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第六章 優しい訪問者
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桜はとうに散り、日々は新緑の眩さに彩られて輝いている。けれど亮次の目がそれらに奪われることはなかった。
坊と離れてから半月が過ぎた。月が出る頃になると、亮次の足は自然とあの公園へと向かった。池のほとりで煙草をふかし、夜風に揺れる竹藪をぼんやりと見つめる。
あの夜、アパートに戻り、キッチンで水を出そうとしたとき、坊の歯ブラシが残っているのを見つけて亮次は堪えきれずに泣いた。まるで半身を引き千切られたみたいだった。
翌日、訪ねて来た美里に簡単に事情を話し、それから坊の歯ブラシを捨ててくれるように頼んだ。
けれど壁に貼られた、坊が描いた亮次の絵だけは、どうしても捨てることが出来なかった。そっと剥がして、目に触れない場所へとしまう亮次を、美里が痛ましそうに見ていた。
元に戻っただけだと、何度も自分に言い聞かせる。また兄を星の世界へ送るために金を貯め続ければいいのだ。
けれどプツリと糸が切れたように、すべての気力が失われてしまった。
コトリ、と温められた惣菜が、テーブルの上に置かれる。亮次が虚ろな目で見上げると、美里は眉を顰めた。
「ちょっとは食べないと」
「…すまない」
亮次が煮物に箸をつけるのを見守りながら、美里は向かいに座って頬杖をついた。
「もね、か…。可愛い名前だね」
「――」
「睡蓮だね」
「…睡蓮?」
ふと亮次は顔をあげて美里を見た。
「モネと言えば、睡蓮でしょ。有名な絵」
そう教えられて亮次の頭にふと浮かんだのは、坊が描いた絵だ。その中には何枚も睡蓮を描いたものがあったと思い出す。
「どうかしたの?」
「…いや」
「きっとね、…また逢えるよ、必ず」
美里の慰めに、亮次は俯いて小さく笑った。
その男が亮次のアパートを訪れたのは、それから数日後の夜のことだった。
肩書のない名刺を出し、もねさんのことでお話が、というので、亮次は彼を部屋に招き入れた。
嶋田良夫と名乗ったその男は、五十がらみの温和な顔立ちをした男だった。
出された茶を前に、嶋田はかすかに目を細めて部屋のなかを見回した。
「ここに、もねさんがいたんですね」
「……あの、あなたは坊、…もねとはどういったご関係ですか。もねがどうかしたんですか」
心配を色濃く滲ませて亮次が尋ねると、嶋田は改めて亮次をまっすぐに見た。
「もねさんは無事です。でも元気がありません」
亮次が顔を曇らせると、嶋田は優しい眼差しで亮次を見つめた。
「私は真治さんから依頼を受けて、もねさんをお預かりしている者です。今日は、少しお話があって、突然すみませんでした」
「よく、ここが判りましたね」
「それは、もねさんの絵が教えてくれたんです」
「絵?」
嶋田は脇に置いていた鞄から書類ホルダーを取り出して、その中に大切そうにしまわれていた紙の束を亮次に差し出した。
「これは……」
坊の絵だとすぐに判った。鉛筆で描かれた、風景写真のように精緻な絵だ。それらはどれも何の変哲もない風景だったが、見覚えがあり過ぎる場所ばかりだった。
川べりの道、神社への道、商店街、曲がり角、公園の池、そして、このアパート。
すべて坊が亮次と散歩したり、一緒に過ごしたりした場所だと判る。
「商店街の名前が描かれていましたし、ここにはほら、」
そう言って嶋田が示したのは、はっきりと町名と地番が書かれた表示板だった。
「マジか……」
坊の記憶力の確かさに驚嘆する。
「もねさんは、とても頭がいいと思います。喋ることは出来ませんが、ちゃんと人のことも、周りのことも見ています」
「はい、それは俺も感じてました」
「私はかつてもねさんの父親、鷹蔵清彦さんの秘書をしていました」
「え、そうなんですか」
「はい。ですが社長は事故でお亡くなりになり、私も元々家の事情で早期の退職を考えていましたので、そのあとすぐに辞職を願い出ました。妻の真妃さんは事故の背景を知る私が会社を去ることをひどく警戒しましたが、絶対にそれらを外に洩らさないという誓約書を書くことで、ようやく辞職を許されたのです。けれど鷹蔵の家は、常に私を監視していたのでしょう。私は独り者ですが、長患いの母がおりまして、その母が大病を併発したときに、すぐに真治さんから見舞金として多額のお金が振り込まれました。すぐに私は悟りました。これは口止め料なのだと」
亮次は真治のビジネスライクで冷たそうな印象そのままの行為だと感じた。
「私はそれでもいいと、そのお金を母のために受け取りました。おかげで母はなんとか快復しましたが、鷹蔵の家は再び、私にコンタクトを取って来ました。清彦さんの隠し子を預かって欲しいと。今から二年ほど前のことです」
嶋田は出された冷たい茶で喉を潤してから、再び話を続けた。
「私はひどく憂鬱でしたが、もねさんを初めて見たとき、面倒というよりも、怖い、という気持ちの方が先立ちました」
「怖い?」
亮次が声を低く尋ねると、嶋田ははい、と神妙に頷いた。
「もねさんは、なんというか……、語弊を怖れずに言うなら、とても異様な感じがしたのです。顔立ちはとても整っているのですが、それはまるで人形のようで、人の気配のようなものが感じられなかったのです」
ああ、と亮次は小さくうなった。それは亮次が初めて坊を見た時に感じたことと同じだったからだ。
「真治さんからの指示はとてもシンプルでした。もねさんの健康状態には気を付けること。規則正しい生活をさせること。外に出さないこと。世間の情報に触れさせないこと。必要以上にもねさんに触れないこと。そして、決して話し掛けないこと。私はとんでもないことを引き受けてしまったと思いました。別々の部屋に暮らすといっても、同じ屋根の下に住む人間を、無視し続けるなんて並大抵のことじゃありません」
そこで初めて嶋田の顔が苦しげに歪んだ。
「けれどもねさんはそういう生活に慣れていたのか、一日中独りでいても、誰とも話さなくても、特に苦痛を訴えるようなことはありませんでした。身の回りのことも、たいていは独りで出来ましたし、…ああ、散髪だけは私がやっておりましたが」
「散髪? じゃあ、あの坊主頭はあなたが?」
「ええ、それも真治さんの指示です。独りでお風呂に入っても、簡単に頭を洗えるようにと」
「そうだったんですか」
ずっと不思議に思っていたことも、理由を聞けば実にシンプルな話だった。合理主義者の真治らしい指示だ。
「でも私は、その散髪の時間が好きでした。あの坊主頭はもねさんにとてもよく似合っていますし、その時だけはちゃんともねさんに触れることが出来ましたから」
しみじみと語る嶋田の顔を、亮次は思わず見つめる。そこにあったのは、まるで大切な我が子について語る父親のような、切なく、慈愛に満ちた眼差しだった。
鷹蔵の家から忌み嫌われていた坊も、少なくともこの嶋田の家では大切にされていたのだと判り、亮次は安堵の溜め息を洩らす。
「俺も、あの髪型はもねにとても似合っていると思います」
亮次が感謝の言葉の代わりに告げると、嶋田は嬉しそうに目を細め、頷いた。
「初めはもねさんのことを重荷に感じていましたが、彼を毎日見ているうちに、私はどんどん切ない気持ちになっていきました。表情には出ませんが、もねさんの寂しさが私にもはっきりと伝わって来るのです。もねさんはよく窓の外を見ていました。朝も昼も夜も、本当に、とても熱心に見ているんです。まるで籠の鳥でした。その姿があまりにも可哀想になって、私は人目のつかない夜を選んで、とうとうもねさんを外に連れ出しました」
「え、」
「見つかったらただじゃすみません。ですが、私はどうしても彼に、外の世界を見せてあげたくなったのです。もねさんはまるで殻から出た鳥のヒナのようでした。見るもの、触れるもの、全てが新鮮で、驚きの連続だったのでしょう。あの大きな目がきらきらと輝いていました」
その様子を想像して亮次は嬉しくなったが、同時に悔しくもなった。坊と初めて外を歩くのは、自分の役目であって欲しかった。
「それで、手を繋いで歩いたんですね」
「手を繋ぐ? いえ必要以上の触れ合いは禁じられていましたから、そんなことはしません。そばで注意しながら見ていました。転びかけたりした時などはもちろん支えますが、それ以上は。もねさんもちゃんと歩きますし」
それなら坊は、やはり亮次とだけ手を繋ぎたがったのだと思い、亮次は嬉しさとともにまた坊への愛しさを募らせる。
「でも私がもねさんにしてあげられたのはそのくらいです。…私も結局は、鷹蔵の家の片棒を担いだのと同じなのですから」
嶋田はふいに暗い眼差しになり、テーブルの上に置いた自分の手をじっと見つめた。
「でもあなたは、坊…もねのことを、とても大事に思っておられた」
「え…」
「庭にもねのための、睡蓮の鉢を置いたり、誕生日にはケーキを用意してあげたり。違いますか」
「どうして…、それを」
目を瞠る嶋田に、亮次は微笑んだ。
「もねの絵ですよ。もねはここにいる間、何枚も何枚も絵を描きました。その中にあなたの家で過ごした日々のことも描いていたんです」
「そう、でしたか」
「あなたの気持ちは、きっともねにも伝わっていたと思いますよ」
嶋田はかすかに目を潤ませて俯いた。
「あの子は本当に……心の綺麗な、いい子です」
「はい」
亮次がしっかりと頷くと、嶋田は顔をあげ、亮次に微笑むと同時に、どこかが痛むような顔をした。
「――あの日、もねさんがいなくなったのは、私のせいなんです」
「え」
「その前日に、真治さんがうちに来ました。私がもねさんを外に出していることが判ってしまったのです。真治さんは別の施設に移す、と言ってきました。私は二度としないと言いましたが、彼の決意は固く、結局は頷かざるを得ませんでした。もねさんは私の顔色から、それを察したのでしょう。鷹蔵の家に戻されると思ったのかもしれません。だから当日、もねさんを新しい場所へ連れて行く途中、車が停止した瞬間に、もねさんは逃げ出したのです」
それであの竹藪に着の身着のままで辿り着いたというわけか。
ようやくこれまでのことが全て繋がって、亮次はしばし、坊の周りで起きた様々なことに想いを馳せた。
しかしそうするとひとつ、疑問が浮かぶ。
「あの、…もねは今、あなたの所にいるんですよね」
「はい」
「なぜ真治さんはまた、もねをあなたのもとに戻したんでしょう」
「それは…、私も考えましたが、分かりませんでした。次の施設を新たに見つけるまでのことなのか、それともまたほかに何か考えがあるのか。……あの方はご自分の気持ちや考えなどは一切話しませんから」
「……」
「ただ、真治さんはとても忙しい身でありながら、月に一度、必ずもねさんを訪ねて来ていました。けれどもねさんに話し掛けるわけでもなく、ただその様子を黙って眺めて帰ってゆくだけなのです」
それを聞いて、亮次は少しだけ真治という男の印象が変わった。
彼も悩んでいたのかもしれない。
もしかしたら少しは、兄弟としての情もあったのではないか。
けれど父親との複雑な関係を素直に受け容れることが出来ず、母親を裏切ることも出来ず、ただ見守ることしか出来なかったのかもしれない。
もねが描いていた、門を出てゆく後ろ姿の人物は、たぶん真治だ。もねは気付いていたのだろう。
だからあの日、アパートで真治を見ても、怯えた顔をしなかったのだ。
嶋田はアパートを辞去する際、玄関で振り返って亮次に告げた。
「今、もねさんは食事もほとんど取らずに、あなたの絵ばかり描いています。本当に、あなたの絵ばかり。どんどん衰弱していっているのが判ります。あなたに逢えないのが、とても辛いのでしょう」
まるでそこに坊を見ているように嶋田が言うのを聞いて、亮次は懸命に抑え続けていた激情が、またフタを開けて噴き出すのを感じていた。
「あまりに可哀想で、今日はとうとう来てしまいました」
伏し目がちに言う嶋田が、鷹蔵家の制裁を覚悟で亮次に伝えに来たのだと、亮次はようやく悟る。
嶋田が帰ったあと、亮次は庭に出て、ハナニラが咲いていた場所を見おろした。
白い花はもう去ってしまったけれど、来年の春にはまた咲いてくれるだろう。そのときに一緒に見るのは、坊だ。
『自分が誰かすら知らないコイツが、アンタが「誰」かなんて考えるわけがない。安全な場所でぬくぬく過ごせればそれでいいのさ。それ以上でも以下でもない』
真治はそう言ったが、そんなはずはなかった。
真治の言うことが本当なら、どうして坊は亮次のハナニラを必死に守ろうとしたり、あの別れの夜に、嘆く亮次のために笑ってくれたりしたのか。
それは坊が亮次をちゃんと一人の人間として認識し、亮次を好きになり、亮次のために何かしたいと考えたからに他ならない。
もねが亮次に対して、親子のような、あるいは兄弟のような関係を望むならそれでいい。それも愛だ。
自分にとって、もねが唯一無二の存在であることに変わりはなかった。
(すまない、兄貴。……俺、やっぱり、諦めたくないんだ――)
ハナニラが咲いていた場所にそっと触れながら、亮次は祈るように目蓋を閉じた。
坊と離れてから半月が過ぎた。月が出る頃になると、亮次の足は自然とあの公園へと向かった。池のほとりで煙草をふかし、夜風に揺れる竹藪をぼんやりと見つめる。
あの夜、アパートに戻り、キッチンで水を出そうとしたとき、坊の歯ブラシが残っているのを見つけて亮次は堪えきれずに泣いた。まるで半身を引き千切られたみたいだった。
翌日、訪ねて来た美里に簡単に事情を話し、それから坊の歯ブラシを捨ててくれるように頼んだ。
けれど壁に貼られた、坊が描いた亮次の絵だけは、どうしても捨てることが出来なかった。そっと剥がして、目に触れない場所へとしまう亮次を、美里が痛ましそうに見ていた。
元に戻っただけだと、何度も自分に言い聞かせる。また兄を星の世界へ送るために金を貯め続ければいいのだ。
けれどプツリと糸が切れたように、すべての気力が失われてしまった。
コトリ、と温められた惣菜が、テーブルの上に置かれる。亮次が虚ろな目で見上げると、美里は眉を顰めた。
「ちょっとは食べないと」
「…すまない」
亮次が煮物に箸をつけるのを見守りながら、美里は向かいに座って頬杖をついた。
「もね、か…。可愛い名前だね」
「――」
「睡蓮だね」
「…睡蓮?」
ふと亮次は顔をあげて美里を見た。
「モネと言えば、睡蓮でしょ。有名な絵」
そう教えられて亮次の頭にふと浮かんだのは、坊が描いた絵だ。その中には何枚も睡蓮を描いたものがあったと思い出す。
「どうかしたの?」
「…いや」
「きっとね、…また逢えるよ、必ず」
美里の慰めに、亮次は俯いて小さく笑った。
その男が亮次のアパートを訪れたのは、それから数日後の夜のことだった。
肩書のない名刺を出し、もねさんのことでお話が、というので、亮次は彼を部屋に招き入れた。
嶋田良夫と名乗ったその男は、五十がらみの温和な顔立ちをした男だった。
出された茶を前に、嶋田はかすかに目を細めて部屋のなかを見回した。
「ここに、もねさんがいたんですね」
「……あの、あなたは坊、…もねとはどういったご関係ですか。もねがどうかしたんですか」
心配を色濃く滲ませて亮次が尋ねると、嶋田は改めて亮次をまっすぐに見た。
「もねさんは無事です。でも元気がありません」
亮次が顔を曇らせると、嶋田は優しい眼差しで亮次を見つめた。
「私は真治さんから依頼を受けて、もねさんをお預かりしている者です。今日は、少しお話があって、突然すみませんでした」
「よく、ここが判りましたね」
「それは、もねさんの絵が教えてくれたんです」
「絵?」
嶋田は脇に置いていた鞄から書類ホルダーを取り出して、その中に大切そうにしまわれていた紙の束を亮次に差し出した。
「これは……」
坊の絵だとすぐに判った。鉛筆で描かれた、風景写真のように精緻な絵だ。それらはどれも何の変哲もない風景だったが、見覚えがあり過ぎる場所ばかりだった。
川べりの道、神社への道、商店街、曲がり角、公園の池、そして、このアパート。
すべて坊が亮次と散歩したり、一緒に過ごしたりした場所だと判る。
「商店街の名前が描かれていましたし、ここにはほら、」
そう言って嶋田が示したのは、はっきりと町名と地番が書かれた表示板だった。
「マジか……」
坊の記憶力の確かさに驚嘆する。
「もねさんは、とても頭がいいと思います。喋ることは出来ませんが、ちゃんと人のことも、周りのことも見ています」
「はい、それは俺も感じてました」
「私はかつてもねさんの父親、鷹蔵清彦さんの秘書をしていました」
「え、そうなんですか」
「はい。ですが社長は事故でお亡くなりになり、私も元々家の事情で早期の退職を考えていましたので、そのあとすぐに辞職を願い出ました。妻の真妃さんは事故の背景を知る私が会社を去ることをひどく警戒しましたが、絶対にそれらを外に洩らさないという誓約書を書くことで、ようやく辞職を許されたのです。けれど鷹蔵の家は、常に私を監視していたのでしょう。私は独り者ですが、長患いの母がおりまして、その母が大病を併発したときに、すぐに真治さんから見舞金として多額のお金が振り込まれました。すぐに私は悟りました。これは口止め料なのだと」
亮次は真治のビジネスライクで冷たそうな印象そのままの行為だと感じた。
「私はそれでもいいと、そのお金を母のために受け取りました。おかげで母はなんとか快復しましたが、鷹蔵の家は再び、私にコンタクトを取って来ました。清彦さんの隠し子を預かって欲しいと。今から二年ほど前のことです」
嶋田は出された冷たい茶で喉を潤してから、再び話を続けた。
「私はひどく憂鬱でしたが、もねさんを初めて見たとき、面倒というよりも、怖い、という気持ちの方が先立ちました」
「怖い?」
亮次が声を低く尋ねると、嶋田ははい、と神妙に頷いた。
「もねさんは、なんというか……、語弊を怖れずに言うなら、とても異様な感じがしたのです。顔立ちはとても整っているのですが、それはまるで人形のようで、人の気配のようなものが感じられなかったのです」
ああ、と亮次は小さくうなった。それは亮次が初めて坊を見た時に感じたことと同じだったからだ。
「真治さんからの指示はとてもシンプルでした。もねさんの健康状態には気を付けること。規則正しい生活をさせること。外に出さないこと。世間の情報に触れさせないこと。必要以上にもねさんに触れないこと。そして、決して話し掛けないこと。私はとんでもないことを引き受けてしまったと思いました。別々の部屋に暮らすといっても、同じ屋根の下に住む人間を、無視し続けるなんて並大抵のことじゃありません」
そこで初めて嶋田の顔が苦しげに歪んだ。
「けれどもねさんはそういう生活に慣れていたのか、一日中独りでいても、誰とも話さなくても、特に苦痛を訴えるようなことはありませんでした。身の回りのことも、たいていは独りで出来ましたし、…ああ、散髪だけは私がやっておりましたが」
「散髪? じゃあ、あの坊主頭はあなたが?」
「ええ、それも真治さんの指示です。独りでお風呂に入っても、簡単に頭を洗えるようにと」
「そうだったんですか」
ずっと不思議に思っていたことも、理由を聞けば実にシンプルな話だった。合理主義者の真治らしい指示だ。
「でも私は、その散髪の時間が好きでした。あの坊主頭はもねさんにとてもよく似合っていますし、その時だけはちゃんともねさんに触れることが出来ましたから」
しみじみと語る嶋田の顔を、亮次は思わず見つめる。そこにあったのは、まるで大切な我が子について語る父親のような、切なく、慈愛に満ちた眼差しだった。
鷹蔵の家から忌み嫌われていた坊も、少なくともこの嶋田の家では大切にされていたのだと判り、亮次は安堵の溜め息を洩らす。
「俺も、あの髪型はもねにとても似合っていると思います」
亮次が感謝の言葉の代わりに告げると、嶋田は嬉しそうに目を細め、頷いた。
「初めはもねさんのことを重荷に感じていましたが、彼を毎日見ているうちに、私はどんどん切ない気持ちになっていきました。表情には出ませんが、もねさんの寂しさが私にもはっきりと伝わって来るのです。もねさんはよく窓の外を見ていました。朝も昼も夜も、本当に、とても熱心に見ているんです。まるで籠の鳥でした。その姿があまりにも可哀想になって、私は人目のつかない夜を選んで、とうとうもねさんを外に連れ出しました」
「え、」
「見つかったらただじゃすみません。ですが、私はどうしても彼に、外の世界を見せてあげたくなったのです。もねさんはまるで殻から出た鳥のヒナのようでした。見るもの、触れるもの、全てが新鮮で、驚きの連続だったのでしょう。あの大きな目がきらきらと輝いていました」
その様子を想像して亮次は嬉しくなったが、同時に悔しくもなった。坊と初めて外を歩くのは、自分の役目であって欲しかった。
「それで、手を繋いで歩いたんですね」
「手を繋ぐ? いえ必要以上の触れ合いは禁じられていましたから、そんなことはしません。そばで注意しながら見ていました。転びかけたりした時などはもちろん支えますが、それ以上は。もねさんもちゃんと歩きますし」
それなら坊は、やはり亮次とだけ手を繋ぎたがったのだと思い、亮次は嬉しさとともにまた坊への愛しさを募らせる。
「でも私がもねさんにしてあげられたのはそのくらいです。…私も結局は、鷹蔵の家の片棒を担いだのと同じなのですから」
嶋田はふいに暗い眼差しになり、テーブルの上に置いた自分の手をじっと見つめた。
「でもあなたは、坊…もねのことを、とても大事に思っておられた」
「え…」
「庭にもねのための、睡蓮の鉢を置いたり、誕生日にはケーキを用意してあげたり。違いますか」
「どうして…、それを」
目を瞠る嶋田に、亮次は微笑んだ。
「もねの絵ですよ。もねはここにいる間、何枚も何枚も絵を描きました。その中にあなたの家で過ごした日々のことも描いていたんです」
「そう、でしたか」
「あなたの気持ちは、きっともねにも伝わっていたと思いますよ」
嶋田はかすかに目を潤ませて俯いた。
「あの子は本当に……心の綺麗な、いい子です」
「はい」
亮次がしっかりと頷くと、嶋田は顔をあげ、亮次に微笑むと同時に、どこかが痛むような顔をした。
「――あの日、もねさんがいなくなったのは、私のせいなんです」
「え」
「その前日に、真治さんがうちに来ました。私がもねさんを外に出していることが判ってしまったのです。真治さんは別の施設に移す、と言ってきました。私は二度としないと言いましたが、彼の決意は固く、結局は頷かざるを得ませんでした。もねさんは私の顔色から、それを察したのでしょう。鷹蔵の家に戻されると思ったのかもしれません。だから当日、もねさんを新しい場所へ連れて行く途中、車が停止した瞬間に、もねさんは逃げ出したのです」
それであの竹藪に着の身着のままで辿り着いたというわけか。
ようやくこれまでのことが全て繋がって、亮次はしばし、坊の周りで起きた様々なことに想いを馳せた。
しかしそうするとひとつ、疑問が浮かぶ。
「あの、…もねは今、あなたの所にいるんですよね」
「はい」
「なぜ真治さんはまた、もねをあなたのもとに戻したんでしょう」
「それは…、私も考えましたが、分かりませんでした。次の施設を新たに見つけるまでのことなのか、それともまたほかに何か考えがあるのか。……あの方はご自分の気持ちや考えなどは一切話しませんから」
「……」
「ただ、真治さんはとても忙しい身でありながら、月に一度、必ずもねさんを訪ねて来ていました。けれどもねさんに話し掛けるわけでもなく、ただその様子を黙って眺めて帰ってゆくだけなのです」
それを聞いて、亮次は少しだけ真治という男の印象が変わった。
彼も悩んでいたのかもしれない。
もしかしたら少しは、兄弟としての情もあったのではないか。
けれど父親との複雑な関係を素直に受け容れることが出来ず、母親を裏切ることも出来ず、ただ見守ることしか出来なかったのかもしれない。
もねが描いていた、門を出てゆく後ろ姿の人物は、たぶん真治だ。もねは気付いていたのだろう。
だからあの日、アパートで真治を見ても、怯えた顔をしなかったのだ。
嶋田はアパートを辞去する際、玄関で振り返って亮次に告げた。
「今、もねさんは食事もほとんど取らずに、あなたの絵ばかり描いています。本当に、あなたの絵ばかり。どんどん衰弱していっているのが判ります。あなたに逢えないのが、とても辛いのでしょう」
まるでそこに坊を見ているように嶋田が言うのを聞いて、亮次は懸命に抑え続けていた激情が、またフタを開けて噴き出すのを感じていた。
「あまりに可哀想で、今日はとうとう来てしまいました」
伏し目がちに言う嶋田が、鷹蔵家の制裁を覚悟で亮次に伝えに来たのだと、亮次はようやく悟る。
嶋田が帰ったあと、亮次は庭に出て、ハナニラが咲いていた場所を見おろした。
白い花はもう去ってしまったけれど、来年の春にはまた咲いてくれるだろう。そのときに一緒に見るのは、坊だ。
『自分が誰かすら知らないコイツが、アンタが「誰」かなんて考えるわけがない。安全な場所でぬくぬく過ごせればそれでいいのさ。それ以上でも以下でもない』
真治はそう言ったが、そんなはずはなかった。
真治の言うことが本当なら、どうして坊は亮次のハナニラを必死に守ろうとしたり、あの別れの夜に、嘆く亮次のために笑ってくれたりしたのか。
それは坊が亮次をちゃんと一人の人間として認識し、亮次を好きになり、亮次のために何かしたいと考えたからに他ならない。
もねが亮次に対して、親子のような、あるいは兄弟のような関係を望むならそれでいい。それも愛だ。
自分にとって、もねが唯一無二の存在であることに変わりはなかった。
(すまない、兄貴。……俺、やっぱり、諦めたくないんだ――)
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