声を失くした女性〜素敵cafeでアルバイト始めました〜

MIroku

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二日前②

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 “ポロンポロンポロン♫“

 未来のスマートフォンが鳴る。出発の準備を整え、楽しみ半分、不安半分で頭がいっぱいだった未来は、着信音に気が付かなかった。

 時刻は午前9時を回ったところ。不安な気持ちを紛らわせる為にテレビを点ける。朝のニュース番組を見ながら、薫の帰りを待っていた。

 30分が経過した。薫はまだ帰らない。不安な気持ちにかられ、スマートフォンを手に取ると、一通のメールが届いている事に気がついた。

 差出人は薫。内容は、

 『ごめんなさい。用事が長引いてしまって……夕方になっちゃうから、一人で行けるかしら?』

 “一人で行けるかしら?”

 この一文で目の前が暗くなる。未来は何かに胸を締め付けられている様な感覚に陥った。

 玄関の扉を開けて外に出る。普通なら意識するまでもない、ごくあたりまえの行動だろう。しかし、その行動に対してトラウマを抱える未来にとって、その“あたりまえ”の行動が、計り知れない程のストレスなのだ。

 不安半分楽しみ半分だった感情が、不安一色に塗りつぶされた。

 意を決してドアノブに手を掛けようと試してみた。ドアノブに手が触れた瞬間、目眩と吐き気が込み上げてくる。四肢が震えて立っていられなくなり、鼓動が早くなる。額からは汗が滲み、胃が刃物で刺されたかの様に熱く、痛い。肺は息を吸う事を忘れ、吐いた息が補給されずにいた。

 未来は、自分自身を抱きしめる様に手足を丸め、玄関で蹲った。

 1時間後。

 呼吸が整い、震えも治った。吐き気と目眩がまだ残るが、ようやく動けるようにはなった。

 トイレに駆け込み、胃の中身を全て吐き出した。苦しさから、涙で視界が滲む。未来は洗面所で口をゆすぎ、鏡の前に立つ。鏡に映った未来は絶望で瞳が黒く濁り、まるで一年前の自分を見ている様だった。

 未来は歯を食いしばり、再び玄関に立つ。今度はドアノブに触れてもいないのに、先ほどの症状に加え、酷い頭痛が未来を襲った。

 更に1時間が経過。ドアノブの前1メートルの所に未来は立っている。あと一歩、足を出してドアノブに手を掛けるだけ。しかしその一歩が踏み出せない。足がまるで自分の足では無い様に言う事を聞かない。

 未来は引かなかった。力を入れ過ぎた顎が痛む。歯茎から出血しているのだろうか、血の味が口の中に充満する。頭痛は更に酷くなり、頭が割れて中から何かが出て来そうだ。空っぽの胃は、空っぽである事を忘れ、中身を吐き出す様に命令してくる。一体何を吐き出せと言うのであろう。四肢は完全に他人のものとなり、未来の意思では指一本動かせない。

 それでも未来は引かなかった。

 “あの素敵なカフェで働きたい。今の自分を克服したい。このまま薫さんのお世話になりっぱなしは嫌だ。お世話になった薫さんに恩返しをするんだ。だから、私は前に進むんだ”

 思いを強く持ち、自分のトラウマと戦う未来。更に1時間、未来がドアノブに手を掛けてから3時間が経過した時、未来の足が動いた。未来は驚いたが、チャンスと見てゆっくりと左足を一歩踏み出す。身体中が危険信号を放っており、気を抜くと意識が飛びそうになる。歯を力一杯食いしばり、震える左手をゆっくりと持ち上げ、ドアノブに掛ける。口の中に充満する血の匂いと味。額からは汗が流れ、流れる汗が目に入ったのか、目が痛む。

 未来はゆっくりとドアノブを下げ、扉を開いた。ドアの隙間から入る眩い光に目を細めながら、未来は右足を玄関より外へ、新しい世界へを踏み出した。

 世界はいつもより明るく、輝いていた。まるで未来の門出を祝福する様に。

 呆然とする未来を、突然誰かが抱きしめた。驚いて顔を見ると、涙で顔を濡らした薫の顔がそこにはあった。

 「やったじゃない‼︎ おめでとう‼︎ 未来ちゃん‼︎ 未来ちゃんなら出来ると信じていたわ‼︎」

 力強く抱きしめる薫。そして、これは薫のよる私への試練だと理解した。そして、ずっと見守っていてくれた事。

 未来は薫の口癖である、“扉の前までは案内できるけど、扉を開けるのは本人次第”と言う言葉を思い出し、扉を文字通り開ける事が出来た自分に驚き、涙が溢れて来た。そして薫を優しく抱きしめる。

 「苦しい思いをさせてごめんなさい…」

 薫が申し訳無さそうに言った。未来は首を横に振り、力一杯抱きしめた。

 荷物を持つためにもう一度家の中へ入る。大きなキャリーカートを転がしながら、未来はドアノブに手を掛ける。先程とはうってかわり、軽々と扉を開ける事が出来た。

 「じゃあ、私はここで待っているから、いつでも帰って来てね」

 家の中から薫が言った。薫は一緒には行かず、待っている事に決めた。

 未来はスマートフォンを取り出し、メールを書く。

 『行ってきます‼︎ ありがとうございました‼︎』

 短い文だったが、その無い様に込められた思いはとても大きく、メールを受け取った薫は涙を流した。

 未来は笑顔で手を振り、玄関をゆっくりと閉める。そして、明るく、希望に満ちた笑顔で。
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