頃のことだ。きっかけは美里が仕事のために上京し、ハナニラを手に亮次を訪れたことだった。
夜、独りでその星の形をした花を見ていた時、亮次は享一が星や宇宙がとても好きだったことを思い出した。
子供の頃、享一は大規模な流星群が見られると知ると、喜び勇んで亮次を連れて出掛けた。
街明かりから離れた見晴らしの良い丘で、二人は草むらに並んで寝転がり、流れては消えてゆく星たちを指差しながら歓声をあげた。
『あの星の向こうにはなにがあるんだろう』
いつかあの星のなかへ行ってみたい。
そう言って、魅入られたように流れ星を一心に見つめていた享一の横顔を、亮次ははっきりと憶えていた。
すでに叶わなくなってしまった享一の夢がしばらく頭から離れず、兄を失ったときの衝撃や、激しい喪失感を再び味わっていたとき、亮次はテレビで外国の俳優が宇宙葬を行ったというニュースを見た。
自分が死んだときは、遺骨をカプセルに入れて宇宙へ送って欲しいと家族に伝えていたそうだ。
亮次はそのニュースを食い入るように見つめていた。そしてそのとき、兄を宇宙へ送ることを決意したのだ。
調べてみると打ち上げはアメリカで行われるらしい。次の打ち上げの時期は未定だが、決まったときにすぐに申し込めるように金を貯めることにした。
兄を独りで行かせるのは嫌なので、自分も渡米して立ち会うつもりだった。そのときは享一が好きだったこの花も一緒に連れて行こうと思っている。
今のアパートへ越したのはこの花のためだ。家賃は少しだけ上がったが、ささやかながら庭がついているのが決め手になった。
通りから一番奥まった角部屋で、花を植えていることを見咎められることもない。
亮次がもの思いにふけっていると、坊はいつのまにか亮次の膝から降りて、ハナニラのそばにしゃがみ込んでいた。
亮次も庭におりて坊の脇にしゃがみ込み、坊の手を取って、ハナニラの花びらに触れさせた。
「ひんやりして気持ちいいだろ。毎年こうやって頑張って咲いてくれるんだ。兄貴の花だ」
坊は亮次が手を離しても、花びらをそっと摘まんで熱心に見ていた。
「これからはこいつの世話をするのはおまえだ。この花は替えが利かないんだからな。絶対枯らすなよ?」
本当は放っておいても問題ないくらい強い花だが、そう言えば坊がずっと傍にいてくれるような気がした。
けれど本当は判っている。こんな時間がいつまでも続くわけがないということを。
「――おまえもいつか、月へ帰っちまうのか」
可愛い頭を撫でると、胸の奥を切ないような痛みが過った。
翌日目覚めると、坊はすでに起きていて、布団のうえにぺしゃりと座り込んだ姿勢で、ぼんやりと亮次を見ていた。
「ん…どうした、早いな」
いつもは亮次の腕のなかで目覚める坊だ。亮次は身体を起こし、クセになったように坊の頭に触れると、すぐに違和感を覚えた。
「おい…、おまえ熱があるのか」
亮次の手を頭に乗せたまま、坊は潤んだ目で亮次を見上げる。発熱のせいだろう。顔も微かに赤く火照っていた。
「くそ、なんでもっと早く起こさなかったんだ」
亮次は慌てて体温計を探し、それを坊の脇に挟ませると、パジャマの上から自分の上着を被せて前をしっかりと閉めてやった。
すぐにピピ、と音が鳴って体温計を取り出して見ると、37度8分と出ている。
「マジか……」
亮次はミネラルウォーターを電子レンジで温め、坊に飲ませてから布団に寝かせると、最寄りのコンビニまで走り、レトルトの粥やゼリー飲料、ヨーグルトなどを買って急いで戻った。
坊にゼリーを飲ませながら、仕事を休もうかと考えたが、今日は人が足りないと聞いていた。得意先に車を取りに行って、洗車後にまた届ける予定もある。
少し思案したのち、亮次は美里に電話をかけた。
美里は朝早いにも拘らず、すぐに出てくれた。
「悪い、朝早く。坊が熱出したんだ。今日はちょっと休めなくて、美里、今日仕事か」
『ううん、今日は定休日だから大丈夫だよ。すぐに行く。坊は大丈夫? 熱高いの?』
亮次はホッとしながら坊の状態を伝えた。
「まだ薬局やってないから薬買えなかったんだ。熱が上がるようだったら何か買ってきて飲ませてやってくれないか。金は後で払う」
『わかった。様子見てあんまり高くなるようだったら飲ませてみるよ。でも薬のアレルギーとかあったら大変だから、なるべく汗かかせて、水分取らせてあげる方がいいかも』
「助かる。頼んだ。俺はもう出なきゃいけないから鍵はポストの中に入れておく」
『わかった。……なんか嬉しいな』
「え?」
『初めてでしょ、亮次が私に何か頼みごとするの』
「……そうだったか」
『とにかく心配しないで、あとは任せてよ。でもなるべく早く帰ってきてあげてね。坊が寂しがるから』
亮次は分かった、と短く告げて電話を切ると、急いで身支度を整え、布団に横たわる坊のそばに跪いた。
「美里がすぐに来てくれるから、それまでおとなしく寝てるんだぞ」
頭をそっと撫でると、坊は布団から弱々しく手を出して、亮次のジャケットの袖口を掴んだ。大きな目が熱に濁るのが可哀そうで、亮次は思わず額を坊の額にくっつけて元気づけるように言った。
「大丈夫だ。終わったらすぐ帰ってくるから。ちゃんと寝て、早く熱を下げるんだぞ」
それから坊の手を布団の中に戻し、すがるような目に後ろ髪を引かれながら、亮次は部屋を出た。
休憩時間に美里に電話で坊の様子を聞きながら、慌ただしい時間を過ごし、六時で仕事をあがると、亮次は急いでアパートへと帰った。
鍵を置いて行ったのでチャイムを鳴らすと、美里が出てきてシッと指を口許に当てた。
「今寝てるから」
「熱は?」
「だいぶ下がったよ。いちおう薬持って来たけど、飲まないでも大丈夫みたい」
「そうか。ありがとう」
慌ただしく靴を脱ぐと、亮次はまっすぐに坊の眠る布団へと向かった。今夜は花冷えの寒い夜だったが、部屋のなかは暖かく、朝よりもずっと穏やかな顔で眠っている坊を見て、亮次はようやくホッと息をついた。
「今日は悪かったな。せっかくの休みだったのに」
「ぜんぜん、坊の可愛い寝顔見られて役得だったよ。裸も見れちゃったし」
「は?」
亮次がバッと振り向くと、美里はニコッと笑ってキッチンで鍋に火をかけた。
「坊のために野菜スープ作ったんだけど、亮次も食べる?」
「ああ…、いや、どういうことだよ、裸って」
「着替えさせたから。汗かいてたし、そのままにしてたら余計風邪引くでしょ」
美里が事もなげに言うのを、亮次は苦い顔で見つめた。他意はないのだし、美里が看病のために坊を着替えさせるくらい、何の問題もないはずなのに、何故だかムッとしてしまう。
「まさか、ぜんぶ脱がせたのか」
「やだ、そんなワケないでしょ。パジャマの上着替えるの手伝っただけ。坊だって自分でパンツくらい脱げるでしょ」
「パ…」
あっけらかんと言う美里に、亮次は一瞬沈黙する。
「ちょっと、なに動揺してんのよ。坊の裸なんていつも見てるんじゃないの?」
「いつも見てるって、…変な言い方すんな」
「変なのは亮次じゃない。まったく坊のこととなったら必死なんだから」
意外なことを言われて亮次は思わず美里を見つめた。
「まあ、それは坊も同じだけど」
「…どういうことだ」
「どこかのイケメンさんに夢中ってこと」
「なんだそれ」
「今日一日じゅうね、起きてる時はずっと玄関の方見てたんだよ。亮次が早く帰って来ないかなーって、目がそう言ってるの。ご飯食べてるときも、蒸しタオルで顔拭いてあげてるときも、ずーーーっとね。あたしそれ見てたらなんか胸がキューンってしちゃったよ」
亮次は苦笑して見せたが、その様子を想像すると、坊がどうしようもなく愛しいような気持ちになった。
「だけど、ほんとに綺麗な子だよね。色白いし、目なんか大きくて吸い込まれそう」
美里がスープを皿によそいながらしみじみと言う。
確かに坊はとても整った顔をしていた。身体も、華奢ではあるが腕や脚は長く、全体的にバランスの取れた、とても美しい姿をしている。
手の形も綺麗だった。細い指の先に、桜色の爪が可愛らしく並んでいるのを、亮次はいつも愛でるような気持ちで見ているのだ。
「髪もちょっと伸びたよね。もう少し伸びたら、きっともっと可愛くなるよ。そしたら私がカットしてあげる。みんな振り返ると思うな」
亮次はムッとして、脱いだジャケットを乱暴にハンガーに掛ける。
「ダメだ。坊は坊主のままでいい」
亮次の言葉に美里が吹き出した。それがあまりにも分かり易い独占欲だと、気付いていないのは亮次だけだ。
「亮次がそんなに誰かに執着するなんて、ほんとに珍しいよね」
「執着って、俺は別に……、」
美里はスープ皿をテーブルに置きながら、呆れたように笑った。
「自分で気づいてないの? もう何日も経つのに役所にも相談してないし、熱出したらこうやって私にあの子を見てるように頼むし、あの子のために料理したり、布団買ったり。しかもその買った布団は、ナチュラルに一組だし」
美里のからかう声に、亮次はしばし絶句する。
「でも、私はいいことだと思うな、すごく」
美里は口許に笑みを残したまま、優しい目で亮次を見た。
(執着……? この俺が、あの坊に?)
亮次は言われたことに驚きながらも、美里の言葉を否定できるような事実が何ひとつないことに気付く。
「でもやっぱりこのままじゃ駄目だよね。保険証もない状態じゃ、今後大きな病気になったり怪我したりしたら大変だもん。ちゃんと考えなきゃ。これからも坊と一緒にいたいならね」
それは亮次も考えていたことだ。特に今回のことで切実に思い知った。
坊が亮次と一緒にいることで不幸になったり、万が一、命を落としたりしたら悔やんでも悔やみ切れない。
「亮次?」
「……ああ、考える」
亮次は坊の頭をそっと撫でながら低く答えた。
だがこのところ亮次は頻繁に誰かの視線を感じるようになっていた。坊と夜の散歩をしている時も、誰かにつけられているような気がして振り返ることもあり、不安を覚えることがたびたびあった。
もしかして坊を保護したことで、知らぬ間に、なにか良からぬことに巻き込まれているのだろうか。
気のせいならいいのだが、何かあってからでは遅い。昼間の仕事は仕方ないとして、亮次は念のため夜の警備のバイトをしばらく休むことにした。
夕方もなるべく早くに帰宅し、坊のそばにいるようにしている。
亮次のアパートは、私鉄の最寄り駅から歩いて十分ほどのところにある。細い道が入り組む、寂しげな町の一角に建つそのアパートは、築年数も古く、外壁もくすんでいて、見るからに侘しい住まいだ。
けれど今その中に坊がいるのだと思うと、この建物自体が、なにか温かくて優しいものに包まれているような気がするのが不思議だった。
坊と一緒に暮らすようになってから、亮次は料理や洗濯、掃除などをめんどくさがらずにやり、少しずつ生活を整えるようになった。
職場でもなんだが雰囲気が変わったと言われ、仕事を終えると早々に帰ろうとするので、最近ではよく同僚に冷やかされたりもする。
亮次が玄関扉の鍵を開けると、坊はその音を耳ざとく聞きつけて、ドアの前で待っていてくれるようになった。
あんなに絵に夢中になっていた坊が、その手を止めて、亮次を迎えに出てきてくれるのだと思うと、なんだかくすぐったいような気持ちになる。
坊は亮次が作る不恰好な料理でも、嫌がらずになんでも食べた。特に亮次が作る塩結びが気に入ったらしく、食べたそうな気配を感じると亮次はそれを作ってやる。
具もなく、海苔も巻かれていないシンプルな握り飯だが、少し柔らかめに炊いた米に、濃いめの塩をまぶしてふんわりと握ってやると、喜んで食べているのが判った。
まるでヒナに餌を与える親鳥のような気分で、そんな自分の姿に亮次は苦笑してしまう。
誰かの世話をすることが、こんなに心浮き立つものだとは知らなかった。
そして自分はこれまでずっと、自分のためだけに生活してきたのだと気付く。自分の都合で食べ、眠り、仕事以外ではほとんど誰とも喋らずに過ごしてきた。
けれど今は違う。坊が傍にいると自然と優しい気持ちが沸き起こってきて、何でもしてやりたいという気持ちになるのだ。
自分がそんな感情を持つなんて思いもしなかった。まるで自分ではないみたいで、なんだか照れ臭くて、そして何故だか少し胸が痛んだ。
その晩は春らしい暖かな夜で、亮次は庭への戸を開け放すと、芳しい夜の空気を胸一杯に吸い込んだ。
サッシ戸の桟にもたれて座り、缶ビールをゆったりと傾ける。
坊は座椅子のように亮次の胸にもたれて座りながら、おとなしくしていた。ちいさな背中の優しい温もりが伝わってきて、亮次は思わず満たされたような溜め息をつく。
庭には白い花が幾つも咲いていた。ハナニラという花で、星の形をした、夜目にも目立つ可憐な花だ。
美里が亮次の実家の庭から分けて貰ったのだと言って持って来た。
享一が好きだった花だと、美里は言った。
「俺の兄貴は、宇宙に憧れてた。…星が好きだったんだ」
まるで発光しているかのように、暗がりに淡く浮かび上がるハナニラを見つめながら、亮次は独り言のように呟いた。
坊は小さく耳を動かし、それから庭の方を向いて亮次の胸に片頬をつける。亮次はその頭をそっと優しく撫でた。
亮次が今のアパートに移ったのは三年前の今頃のことだ。きっかけは美里が仕事のために上京し、ハナニラを手に亮次を訪れたことだった。
夜、独りでその星の形をした花を見ていた時、亮次は享一が星や宇宙がとても好きだったことを思い出した。
子供の頃、享一は大規模な流星群が見られると知ると、喜び勇んで亮次を連れて出掛けた。
街明かりから離れた見晴らしの良い丘で、二人は草むらに並んで寝転がり、流れては消えてゆく星たちを指差しながら歓声をあげた。
『あの星の向こうにはなにがあるんだろう』
いつかあの星のなかへ行ってみたい。
そう言って、魅入られたように流れ星を一心に見つめていた享一の横顔を、亮次ははっきりと憶えていた。
すでに叶わなくなってしまった享一の夢がしばらく頭から離れず、兄を失ったときの衝撃や、激しい喪失感を再び味わっていたとき、亮次はテレビで外国の俳優が宇宙葬を行ったというニュースを見た。
自分が死んだときは、遺骨をカプセルに入れて宇宙へ送って欲しいと家族に伝えていたそうだ。
亮次はそのニュースを食い入るように見つめていた。そしてそのとき、兄を宇宙へ送ることを決意したのだ。
調べてみると打ち上げはアメリカで行われるらしい。次の打ち上げの時期は未定だが、決まったときにすぐに申し込めるように金を貯めることにした。
兄を独りで行かせるのは嫌なので、自分も渡米して立ち会うつもりだった。そのときは享一が好きだったこの花も一緒に連れて行こうと思っている。
今のアパートへ越したのはこの花のためだ。家賃は少しだけ上がったが、ささやかながら庭がついているのが決め手になった。
通りから一番奥まった角部屋で、花を植えていることを見咎められることもない。
亮次がもの思いにふけっていると、坊はいつのまにか亮次の膝から降りて、ハナニラのそばにしゃがみ込んでいた。
亮次も庭におりて坊の脇にしゃがみ込み、坊の手を取って、ハナニラの花びらに触れさせた。
「ひんやりして気持ちいいだろ。毎年こうやって頑張って咲いてくれるんだ。兄貴の花だ」
坊は亮次が手を離しても、花びらをそっと摘まんで熱心に見ていた。
「これからはこいつの世話をするのはおまえだ。この花は替えが利かないんだからな。絶対枯らすなよ?」
本当は放っておいても問題ないくらい強い花だが、そう言えば坊がずっと傍にいてくれるような気がした。
けれど本当は判っている。こんな時間がいつまでも続くわけがないということを。
「――おまえもいつか、月へ帰っちまうのか」
可愛い頭を撫でると、胸の奥を切ないような痛みが過った。
翌日目覚めると、坊はすでに起きていて、布団のうえにぺしゃりと座り込んだ姿勢で、ぼんやりと亮次を見ていた。
「ん…どうした、早いな」
いつもは亮次の腕のなかで目覚める坊だ。亮次は身体を起こし、クセになったように坊の頭に触れると、すぐに違和感を覚えた。
「おい…、おまえ熱があるのか」
亮次の手を頭に乗せたまま、坊は潤んだ目で亮次を見上げる。発熱のせいだろう。顔も微かに赤く火照っていた。
「くそ、なんでもっと早く起こさなかったんだ」
亮次は慌てて体温計を探し、それを坊の脇に挟ませると、パジャマの上から自分の上着を被せて前をしっかりと閉めてやった。
すぐにピピ、と音が鳴って体温計を取り出して見ると、37度8分と出ている。
「マジか……」
亮次はミネラルウォーターを電子レンジで温め、坊に飲ませてから布団に寝かせると、最寄りのコンビニまで走り、レトルトの粥やゼリー飲料、ヨーグルトなどを買って急いで戻った。
坊にゼリーを飲ませながら、仕事を休もうかと考えたが、今日は人が足りないと聞いていた。得意先に車を取りに行って、洗車後にまた届ける予定もある。
少し思案したのち、亮次は美里に電話をかけた。
美里は朝早いにも拘らず、すぐに出てくれた。
「悪い、朝早く。坊が熱出したんだ。今日はちょっと休めなくて、美里、今日仕事か」
『ううん、今日は定休日だから大丈夫だよ。すぐに行く。坊は大丈夫? 熱高いの?』
亮次はホッとしながら坊の状態を伝えた。
「まだ薬局やってないから薬買えなかったんだ。熱が上がるようだったら何か買ってきて飲ませてやってくれないか。金は後で払う」
『わかった。様子見てあんまり高くなるようだったら飲ませてみるよ。でも薬のアレルギーとかあったら大変だから、なるべく汗かかせて、水分取らせてあげる方がいいかも』
「助かる。頼んだ。俺はもう出なきゃいけないから鍵はポストの中に入れておく」
『わかった。……なんか嬉しいな』
「え?」
『初めてでしょ、亮次が私に何か頼みごとするの』
「……そうだったか」
『とにかく心配しないで、あとは任せてよ。でもなるべく早く帰ってきてあげてね。坊が寂しがるから』
亮次は分かった、と短く告げて電話を切ると、急いで身支度を整え、布団に横たわる坊のそばに跪いた。
「美里がすぐに来てくれるから、それまでおとなしく寝てるんだぞ」
頭をそっと撫でると、坊は布団から弱々しく手を出して、亮次のジャケットの袖口を掴んだ。大きな目が熱に濁るのが可哀そうで、亮次は思わず額を坊の額にくっつけて元気づけるように言った。
「大丈夫だ。終わったらすぐ帰ってくるから。ちゃんと寝て、早く熱を下げるんだぞ」
それから坊の手を布団の中に戻し、すがるような目に後ろ髪を引かれながら、亮次は部屋を出た。
休憩時間に美里に電話で坊の様子を聞きながら、慌ただしい時間を過ごし、六時で仕事をあがると、亮次は急いでアパートへと帰った。
鍵を置いて行ったのでチャイムを鳴らすと、美里が出てきてシッと指を口許に当てた。
「今寝てるから」
「熱は?」
「だいぶ下がったよ。いちおう薬持って来たけど、飲まないでも大丈夫みたい」
「そうか。ありがとう」
慌ただしく靴を脱ぐと、亮次はまっすぐに坊の眠る布団へと向かった。今夜は花冷えの寒い夜だったが、部屋のなかは暖かく、朝よりもずっと穏やかな顔で眠っている坊を見て、亮次はようやくホッと息をついた。
「今日は悪かったな。せっかくの休みだったのに」
「ぜんぜん、坊の可愛い寝顔見られて役得だったよ。裸も見れちゃったし」
「は?」
亮次がバッと振り向くと、美里はニコッと笑ってキッチンで鍋に火をかけた。
「坊のために野菜スープ作ったんだけど、亮次も食べる?」
「ああ…、いや、どういうことだよ、裸って」
「着替えさせたから。汗かいてたし、そのままにしてたら余計風邪引くでしょ」
美里が事もなげに言うのを、亮次は苦い顔で見つめた。他意はないのだし、美里が看病のために坊を着替えさせるくらい、何の問題もないはずなのに、何故だかムッとしてしまう。
「まさか、ぜんぶ脱がせたのか」
「やだ、そんなワケないでしょ。パジャマの上着替えるの手伝っただけ。坊だって自分でパンツくらい脱げるでしょ」
「パ…」
あっけらかんと言う美里に、亮次は一瞬沈黙する。
「ちょっと、なに動揺してんのよ。坊の裸なんていつも見てるんじゃないの?」
「いつも見てるって、…変な言い方すんな」
「変なのは亮次じゃない。まったく坊のこととなったら必死なんだから」
意外なことを言われて亮次は思わず美里を見つめた。
「まあ、それは坊も同じだけど」
「…どういうことだ」
「どこかのイケメンさんに夢中ってこと」
「なんだそれ」
「今日一日じゅうね、起きてる時はずっと玄関の方見てたんだよ。亮次が早く帰って来ないかなーって、目がそう言ってるの。ご飯食べてるときも、蒸しタオルで顔拭いてあげてるときも、ずーーーっとね。あたしそれ見てたらなんか胸がキューンってしちゃったよ」
亮次は苦笑して見せたが、その様子を想像すると、坊がどうしようもなく愛しいような気持ちになった。
「だけど、ほんとに綺麗な子だよね。色白いし、目なんか大きくて吸い込まれそう」
美里がスープを皿によそいながらしみじみと言う。
確かに坊はとても整った顔をしていた。身体も、華奢ではあるが腕や脚は長く、全体的にバランスの取れた、とても美しい姿をしている。
手の形も綺麗だった。細い指の先に、桜色の爪が可愛らしく並んでいるのを、亮次はいつも愛でるような気持ちで見ているのだ。
「髪もちょっと伸びたよね。もう少し伸びたら、きっともっと可愛くなるよ。そしたら私がカットしてあげる。みんな振り返ると思うな」
亮次はムッとして、脱いだジャケットを乱暴にハンガーに掛ける。
「ダメだ。坊は坊主のままでいい」
亮次の言葉に美里が吹き出した。それがあまりにも分かり易い独占欲だと、気付いていないのは亮次だけだ。
「亮次がそんなに誰かに執着するなんて、ほんとに珍しいよね」
「執着って、俺は別に……、」
美里はスープ皿をテーブルに置きながら、呆れたように笑った。
「自分で気づいてないの? もう何日も経つのに役所にも相談してないし、熱出したらこうやって私にあの子を見てるように頼むし、あの子のために料理したり、布団買ったり。しかもその買った布団は、ナチュラルに一組だし」
美里のからかう声に、亮次はしばし絶句する。
「でも、私はいいことだと思うな、すごく」
美里は口許に笑みを残したまま、優しい目で亮次を見た。
(執着……? この俺が、あの坊に?)
亮次は言われたことに驚きながらも、美里の言葉を否定できるような事実が何ひとつないことに気付く。
「でもやっぱりこのままじゃ駄目だよね。保険証もない状態じゃ、今後大きな病気になったり怪我したりしたら大変だもん。ちゃんと考えなきゃ。これからも坊と一緒にいたいならね」
それは亮次も考えていたことだ。特に今回のことで切実に思い知った。
坊が亮次と一緒にいることで不幸になったり、万が一、命を落としたりしたら悔やんでも悔やみ切れない。
「亮次?」
「……ああ、考える」
亮次は坊の頭をそっと撫でながら低く答えた。
20
あなたにおすすめの小説
三ヶ月だけの恋人
perari
BL
仁野(にの)は人違いで殴ってしまった。
殴った相手は――学年の先輩で、学内で知らぬ者はいない医学部の天才。
しかも、ずっと密かに想いを寄せていた松田(まつだ)先輩だった。
罪悪感にかられた仁野は、謝罪の気持ちとして松田の提案を受け入れた。
それは「三ヶ月だけ恋人として付き合う」という、まさかの提案だった――。
白花の檻(はっかのおり)
AzureHaru
BL
その世界には、生まれながらに祝福を受けた者がいる。その祝福は人ならざるほどの美貌を与えられる。
その祝福によって、交わるはずのなかった2人の運命が交わり狂っていく。
この出会いは祝福か、或いは呪いか。
受け――リュシアン。
祝福を授かりながらも、決して傲慢ではなく、いつも穏やかに笑っている青年。
柔らかな白銀の髪、淡い光を湛えた瞳。人々が息を呑むほどの美しさを持つ。
攻め――アーヴィス。
リュシアンと同じく祝福を授かる。リュシアン以上に人の域を逸脱した容姿。
黒曜石のような瞳、彫刻のように整った顔立ち。
王国に名を轟かせる貴族であり、数々の功績を誇る英雄。
【完結】恋した君は別の誰かが好きだから
花村 ネズリ
BL
本編は完結しました。後日、おまけ&アフターストーリー随筆予定。
青春BLカップ31位。
BETありがとうございました。
┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈
俺が好きになった人は、別の誰かが好きだからーー。
┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈
二つの視点から見た、片思い恋愛模様。
じれきゅん
ギャップ攻め
《完結》僕が天使になるまで
MITARASI_
BL
命が尽きると知った遥は、恋人・翔太には秘密を抱えたまま「別れ」を選ぶ。
それは翔太の未来を守るため――。
料理のレシピ、小さなメモ、親友に託した願い。
遥が残した“天使の贈り物”の数々は、翔太の心を深く揺さぶり、やがて彼を未来へと導いていく。
涙と希望が交差する、切なくも温かい愛の物語。
勘違いへたれアルファと一途つよかわオメガ──ずっと好きだったのは、自分だけだと思ってた
星群ネオン
BL
幼い頃に結婚の約束をした──成長とともにだんだん疎遠になったアルファとオメガのお話。
美しい池のほとりで出会ったアルファとオメガはその後…。
強くてへたれなアルファと、可愛くて一途なオメガ。
ありがちなオメガバース設定です。Rシーンはありません。
実のところ勘違いなのは二人共とも言えます。
α視点を2話、Ω視点を2話の後、その後を2話の全6話完結。
勘違いへたれアルファ 新井裕吾(あらい・ゆうご) 23歳
一途つよかわオメガ 御門翠(みがと・すい) 23歳
アルファポリス初投稿です。
※本作は作者の別作品「きらきらオメガは子種が欲しい!~」や「一生分の恋のあと~」と同じ世界、共通の人物が登場します。
それぞれ独立した作品なので、他の作品を未読でも問題なくお読みいただけます。
【bl】砕かれた誇り
perari
BL
アルファの幼馴染と淫らに絡んだあと、彼は医者を呼んで、私の印を消させた。
「来月結婚するんだ。君に誤解はさせたくない。」
「あいつは嫉妬深い。泣かせるわけにはいかない。」
「君ももう年頃の残り物のオメガだろ? 俺の印をつけたまま、他のアルファとお見合いするなんてありえない。」
彼は冷たく、けれどどこか薄情な笑みを浮かべながら、一枚の小切手を私に投げ渡す。
「長い間、俺に従ってきたんだから、君を傷つけたりはしない。」
「結婚の日には招待状を送る。必ず来て、席につけよ。」
---
いくつかのコメントを拝見し、大変申し訳なく思っております。
私は現在日本語を勉強しており、この文章はAI作品ではありませんが、
一部に翻訳ソフトを使用しています。
もし読んでくださる中で日本語のおかしな点をご指摘いただけましたら、
本当にありがたく思います。
僕の幸せは
春夏
BL
【完結しました】
【エールいただきました。ありがとうございます】
【たくさんの“いいね”ありがとうございます】
【たくさんの方々に読んでいただけて本当に嬉しいです。ありがとうございます!】
恋人に捨てられた悠の心情。
話は別れから始まります。全編が悠の視点です。
僕の目があなたを遠ざけてしまった
紫野楓
BL
受験に失敗して「一番バカの一高校」に入学した佐藤二葉。
人と目が合わせられず、元来病弱で体調は気持ちに振り回されがち。自分に後ろめたさを感じていて、人付き合いを避けるために前髪で目を覆って過ごしていた。医者になるのが夢で、熱心に勉強しているせいで周囲から「ガリ勉メデューサ」とからかわれ、いじめられている。
しかし、別クラスの同級生の北見耀士に「勉強を教えてほしい」と懇願される。彼は高校球児で、期末考査の成績次第で部活動停止になるという。
二葉は耀士の甲子園に行きたいという熱い夢を知って……?
______
BOOTHにて同人誌を頒布しています。(下記)
https://shinokaede.booth.pm/items/7444815
その後の短編を収録しています。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる