声を失くした女性〜素敵cafeでアルバイト始めました〜

MIroku

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野に咲く牡丹 ②

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 未来は厨房に駆け込んだ後、急に胸が苦しくなった。心臓の音が大きく響き、まるで店の中で太鼓を叩いているかの様。呼吸がままならず、吐き気が込み上げてくる。

 未来は慌てて部屋に駆け込み、トイレの前で膝まづいた。

 胃の中にある物を全て吐き出し、水で口をゆすぐ。しばらくその場でうずくまり、体調が落ち着くのを待った。

 “トントントン”

 部屋をノックする音が未来の耳に入る。未来はゆっくりと立ち上がり、ドアに手を掛けようとした。

 ところが、未来の手がドアに触れようとした時、強烈な頭痛と吐き気に襲われる。まるで、薫の家から出ようとした時の様に。

 未来はトイレに駆け込み、空っぽになった胃から必死に吐き出そうとする。

 「未来さん? 大丈夫ですか?」

 未来はトイレで蹲ったまま、ノックを返して返事をする事も出来なかった。

 「大丈夫? 未来さん? 入るよ~」

 “ガチャ”

 部屋のドアが開かれ、梓が室内に入って来た。ひと通り部屋を見渡した後、トイレのドアを開くと、胸を押さえて蹲っている未来の姿があった。

 「だ‼︎ 大丈夫⁉︎」

 慌てて駆け寄る梓。未来はゆっくりと顔を上げ、涙でいっぱいになった目で梓を見つめながらゆっくりと頷いた。

 「いや‼︎ 絶対に大丈夫じゃないでしょ‼︎ ちょっと横になろう? 立てる?」

 梓は自分の肩に未来の腕を乗せ、腰に手を回して未来が立ち上がるのを支えた。

 2人はゆっくりとベッドまで歩き、未来が寝転ぶのを確認してから梓は未来から離れた。

 「何か欲しいものある? お粥とかお水とか?」

 未来は頭を横に振って返事をする。ジェスチャーでノートと書くものを伝え、梓は未来に手渡した。

 『心配かけてごめんね。ちょっと休めば大丈夫だから』

 「本当に? 顔が真っ青だよ?」

 『大丈夫。あの人の顔を見てちょっと思い出しちゃっただけ』

 「あの人って…さっきのお客さん? その人ならさっき帰ったよ」

 『そう。良かった』

 「未来さん、聞いても良い? さっきのお客さんって未来さんとどう言う関係?」

 未来は少し眉をひそめ、考えた後にゆっくりとノートに文字を書いた。

 『あの人は、私の母親。父親から叩かれたりしている時に、何もしてくれなかった。もう2度と顔も見たくない』

 「そう……なんだ…ごめんね‼︎ 辛い事聞いちゃって…」

 未来は眉をひそめたままニコリと笑い、頭を横に振った。

 『大丈夫。すぐに店へ戻るから、先に戻って』

 「本当に大丈夫? 添い寝とかいらない?」

 未来は苦笑いしながら頭を横に振る。梓はしょんぼりとしながら、“無理しないでね”と言い残して店へと降りて行った。

 ドアが閉まるのを確認した未来は、枕に顔を埋めて涙を流した。

 ようやく克服出来たトラウマが、牡丹の顔を見た事で蘇り、自分でドアを開ける事が出来なくなってしまった。まるで絡みつく蛇の様に、隙あらば未来の心を締め付ける。ただ、一度克服した経験がある。

 未来は体調が回復するのを待って、もう一度ドアの前に立った。

 未来は深く息を吸い込み、“今が幸せ”と強く思う。

 たくさんの人たちと出会い、たくさんの笑顔を貰った。過去の自分と、今の自分は全くの別物だ、“あの人”の顔を見た程度の事で過去の私には戻らない。そう強く思った。

 未来はドアノブに手をかける。そのままノブを下に下げ、ドアを引いて開けた。

 ドアを開ける事が出来た事に対して、未来は安堵のため息を吐いた。

 壁を伝いながら階段を降りる。未来を見つけた梓が、片付けを中断して駆け寄って来た。

 「もう起きて大丈夫? 片付けなら私がやるから、もっと寝てて良いよ?」

 梓が心配そうな声と表情で未来に言った。未来は頭を横に振り、笑顔で答えた。

 「未来さん。無理しないでください。今日はゆっくり休んで、また明日元気な笑顔を見せて下さい。夕飯の準備が出来れば呼びに上がります」

 勇気にも休む様に言われた未来は、軽くお辞儀をしてから自室に戻って行った。

 「店長は知ってたの?」

 梓が勇気に尋ねる。

 「何をですか?」

 「あの人が……その…未来さんのお母様だったって事」

 勇気は笑顔で眉をひそめ、小さく頷いた。

 「これは僕のミスです。まさかこんなにも早く対面してしまうなんて…」

 「それは仕方がない事でしょ?」

 「いえ…彼女、菊永 牡丹きくなが ぼたんさんは以前よりたちばな先生から気をつける様に言われていたんです」

 「どう言う事?」

 「橘先生が未来さんを引き取った後、未来さんのご両親にお会いしたそうなんです。父親は児童虐待により服役する事になりましたが、母親の方は要観察となりました。橘先生が話した中では、未来さんを助けなかった事を凄く後悔していたそうです。ただ、未来さんにとっては……」

 勇気の話を聞いた梓は、俯きながら呟く。

 「“父親から叩かれていた時に何もしてくれなかった人”……」

 「そうです。直接危害を加えて無くても、と言う事はそれだけで十分ストレスを与えるものです」

 「そっか……」

 「そして父親が服役した事により自由になった彼女は、困った事に治療中の未来さんを探し始めたそうなんです。出来るだけ会わせない様にしようと橘先生と話をしました。少なくとも、未来さんの準備が出来るまで」

 「……そうなんだ。私、未来さんの事全然知らなかった……」

 「人のプライベートに深く関わると辛い事しかありませんよ」

 勇気から珍しく笑顔が消え、少し悲しげな表情になった。

 「……でも、もっと知りたいよ……私でも力になる事があるかも知れないし……実の母親を“”って言った未来さんの顔……とても悲しそうだった……店長‼︎ 知ってる事全部教えて‼︎ 私が未来さんの力になる‼︎」

 梓の発言を聞いて勇気が苦笑いをする。そして諭す様に言った。

 「これは未来さんの問題です。他人が口を出しても、彼女の心を掻き乱すだけですよ。未来さんの準備が出来るまで---」

 「それっていつ? いつ準備が出来るの? 本当に未来さん1人で解決しなきゃいけない事? プライベートに関わると辛い思いをするって誰が決めたの⁉︎ 私は未来さんの為に辛い思いをするなら望むところ‼︎ 私達はもう仲間じゃない‼︎‼︎ 辛い思いを分かち合ってこその仲間でしょ‼︎‼︎‼︎」

 勇気の言葉を遮り、梓が感情のままに話す。肩で息をしながら、徐々に涙目になり、椅子に座って呟いた。

 「……未来さんの…力になりたいよ……店長……お願い………未来さんについて、お母様の事について…知っている事を私に教えて下さい……お願いします……」

 勇気は悩んだ。そしてため息をつきながら梓を見る。梓の目からは涙が溢れ、手で拭っても拭っても次から次へと溢れ出る。
 
 勇気は覚悟を決めた様に立ち上がり、梓に向かって言った。

 「わかりました。橘先生が牡丹さん…未来さんの母親から聞いた事の又聞きですのが、それでも良いですか?」

 梓は勇気の顔を見て、コクリと頷く。梓の目は真っ直ぐに勇気を見つめ、その目を見て梓が本気である事を勇気は悟った。

 「では、少し長くなるかも知れませんが…」

 勇気は語る。牡丹から見た未来の過去。その話を、梓は静かに、心を落ち着かせて聞いていた。
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