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第四章 笑えよ、坊…じゃないと俺は……
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美里が言ったことについて、亮次はそのあともずっと考えていたが、坊の身元が判ったり、施設で保護されることになったりしたら、もうこれまでのように坊といられなくなるのだと思うと、なかなか行動に移せなかった。
「わー外ヤバイですよー、急にめちゃくちゃ降ってきた。やっぱバスで来れば良かったなー」
客を送り出して戻ってきた女性スタッフの内田が、濡れたユニフォームの袖を拭いながらスタッフルームに入って来た。
「加賀見さんもバイクですよね。帰り無理かもしれないですよ」
「マジかよ」
休憩中だった亮次は、窓の外を見て顔をしかめた。かなりの土砂降りだ。そのとき遠くで雷の音が鳴った。
「ひゃー、雷だ。怖いよマジで。やっぱ迎えに来てもらおー」
内田が大げさに身を竦めながら、携帯をいじり始める。
亮次はアパートにいる坊のことをすぐに考えた。独りで大丈夫だろうか。雷を怖がるんじゃないだろうか。そう考えると落ち着かず、ひたすら勤務時間が早く終わることを祈った。
仕事が終わると亮次は傘を掴み、慌ただしく雨のなかへと飛び出した。バイクは置いていくことにした。帰りに事故でも起こしたら坊のもとに帰れなくなる。
最寄りのバス停からバスに乗り、激しい雨に視界を奪われる窓の外を睨みながらようやく自宅近くに辿り着くと、亮次は大量の水が流れる道路を、バシャバシャと音を立てながら駆け抜けた。
アパートに着くと門の傍に見慣れない車が停まっていて亮次は一瞬見咎める。シルバーのスタイリッシュなその車は、イギリスの高級車だ。めったに見る車じゃない。安アパートの前に停まっているのは相当に違和感があった。
中に人がいるようだったが、激しい雨のせいで判然としなかった。気にはなったが今は坊のことだ。
慌ただしく玄関の鍵を開けたが、坊はいつものように亮次を待ってはいなかった。
「坊? 帰ったぞ」
亮次は不安を覚えながら濡れた靴と靴下を玄関で脱ぎ捨て、部屋の中に入る。だが室内は暗く、坊の姿も見えなかった。
「坊? どこだ?」
焦って灯りをつけると、カーテンが雨風にはためいていて、庭への戸が開いていることに気付く。
「また外に出たのか」
慌ててカーテンを開けると、雨が激しく打ち付ける庭に、坊がいた。黄色い傘を開き、ハナニラを守るようにそれを差し掛けながら、自分はびしょ濡れでその脇にしゃがみ込んでいる。
「おい、なにやってる!」
亮次は思わず叫んで坊を抱き抱え、部屋の中へと引き入れた。冷たい身体に戦慄しながら急いで服を脱がせ、バスタオルで全身を拭うと、干してあった自分のシャツでくるみ込んだ。
坊は亮次をぼんやりと見上げながら、弱々しく抱きついてくる。
「おまえ、なんで…!」
寒さに震えている坊を抱き締めながら、亮次は強い胸の痛みにうめき声を出した。
ハナニラを枯らすなと言った亮次の言葉を憶えていて、坊は傘で亮次の大切な花を守ろうとしたのだ。
坊の一途さを知っていたのに、不用意な言葉で坊を危険に晒してしまった。もう少し遅かったら坊は凍えて死んでいたかもしれない。享一の時とまた同じことを繰り返すところだった。
「くそッ…!」
情けなくて涙が出て来る。
「おまえだって、代わりがきかないんだぞ!!」
叱るように言いながら、それと同時に、花だけを懸命に守り、自分に傘をさしかけることすら思いつけない坊を、たまらなく愛おしいと思ってしまう。
それこそ、命を懸けて守りたいと思うほどに。
坊は必死に涙を堪える亮次を、不安そうに見ていた。自分はなにか失敗したのだろうか、
そんな風に考えて怯えているようにも見える。
そんな坊もたまらなく愛おしかったが、亮次が見たいのはそんな顔ではないのだ。
「笑えよ、坊。……笑ってくれ、じゃないと俺は……」
また切なさが強くこみ上げて来て、亮次は坊の柔らかい頬を両手で挟み込むと、そっと引き上げて笑い方を教えようとする。
けれどされるがままの坊は、口許だけ笑ったようなおかしな顔で、いつまでも亮次をじっと見つめているだけだった。
翌日はすっかり雨も止んでいた。坊も熱を出したりはせず、亮次はホッとして、仕事に行く準備をした。
坊に今日一日は部屋で暖かくしているようにと言い置いて、亮次は部屋を出た。
玄関を出た所で、ふとあの不審な車のことを思い出す。最近はほとんどつけられている気配も感じなくなってはいたが、坊が大切になればなるほど、亮次の不安は大きくなっていく。
いつか誰かが坊をさらいに来るんじゃないかと思うと、亮次は胸の奥が変な風に捩れるような気がした。
それは、その晩、いつものように二人で風呂に入っているときのことだった。
坊の肩や背中を洗ってやり、シャワーで泡を流そうとしたとき、坊が床のぬめりに足を取られて転びそうになった。慌てて亮次がその身体を受けとめたとき、思いがけず二人の顔が近づき、一瞬ドキリとする。
亮次に腰を支えられながら熱心に亮次を見つめる坊の可愛い顔を見ていたら、衝動的にそのおでこにキスをしていた。
坊がビクンと震え、身体を強張らせたのがはっきりと判った。それからひどく落ち着かない様子で身体をよじり、亮次の腕から逃れようとする。
「…あ、……いや、ごめん…坊」
亮次も自分の行為にひどく驚いていたので、坊の身体に起こった変化に気付くのが遅れた。
まだ泡が残ったまま風呂場を出ようとする坊を慌てて捕まえて、シャワーの下に戻したとき、そのちいさな顔が微かに赤くなっていることに気付いた。
「え、」
目を坊の身体に移すと、ささやかな彼のそこが、かすかに反応しているのが判り、その意味に気付いたとき、亮次のなかで唐突に激しい熱が沸き起こった。
(坊が…、欲情してる……?)
そしてそれを恥ずかしがっている。
そう気付いたとき、亮次は俄かに鼓動が激しくなるのを感じた。それは坊が初めて見せた、はっきりとした彼の感情だった。
これまでずっと、坊の何もかもが未成熟な様子を見ていただけに、その反応はあまりにも新鮮で、同時に坊が亮次と同じように、健康な身体を持った男子であることに遅まきながら気が付いたのだ。
坊もおそらくはそんな自分自身の反応に、うろたえ、混乱しているのだろう。ただ本能的に、それが恥ずかしいことなのだとは判っていて、亮次と目を合わせられずに、顔を赤くしているのだ。
亮次は急に風呂場に二人きりで、裸でいることの無防備さを意識した。
坊の可愛らしい恥じらいが、亮次の胸に熱い火を点した瞬間だった。
その週末、亮次が仕事を終えて帰宅すると、美里がキッチンで料理をしているところだった。坊が熱を出した日以来、美里には合鍵を渡している。
「おかえりー、坊がお待ちかねだよー」
美里が教えるまでもなく、坊はすでに玄関まで来て、亮次を出迎えてくれている。
だがその様子は少しぎこちなかった。先日の風呂場でのことが原因に違いなかった。
坊だけでなく、亮次もあの夜以来、坊の顔を見るだけで何か胸の中心が疼くような、身体が熱を持つような、おかしな具合になってしまう。
だが美里にそんなことを悟られるわけにはいかず、亮次はいつもほど坊に触れることも、目を合わせることもしなかった。
だから亮次は気が付かなかったのだ。坊が不安そうな目をしていたことに。
その日、四月十二日は享一の誕生日だった。
美里はお祝いのために、ささやかなまるいケーキを買ってきていた。ロウソクも享一の名前もなかったが、HAPPY BIRTHDAYという賑やかな文字が入っている。
美里は多くを語らなかったが、享一を今でも愛していることは判った。
亮次は少し前から、今日この日に、美里に本当のことを告げようと思っていた。
美里は知らなくてもいいのかもしれない。こんな告白は、亮次の自己満足なのかもしれない。
そう考えもしたが、やはり美里には伝えたいと思った。どんなに詰られても、罵られても仕方がない。もうこれきり縁を切られることも覚悟していた。
けれど坊と出逢い、誰かを愛おしく思う気持ちや、大切に想う気持ちを知った今、兄をいつも支え、深く愛してくれた美里に対しても、正直でありたいと思ったのだ。
「美里、話したいことがある」
食事が終わって、テーブルの上がおおかた片付いた頃、亮次は自分の激しい鼓動を聞きながら、美里にそう告げた。
「なあに」
美里は流しの水を止めて振り返ると、亮次の表情を見て、すっと笑みを消した。
「坊、ちょっとごめんな。先、風呂入っててくれ。ひとりで入れるな?」
亮次が言うと、坊は無表情に亮次を見つめ、それからつと目を逸らして風呂場へと歩いて行った。
「どうしたの?」
美里は坊の後ろ姿を見送ってから、テーブルの前に正座し、不安そうに亮次に訊いた。
亮次も美里と向かい合うように座り、少し沈黙してから、享一が死んだ日のことを話した。ずっと優秀な兄を妬んでいたこと、家に居場所がないと感じていたこと、自分が兄を独りにしたために、兄が死んだこと、全てを包み隠さずに伝えた。
美里は途中からぽろぽろと涙を零した。それを見て、やはり言うべきではなかったのかもしれない、と亮次は怖くなったが、美里はやがて涙を拭いて、顔をあげた。
「ほんとに、……すまない」
うめくように告げる亮次を、美里は責めなかった。
「ありがとう、…話してくれて。苦しかったでしょ」
亮次が弾かれたように顔をあげると、美里は静かに笑っていた。
「亮次が享一のことでなにか抱えてるっていうのは判ってたよ。それですごく苦しんでるってこともね。……だけど、それを訊くのは私も怖かった。なんだか三人の大切な想い出まで、壊れてしまう気がして」
「……」
「でも、今日聞けてよかった。だって判るから。享一は亮次を責めたりしてない。それだけははっきりと判るよ」
美里の言葉に、亮次は全身に重く絡みついていた鎖が、緩やかにほどけていくような感覚を覚えた。
そう、亮次も知っていた。兄はきっと自分を責めてはいない。兄は誰も責めたりはしなかった。
いつまでも打ち解けず、反抗ばかりしていた亮次のことも、自分に過剰な期待を寄せる両親のことも。
それは兄が家族を愛していたからだ。それぞれが自分勝手な方向を向いていた家族の中で、兄だけが家族のことを考えていた。あの家の中で、圧倒的に孤独だったのは兄だったのだと、今頃になって気付く。
「――俺がこんなこと言うのは、ほんとに身勝手だと思うけど、兄貴に美里がいてくれて、本当に良かったと俺は思ってる。……兄貴はきっと、美里といるときだけは、ちゃんと息が出来たんじゃないかって、そんな気がするんだ」
美里はふいに俯き、テーブルに手をついて、両手で顔を覆いながら静かに泣いた。
「美里、」
「うん…、うん……」
頷きながら、美里は、享一に逢いたい…、とひと言呟いた。それは兄が死んでから初めて聞く、美里の本音だった。
亮次が思わず美里のそばに寄りその肩を抱くと、美里は亮次の胸にすがりつくようにしてまた泣いた。
強い胸の痛みと、あの頃の激しい喪失感や罪悪感が再び蘇るのを、亮次は甘んじて受け留めた。
しばらくすると美里の泣き声は静かになり、やがてそっと亮次から身を離すと、美里は涙でくしゃくしゃになった顔を袖で隠しながら、ふふ、と小さく笑った。
「ごめん、……でもなんかスッキリした」
「ああ」
亮次もちいさく笑う。
そのとき、ふと視線を感じて振り返ると、坊が濡れた身体に中途半端にバスタオルを巻いたまま、こちらを見てぼんやりと佇んでいた。
「坊? もう出たのか。早く拭かないと風邪引く‥」
亮次が言い終わらないうちに、坊はふいと顔を背けて玄関に向かって走り出した。
「おい、どこ行くんだ、坊!」
驚いて亮次が捕まえ、バスタオルでくるんだまま坊を羽交い絞めのように抱き締めると、坊は激しく暴れ出した。
坊がこんな態度を取るのは初めてで、亮次はただただ戸惑う。
「坊! どうした、なにか怒ってるのか」
そのまま抱き上げて部屋の奥へ連れていくも、坊は決して亮次を見ようとはせず、宙に浮いた足をばたつかせながら、いやいやを繰り返す。
「あーそっかぁ、坊はやきもち焼いたんだ。ごめんね」
美里が唐突に言うのを聞いて、亮次は驚き、暴れる坊を抱き締めながら、美里を振り返った。
「は?」
「分かんない? 坊はさっきの私たちを見て、ショックを受けたんだよ。大好きな亮次を私に取られたと思ったんだ」
言われてみれば、坊がおかしくなったのは、亮次が美里を抱き締めていたときだ。それに、風呂に入る前も、なんだか様子がおかしかったと思い出す。
(やきもち? 坊が……?)
そう思ったとたん、胸がきゅうとなった。これが美里の言っていた感覚かと思う。
坊はまだ少しもがいていたが、亮次が優しく頭を撫で、背中を撫でてやると、少しずつおとなしくなった。
それから、ごめんな、坊、と謝ると、すねたまま甘えるみたいに、亮次の胸に額をこすりつける。
(おいおい……、可愛すぎるだろ――)
「はいはい、ご馳走さま」
美里にからかうように言われて、亮次は冗談じゃなく、顔が火照るのを感じた。
さっきまでしんみりとしていたのに、こんなに心を浮き立たせている自分がひどく軽薄な気がして、亮次はまともに美里を見ることが出来ず、けれど腕のなかの存在はたまらなく愛おしく、亮次の心は千々に乱れた。
だがそんな坊との日々は、唐突に終わりを告げた。
その車がスタンドのフィールドに滑り込んで来た時、亮次はハッと身体を強張らせた。
あの嵐の夜に、亮次のアパートの前に停まっていた車だと、すぐに判った。
「いらっしゃいませ」
亮次が運転席側で迎えると、ウインドウが下がり、長い人差し指と中指に挟まれたクレジットカードが、ひらりと窓の外に差し出された。
「ハイオク」
「ありがとうございます」
亮次がカードを受け取ろうとすると、運転席にいた男は、すっとそれをかわして亮次を見た。亮次も警戒しながら男を見返す。
若い男だった。おそらく亮次と同年代だろう。艶のある黒髪を後ろに撫でつけ、鋭く冷たい眼差しをした、怖ろしく顔立ちの整った男だった。
「加賀見、亮次さん?」
「誰です、あんた」
亮次がはっきりと警戒を見せながら短く応えると、男は小さく笑った。
「こいつのことで話がある、と言えば判るか?」
見せられたのは、坊の写真だった。いつの間に撮られたのか、亮次が買い与えた服を着て、亮次の手を握りながら歩いている姿を捕えたものだ。
「仕事が終わったら、ちょっとつきあってもらえますかね」
慇懃無礼な男の言葉に、亮次は頷くしかなかった。
「わー外ヤバイですよー、急にめちゃくちゃ降ってきた。やっぱバスで来れば良かったなー」
客を送り出して戻ってきた女性スタッフの内田が、濡れたユニフォームの袖を拭いながらスタッフルームに入って来た。
「加賀見さんもバイクですよね。帰り無理かもしれないですよ」
「マジかよ」
休憩中だった亮次は、窓の外を見て顔をしかめた。かなりの土砂降りだ。そのとき遠くで雷の音が鳴った。
「ひゃー、雷だ。怖いよマジで。やっぱ迎えに来てもらおー」
内田が大げさに身を竦めながら、携帯をいじり始める。
亮次はアパートにいる坊のことをすぐに考えた。独りで大丈夫だろうか。雷を怖がるんじゃないだろうか。そう考えると落ち着かず、ひたすら勤務時間が早く終わることを祈った。
仕事が終わると亮次は傘を掴み、慌ただしく雨のなかへと飛び出した。バイクは置いていくことにした。帰りに事故でも起こしたら坊のもとに帰れなくなる。
最寄りのバス停からバスに乗り、激しい雨に視界を奪われる窓の外を睨みながらようやく自宅近くに辿り着くと、亮次は大量の水が流れる道路を、バシャバシャと音を立てながら駆け抜けた。
アパートに着くと門の傍に見慣れない車が停まっていて亮次は一瞬見咎める。シルバーのスタイリッシュなその車は、イギリスの高級車だ。めったに見る車じゃない。安アパートの前に停まっているのは相当に違和感があった。
中に人がいるようだったが、激しい雨のせいで判然としなかった。気にはなったが今は坊のことだ。
慌ただしく玄関の鍵を開けたが、坊はいつものように亮次を待ってはいなかった。
「坊? 帰ったぞ」
亮次は不安を覚えながら濡れた靴と靴下を玄関で脱ぎ捨て、部屋の中に入る。だが室内は暗く、坊の姿も見えなかった。
「坊? どこだ?」
焦って灯りをつけると、カーテンが雨風にはためいていて、庭への戸が開いていることに気付く。
「また外に出たのか」
慌ててカーテンを開けると、雨が激しく打ち付ける庭に、坊がいた。黄色い傘を開き、ハナニラを守るようにそれを差し掛けながら、自分はびしょ濡れでその脇にしゃがみ込んでいる。
「おい、なにやってる!」
亮次は思わず叫んで坊を抱き抱え、部屋の中へと引き入れた。冷たい身体に戦慄しながら急いで服を脱がせ、バスタオルで全身を拭うと、干してあった自分のシャツでくるみ込んだ。
坊は亮次をぼんやりと見上げながら、弱々しく抱きついてくる。
「おまえ、なんで…!」
寒さに震えている坊を抱き締めながら、亮次は強い胸の痛みにうめき声を出した。
ハナニラを枯らすなと言った亮次の言葉を憶えていて、坊は傘で亮次の大切な花を守ろうとしたのだ。
坊の一途さを知っていたのに、不用意な言葉で坊を危険に晒してしまった。もう少し遅かったら坊は凍えて死んでいたかもしれない。享一の時とまた同じことを繰り返すところだった。
「くそッ…!」
情けなくて涙が出て来る。
「おまえだって、代わりがきかないんだぞ!!」
叱るように言いながら、それと同時に、花だけを懸命に守り、自分に傘をさしかけることすら思いつけない坊を、たまらなく愛おしいと思ってしまう。
それこそ、命を懸けて守りたいと思うほどに。
坊は必死に涙を堪える亮次を、不安そうに見ていた。自分はなにか失敗したのだろうか、
そんな風に考えて怯えているようにも見える。
そんな坊もたまらなく愛おしかったが、亮次が見たいのはそんな顔ではないのだ。
「笑えよ、坊。……笑ってくれ、じゃないと俺は……」
また切なさが強くこみ上げて来て、亮次は坊の柔らかい頬を両手で挟み込むと、そっと引き上げて笑い方を教えようとする。
けれどされるがままの坊は、口許だけ笑ったようなおかしな顔で、いつまでも亮次をじっと見つめているだけだった。
翌日はすっかり雨も止んでいた。坊も熱を出したりはせず、亮次はホッとして、仕事に行く準備をした。
坊に今日一日は部屋で暖かくしているようにと言い置いて、亮次は部屋を出た。
玄関を出た所で、ふとあの不審な車のことを思い出す。最近はほとんどつけられている気配も感じなくなってはいたが、坊が大切になればなるほど、亮次の不安は大きくなっていく。
いつか誰かが坊をさらいに来るんじゃないかと思うと、亮次は胸の奥が変な風に捩れるような気がした。
それは、その晩、いつものように二人で風呂に入っているときのことだった。
坊の肩や背中を洗ってやり、シャワーで泡を流そうとしたとき、坊が床のぬめりに足を取られて転びそうになった。慌てて亮次がその身体を受けとめたとき、思いがけず二人の顔が近づき、一瞬ドキリとする。
亮次に腰を支えられながら熱心に亮次を見つめる坊の可愛い顔を見ていたら、衝動的にそのおでこにキスをしていた。
坊がビクンと震え、身体を強張らせたのがはっきりと判った。それからひどく落ち着かない様子で身体をよじり、亮次の腕から逃れようとする。
「…あ、……いや、ごめん…坊」
亮次も自分の行為にひどく驚いていたので、坊の身体に起こった変化に気付くのが遅れた。
まだ泡が残ったまま風呂場を出ようとする坊を慌てて捕まえて、シャワーの下に戻したとき、そのちいさな顔が微かに赤くなっていることに気付いた。
「え、」
目を坊の身体に移すと、ささやかな彼のそこが、かすかに反応しているのが判り、その意味に気付いたとき、亮次のなかで唐突に激しい熱が沸き起こった。
(坊が…、欲情してる……?)
そしてそれを恥ずかしがっている。
そう気付いたとき、亮次は俄かに鼓動が激しくなるのを感じた。それは坊が初めて見せた、はっきりとした彼の感情だった。
これまでずっと、坊の何もかもが未成熟な様子を見ていただけに、その反応はあまりにも新鮮で、同時に坊が亮次と同じように、健康な身体を持った男子であることに遅まきながら気が付いたのだ。
坊もおそらくはそんな自分自身の反応に、うろたえ、混乱しているのだろう。ただ本能的に、それが恥ずかしいことなのだとは判っていて、亮次と目を合わせられずに、顔を赤くしているのだ。
亮次は急に風呂場に二人きりで、裸でいることの無防備さを意識した。
坊の可愛らしい恥じらいが、亮次の胸に熱い火を点した瞬間だった。
その週末、亮次が仕事を終えて帰宅すると、美里がキッチンで料理をしているところだった。坊が熱を出した日以来、美里には合鍵を渡している。
「おかえりー、坊がお待ちかねだよー」
美里が教えるまでもなく、坊はすでに玄関まで来て、亮次を出迎えてくれている。
だがその様子は少しぎこちなかった。先日の風呂場でのことが原因に違いなかった。
坊だけでなく、亮次もあの夜以来、坊の顔を見るだけで何か胸の中心が疼くような、身体が熱を持つような、おかしな具合になってしまう。
だが美里にそんなことを悟られるわけにはいかず、亮次はいつもほど坊に触れることも、目を合わせることもしなかった。
だから亮次は気が付かなかったのだ。坊が不安そうな目をしていたことに。
その日、四月十二日は享一の誕生日だった。
美里はお祝いのために、ささやかなまるいケーキを買ってきていた。ロウソクも享一の名前もなかったが、HAPPY BIRTHDAYという賑やかな文字が入っている。
美里は多くを語らなかったが、享一を今でも愛していることは判った。
亮次は少し前から、今日この日に、美里に本当のことを告げようと思っていた。
美里は知らなくてもいいのかもしれない。こんな告白は、亮次の自己満足なのかもしれない。
そう考えもしたが、やはり美里には伝えたいと思った。どんなに詰られても、罵られても仕方がない。もうこれきり縁を切られることも覚悟していた。
けれど坊と出逢い、誰かを愛おしく思う気持ちや、大切に想う気持ちを知った今、兄をいつも支え、深く愛してくれた美里に対しても、正直でありたいと思ったのだ。
「美里、話したいことがある」
食事が終わって、テーブルの上がおおかた片付いた頃、亮次は自分の激しい鼓動を聞きながら、美里にそう告げた。
「なあに」
美里は流しの水を止めて振り返ると、亮次の表情を見て、すっと笑みを消した。
「坊、ちょっとごめんな。先、風呂入っててくれ。ひとりで入れるな?」
亮次が言うと、坊は無表情に亮次を見つめ、それからつと目を逸らして風呂場へと歩いて行った。
「どうしたの?」
美里は坊の後ろ姿を見送ってから、テーブルの前に正座し、不安そうに亮次に訊いた。
亮次も美里と向かい合うように座り、少し沈黙してから、享一が死んだ日のことを話した。ずっと優秀な兄を妬んでいたこと、家に居場所がないと感じていたこと、自分が兄を独りにしたために、兄が死んだこと、全てを包み隠さずに伝えた。
美里は途中からぽろぽろと涙を零した。それを見て、やはり言うべきではなかったのかもしれない、と亮次は怖くなったが、美里はやがて涙を拭いて、顔をあげた。
「ほんとに、……すまない」
うめくように告げる亮次を、美里は責めなかった。
「ありがとう、…話してくれて。苦しかったでしょ」
亮次が弾かれたように顔をあげると、美里は静かに笑っていた。
「亮次が享一のことでなにか抱えてるっていうのは判ってたよ。それですごく苦しんでるってこともね。……だけど、それを訊くのは私も怖かった。なんだか三人の大切な想い出まで、壊れてしまう気がして」
「……」
「でも、今日聞けてよかった。だって判るから。享一は亮次を責めたりしてない。それだけははっきりと判るよ」
美里の言葉に、亮次は全身に重く絡みついていた鎖が、緩やかにほどけていくような感覚を覚えた。
そう、亮次も知っていた。兄はきっと自分を責めてはいない。兄は誰も責めたりはしなかった。
いつまでも打ち解けず、反抗ばかりしていた亮次のことも、自分に過剰な期待を寄せる両親のことも。
それは兄が家族を愛していたからだ。それぞれが自分勝手な方向を向いていた家族の中で、兄だけが家族のことを考えていた。あの家の中で、圧倒的に孤独だったのは兄だったのだと、今頃になって気付く。
「――俺がこんなこと言うのは、ほんとに身勝手だと思うけど、兄貴に美里がいてくれて、本当に良かったと俺は思ってる。……兄貴はきっと、美里といるときだけは、ちゃんと息が出来たんじゃないかって、そんな気がするんだ」
美里はふいに俯き、テーブルに手をついて、両手で顔を覆いながら静かに泣いた。
「美里、」
「うん…、うん……」
頷きながら、美里は、享一に逢いたい…、とひと言呟いた。それは兄が死んでから初めて聞く、美里の本音だった。
亮次が思わず美里のそばに寄りその肩を抱くと、美里は亮次の胸にすがりつくようにしてまた泣いた。
強い胸の痛みと、あの頃の激しい喪失感や罪悪感が再び蘇るのを、亮次は甘んじて受け留めた。
しばらくすると美里の泣き声は静かになり、やがてそっと亮次から身を離すと、美里は涙でくしゃくしゃになった顔を袖で隠しながら、ふふ、と小さく笑った。
「ごめん、……でもなんかスッキリした」
「ああ」
亮次もちいさく笑う。
そのとき、ふと視線を感じて振り返ると、坊が濡れた身体に中途半端にバスタオルを巻いたまま、こちらを見てぼんやりと佇んでいた。
「坊? もう出たのか。早く拭かないと風邪引く‥」
亮次が言い終わらないうちに、坊はふいと顔を背けて玄関に向かって走り出した。
「おい、どこ行くんだ、坊!」
驚いて亮次が捕まえ、バスタオルでくるんだまま坊を羽交い絞めのように抱き締めると、坊は激しく暴れ出した。
坊がこんな態度を取るのは初めてで、亮次はただただ戸惑う。
「坊! どうした、なにか怒ってるのか」
そのまま抱き上げて部屋の奥へ連れていくも、坊は決して亮次を見ようとはせず、宙に浮いた足をばたつかせながら、いやいやを繰り返す。
「あーそっかぁ、坊はやきもち焼いたんだ。ごめんね」
美里が唐突に言うのを聞いて、亮次は驚き、暴れる坊を抱き締めながら、美里を振り返った。
「は?」
「分かんない? 坊はさっきの私たちを見て、ショックを受けたんだよ。大好きな亮次を私に取られたと思ったんだ」
言われてみれば、坊がおかしくなったのは、亮次が美里を抱き締めていたときだ。それに、風呂に入る前も、なんだか様子がおかしかったと思い出す。
(やきもち? 坊が……?)
そう思ったとたん、胸がきゅうとなった。これが美里の言っていた感覚かと思う。
坊はまだ少しもがいていたが、亮次が優しく頭を撫で、背中を撫でてやると、少しずつおとなしくなった。
それから、ごめんな、坊、と謝ると、すねたまま甘えるみたいに、亮次の胸に額をこすりつける。
(おいおい……、可愛すぎるだろ――)
「はいはい、ご馳走さま」
美里にからかうように言われて、亮次は冗談じゃなく、顔が火照るのを感じた。
さっきまでしんみりとしていたのに、こんなに心を浮き立たせている自分がひどく軽薄な気がして、亮次はまともに美里を見ることが出来ず、けれど腕のなかの存在はたまらなく愛おしく、亮次の心は千々に乱れた。
だがそんな坊との日々は、唐突に終わりを告げた。
その車がスタンドのフィールドに滑り込んで来た時、亮次はハッと身体を強張らせた。
あの嵐の夜に、亮次のアパートの前に停まっていた車だと、すぐに判った。
「いらっしゃいませ」
亮次が運転席側で迎えると、ウインドウが下がり、長い人差し指と中指に挟まれたクレジットカードが、ひらりと窓の外に差し出された。
「ハイオク」
「ありがとうございます」
亮次がカードを受け取ろうとすると、運転席にいた男は、すっとそれをかわして亮次を見た。亮次も警戒しながら男を見返す。
若い男だった。おそらく亮次と同年代だろう。艶のある黒髪を後ろに撫でつけ、鋭く冷たい眼差しをした、怖ろしく顔立ちの整った男だった。
「加賀見、亮次さん?」
「誰です、あんた」
亮次がはっきりと警戒を見せながら短く応えると、男は小さく笑った。
「こいつのことで話がある、と言えば判るか?」
見せられたのは、坊の写真だった。いつの間に撮られたのか、亮次が買い与えた服を着て、亮次の手を握りながら歩いている姿を捕えたものだ。
「仕事が終わったら、ちょっとつきあってもらえますかね」
慇懃無礼な男の言葉に、亮次は頷くしかなかった。
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ありがちなオメガバース設定です。Rシーンはありません。
実のところ勘違いなのは二人共とも言えます。
α視点を2話、Ω視点を2話の後、その後を2話の全6話完結。
勘違いへたれアルファ 新井裕吾(あらい・ゆうご) 23歳
一途つよかわオメガ 御門翠(みがと・すい) 23歳
アルファポリス初投稿です。
※本作は作者の別作品「きらきらオメガは子種が欲しい!~」や「一生分の恋のあと~」と同じ世界、共通の人物が登場します。
それぞれ独立した作品なので、他の作品を未読でも問題なくお読みいただけます。
【bl】砕かれた誇り
perari
BL
アルファの幼馴染と淫らに絡んだあと、彼は医者を呼んで、私の印を消させた。
「来月結婚するんだ。君に誤解はさせたくない。」
「あいつは嫉妬深い。泣かせるわけにはいかない。」
「君ももう年頃の残り物のオメガだろ? 俺の印をつけたまま、他のアルファとお見合いするなんてありえない。」
彼は冷たく、けれどどこか薄情な笑みを浮かべながら、一枚の小切手を私に投げ渡す。
「長い間、俺に従ってきたんだから、君を傷つけたりはしない。」
「結婚の日には招待状を送る。必ず来て、席につけよ。」
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いくつかのコメントを拝見し、大変申し訳なく思っております。
私は現在日本語を勉強しており、この文章はAI作品ではありませんが、
一部に翻訳ソフトを使用しています。
もし読んでくださる中で日本語のおかしな点をご指摘いただけましたら、
本当にありがたく思います。
僕の幸せは
春夏
BL
【完結しました】
【エールいただきました。ありがとうございます】
【たくさんの“いいね”ありがとうございます】
【たくさんの方々に読んでいただけて本当に嬉しいです。ありがとうございます!】
恋人に捨てられた悠の心情。
話は別れから始まります。全編が悠の視点です。
僕の目があなたを遠ざけてしまった
紫野楓
BL
受験に失敗して「一番バカの一高校」に入学した佐藤二葉。
人と目が合わせられず、元来病弱で体調は気持ちに振り回されがち。自分に後ろめたさを感じていて、人付き合いを避けるために前髪で目を覆って過ごしていた。医者になるのが夢で、熱心に勉強しているせいで周囲から「ガリ勉メデューサ」とからかわれ、いじめられている。
しかし、別クラスの同級生の北見耀士に「勉強を教えてほしい」と懇願される。彼は高校球児で、期末考査の成績次第で部活動停止になるという。
二葉は耀士の甲子園に行きたいという熱い夢を知って……?
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BOOTHにて同人誌を頒布しています。(下記)
https://shinokaede.booth.pm/items/7444815
その後の短編を収録しています。
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