迦国あやかし後宮譚

シアノ

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5巻

5-2

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 黄夕燕は昨年末に亡くなったばかり。亡くなったことはまだ伏せられており、しばらくして落ち着いてから公表される予定だが、身内である彼にはもう告げられているのだろう。そんな状態で明るい顔など出来るはずがない。あまり食も進んでいない様子だ。その気持ちは痛いほど分かる。

「それからあの赤い髪ですごいお髭のあの人は南の従属国、羅南らなんの長ね。雨了の近衛である秋維成は、あの国の血を引いているの」
「そういえば、以前そんな話を聞きました」

 こちらを向いていないので青妃が言うようなすごい髭はよく見えないが、燃えるような赤毛は秋維成と同じだ。大柄で、服を着ていても分かるガッチリした体付きのようだ。彼だけでなく、周囲の従者たちも同様である。秋維成は迦国の基準からするとかなり背が高い方だが、彼だけでなく、あの国の者はみんな体格がいいのだろう。
 羅南国は、夏は迦国よりずっと暑く、冬でもそこまで寒くないため、雪は降らないのだと勉強した本に書いてあった。雪が降らない冬は想像もつかない。羅南の人たちは室内でも厚着で毛皮の首巻を纏っていた。龍圭殿の大扉は閉められ、広間はかなり暖められているが、暖かいところの出身のせいでこれでも寒く感じるのかもしれない。
 そんな時、ふと、こちらをじっと見つめているような視線に気が付いた。
 別の長卓の方向からだ。最初は気のせいかと思ったが、幾度となくこっちに顔を向けている。
 御簾に顔を向けているのは白銀の髪をしている若い男だ。
 雨了と同じくらいの年頃だろうか。龍である壁巍へきぎならまだしも、人間で白銀の髪は初めて見た。髪は短く、前髪の左側にだけ黒髪の束があり、三本線の筋のようになっている。元々ああいう髪なのか、それともあの一部だけ染めているのだろうか。彼の周囲にも同じ白銀の髪をしている者は幾人かいたが、髪に黒い筋が入っているのはこちらを見ているあの男だけだ。
 いわゆる、愛嬌のある顔立ちというのだろうか。快活な印象を与える弓形の眉、そして目は大きくクリッとしており、目尻だけ猫のように上がっている。瞳は氷のような薄青い色。蔡美宣が好きな系統からは外れていそうだが、一般的に美男子と呼ばれる範囲だろう。
 しかし、御簾越しとはいえ、こちらをじーっと見てくる視線は少し気になる。
 何、あの人。そんな言葉を呑み込み、青妃に尋ねた。

「青妃、あの人はどなたか分かりますか?」
「どのあたりにいるかしら。どんな特徴がある方?」
「ええと、左側の長卓からこちらを向いていて、白銀の髪に黒い筋が入っている若い男性で──」

 そこまで言った時、青妃の柳眉が寄せられ、すうっと目が細まった。いつも口角が上がっている口元からも笑みが消えている。

「ハァ……あの男ね……」

 声も青妃とは思えないほど低く、しかもため息混じりだった。
 プイッと御簾からも顔を背けてしまう。
 聞いてはいけないことを聞いてしまっただろうか。

「な、何か問題ある人でしたか?」

 おそるおそる尋ねると、青妃はハッとした様子で顔を上げる。それからいつもの淡い微笑みを取り戻して言った。

「ごめんなさい、なんでもないのよ。白銀の髪なら白琅はくろう国の人ね」
「白琅って確か、迦国かのくにの北にある国でしたよね。寒さは厳しく、土地はあまり豊かではないけれど、宝石の産地で加工技術も有名だとか」

 貴妃きひの勉強にと凛勢から渡された本に、白琅国のことが書かれていたのを思い出してそう言った。雨了から贈られ、今も私の胸元にある大きな青玉は、白琅で採れ、加工されたのだと聞いている。
 それを告げると、青妃はニコッと笑う。

「そうよ。朱貴妃はちゃんと勉強をしていて偉いわね。凛勢からあの分厚い本を渡されたでしょう? 何年も前だけれど、雨了も同じ本で勉強させられていたのよ」

 雨了も同じように勉強していたと聞くと、ちょっぴり嬉しい。

「それで、あの男は白琅国の王太子、白呈孝はくていこう。現白琅王の次男よ。白銀の髪に黒い筋が入っているのなら間違いないわ。白琅王はもう高齢で、最近は体調があまりよろしくないそうだから、白呈孝が名代として来たのでしょう」

 青妃はどこかそっけない声色でそう言う。やはり、あの男に何かあるのだろうか。もう一度視線を向ける。白呈孝はまだこちらにひたむきな眼差しを向けている。御簾の後ろをどうしても見たい、というように。

「王太子なのに次男なんですね」

 ふと疑問に思ったことを口にする。
 王太子ということは王位の第一継承者だ。迦国だと基本的に長子が世継ぎになるのだが、白琅では違うのか、それとも長子に何かあったのか。私は首を傾げたが、青妃はその疑問には答えてくれなかった。

「ねえ、朱貴妃。そろそろ甘いものを食べない? もうお腹いっぱいだから宴料理はいらないわよね」

 話を変えたい本音が透けて見える。白琅のことはあまり話題にしたくないのだろう。
 ちょっと気になっただけで彼女の機嫌を損ねてまで聞くことではない。

「そうですね。甘いものに合わせて、温かいお茶を飲みましょうか」

 もう一度、こっそりと御簾の隙間から覗くと、白琅国の王太子、白呈孝は席を離れているようだった。宴は朝まで続くので、休憩のために適度に席を立つことが許されているそうだ。彼もそんな理由だろう。
 青妃と甘いものを食べながら取り留めのない話をしていると、いつの間にか時刻は深夜になっていたようだった。
 青妃がふあ、と朱唇を手で隠しながら欠伸をした。

「ごめんなさい。ちょっと眠くなってしまって」

 雨了と同じ青い目をシパシパと瞬きする。長いまつ毛がその度にバサバサ揺れた。

「分かります。私も少し……」

 既に宴の開始から数時間が経過し、私もそろそろ眠気が出てきた。
 しかし宴は朝まで続くのだ。大扉が閉まっているため室内からは外が見えず、何時かは分からないが、夜明けはまだまだ少し先だろう。

「朝までって、長いわよねぇ」

 宴席の男たちは酒を飲み上機嫌だが、中にはこっくりこっくりして眠そうにしている者もいる。さすがに宴席で寝るのは不敬になってしまうのか、周囲に突かれ、慌てて背筋を伸ばしている様子だ。

「宴は一晩中だから、来賓の中には別室で仮眠を取る人もいるらしいわ」
「羨ましいですね」
「ほんの少しだそうだけど、うたた寝するだけでも全然違うわよね」

 雨了は、と探すと、くにの来賓に酒を注がれて飲み干しているのが見えた。

「うわ、雨了はまだ飲んでるのね。大丈夫かしら」

 宴の開始からずっと飲んでいる気がする。雨了はお酒に弱いわけではないが、それでも飲み過ぎは体によくないだろう。

「一応、礼儀的にはお酒を勧められたら、一口は飲まなければならないものね。多分、泥酔しないように、しばらくしたら吐きに行くのではないかしら」
「そうなんですか」
「ええ。皇帝陛下が泥酔してふらふらしている姿を来賓に晒すわけにはいかないでしょう。あ、ほら、少し下がるみたい」

 雨了は凛勢と秋維成を伴って、別室に下がる様子だ。
 足取りはまだしっかりしているように見えるのだが、大丈夫だろうか。

「そんなに心配しなくても雨了なら大丈夫よ。わたくしたちも眠気覚ましに温かいお茶でも飲みましょうか」

 青妃は待機している宮女きゅうじょに新しいお茶を頼む。

「はい、少々お待ちください」

 お湯を取りに、そばに待機していた宮女きゅうじょが下がった。
 私は再び御簾の隙間から宴席を覗く。
 ふと、嫌な視線を感じた気がして見回すと、さっきもこちらを見ていた白呈孝がジロジロと無遠慮な視線を向けていた。

(またこっちを見てる……)

 何か用事でもあるのだろうか。なんとなく、青妃の態度から知り合いではないかと思うのだが。外見的にも雨了や青妃と同年代に見えるし、従属国の後継者で同じ年頃であれば面識があって当然だろう。
 白呈孝は神経質そうに足を動かしている。視線も、真っ直ぐだったさっきとはどこか違う気がする。
 周囲から話しかけられても、手で払うような仕草で面倒そうにあしらった。はっきり言って、態度が悪い。周囲も困惑しているように見えた。
 白銀の髪に入った特徴的な黒い筋からして、同じ人物のはずなのに、さっきとは座り方も態度も全然違う。背筋がざわつくような、どうにも好きになれない嫌な感じがした。

「朱貴妃、何を見ているの?」
「な、なんでもありません。みんなずっとお酒を飲んでいるなーと思って」

 私はそう誤魔化した。白呈孝の話を出すと、また青妃が不機嫌になってしまうかもしれないと思ったのだ。

「男の人ってお酒が好きよねぇ。わたくし、あの匂いは苦手だわ」
「分かります」

 適当な誤魔化しを青妃は信じてくれたようだ。

「ねえ、朱貴妃。わたくし、ちょっと思っていたのだけれど」
「はい?」

 ふと、青妃は私の方に視線を向けた。

「朱貴妃って呼ぶのはちょっと長くないかしら?」
「え? ええ、まあそうですね。私もまだ呼ばれ慣れないです」

 突然の青妃の言葉に私は首を傾げた。

「でしょう。それに、もう貴方はわたくしより偉いのに、まだ敬語が抜けないし」
「そ、それはまあ……青妃の方が年上ですし」

 青妃の見た目は私とそう変わらぬように見えるが、青妃は雨了と同い年なので私より年上なのである。

「でも雨了には敬語ではないじゃないの」
「そ、外ではちゃんと気を付けてます!」
「そうね、公私の区別を付けるのは大切だわ。だからね、わたくしも同じように扱ってほしいの」
「同じって……」
「敬語がすぐに抜けないのは仕方ないわ。だから敬語のままでも許してあげる。代わりに、わたくしのことを瑞雪ずいせつと呼んでちょうだい。雨了と同じ、わたくしの真名よ」

 青妃は私の袖をきゅっと握り、上目遣いでそう言った。
 とても可愛い仕草だが、有無を言わせない強さである。

「で、でも……」
「ねえ、お願い。わたくしも貴方のことを名前で呼びたいの。それとも、わたくしのこと、真名で呼びたくないほど嫌い?」

 うるうるとした目でじっと見つめられる。もちろん嫌いなわけではない。ただ、彼女はこうなったら自分を曲げないのだ。私がうんと言うまで袖を離さないだろう。
 根負けした私は小さく息を吐いた。

「はあ……分かりました、瑞雪。私のことも莉珠と呼んでください」
「嬉しい!」

 青妃は、名前の通り、雪のように白い頬を紅潮させて喜んでいる。

「ただし、名前で呼ぶのは二人きりの時だけですからね」
「もちろんよ」

 釘を刺したが、彼女は甘えるように私の腕に縋り付く。我儘ではあるが、そんな仕草は無邪気で可愛らしく、どうにも憎めない人である。少し強引なところは、雨了の母である上皇にも似ているかもしれない。
 そんなことを思っていた時、離れたところからガタンという大きな音が聞こえた。

「な、何の音かしら」

 青妃は私の腕に縋り付いたまま、身を固くした。
 ひゅううっと寒々しい風が吹き抜け、思わずブルッと震え上がる。

「さむ……扉が開いたみたいですね」

 おそらく龍圭殿の大扉が開いた音だったのだろう。外に面している大扉から冷たい風が流れ込み、室内の気温をみるみる下げていく。
 大扉は宴の間は締め切りと聞いていたのだが、何かあったのだろうか。
 私たちと同様に、疑問に感じたらしい人々の不思議そうな声が聞こえる。どこか剣呑な雰囲気を感じた。
 次の瞬間、ガシャーンとけたたましい音がして、急に室内が薄暗くなる。

「きゃっ……」

 青妃が私の腕に縋り付く力を強めた。わずかに手が震えている。私も身を固くし、無意識に息を潜める。
 どうやら今の激しい物音は、篝火や宴席にあった燭台が薙ぎ倒された音のようだ。強風のせいだろうか。真っ暗闇ではないが、不安になるような暗さだ。
 それだけではない。突然、ぎゃあっという激しい悲鳴や、入り乱れる足音が聞こえてきた。それも一人ではない。宴席にいる人々が一斉に喚き立て、逃げ惑っているような音がする。
 御簾のせいで、ここからだと何が起きているのか分からない。

「な、なに……?」

 私と青妃はギュッと抱き合い、息を潜める。
 何が起きたのか、御簾の隙間から覗こうとした。しかし青妃が私の腕をしっかり掴んでいるため、動くに動けない。青妃に視線を送ると、首を横に振る。今は下手に動かない方がいいということだろう。

「下手に動くと、混乱した人の波で怪我をしてしまうわ。ゆっくり、少しずつ壁際に下がりましょう」
「は、はい」

 青妃は不安そうに首を竦めながらも冷静なようだ。
 雨了は大丈夫だろうかと一瞬不安になったが、さっき宴席から下がって、まだ戻っていなかったことを思い出す。秋維成が常に雨了の身を守ってくれているから雨了は心配ない。問題は私たちの方だ。そばに控えていた宮女きゅうじょもお茶を淹れに行っており、不在である。この広間にも当然、衛士えじたちがいるはずだが、バタバタとした激しい物音に、ただただ不安が掻き立てられる。

「朱貴妃、青妃、お怪我はありませんか。さあ、こちらに」

 見覚えのある衛士えじが数人やってきて、私たちを守るように取り囲む。その姿にホッと息を吐いた。

「何があったの?」
「侵入者があった様子です。恐れ入りますがお静かに願います。このまま安全なところまで──」

 衛士えじがそう言った瞬間、ぐるるる、と獣の唸りのようなものが聞こえた。
 しかも薄暗い視界がさらに暗くなった。大きな何かに、乏しい灯りが遮られたせいだと気付く。ふわっと生暖かい風が頬を撫でた。妙に生臭い風。まるで生き物の吐息のような──
 首の角度を変え、そろそろと上を見ると、御簾の上から巨大な虎の顔がぬっと突き出ていた。

「ひっ……!」

 悲鳴を上げかけ、青妃に口を塞がれる。
 体高だけで私の身長の倍以上ありそうな、巨大な白い虎だ。この巨体で灯りが遮られたから暗かったのだ。
 虎のギョロリとした目がこちらに向く。
 見つかった。そんな気がした。
 虎は巨大なだけではない。額には太く曲がりくねった牛のような二本のツノが生えているのが薄暗くてもはっきりと見えた。目は赤く爛々と光り、私たちを凝視している。
 これはただの虎ではない。妖だ。

「若い女が二人……? どちらが朱貴妃だ? まったく、薄暗くてよく見えんではないか」

 どうやら誰かが妖の背に跨っているらしい。ガクガク震える私の耳にそんな声が届く。それも『朱貴妃』を狙っている様子だ。私に縋り付く青妃の腕の力がますます強まり、身動きが取れない。
 わずかな灯りを反射し、白銀の髪がキラッと光るのが見えた。白銀の髪に、黒い筋が三本入った特徴的な髪をした男が私と青妃を見下ろしている。
 その姿はさっき青妃に教えてもらったばかりの、白琅国の王太子、白呈孝のものに間違いなかった。
 白呈孝は固く抱き合う私と青妃に視線を向けていたが、虎の妖の背を軽く叩いて言った。

「チッ、見分けている時間はないか。まあいい。両方とも攫ってしまえ」

 虎の妖は返事をするかのようにギャオォーッと吠えた。ビリビリ震えるような咆哮に凍り付く私と青妃に、虎がにじり寄ってくる。
 その巨体の前には、御簾などなんの防壁にもならない。鋭い爪のついた手で一息に薙ぎ払われ、爪の形に裂けた。

「ひ、ひいいいっ……」

 取り囲んでいた衛士えじの一人が悲鳴を上げて座り込む。恐ろしい虎の妖の姿に、戦意を喪失してしまったのだ。

「しゅ、朱貴妃をお守りせよ! 秋維成様が戻られるまで時間を稼ぐのだ!」

 残る衛士えじたちは、果敢にも剣を抜いて巨大な虎の妖に斬りかかった。しかし、彼らも体がガタガタ震えている。妖との戦闘経験など、ほとんどないのだろう。なんとか立ち向かおうとはするが、巨大過ぎる妖にへっぴり腰で斬り付けたところで、大した傷も与えられない。
 秋維成が戻るまでの時間稼ぎにもならず、彼らは御簾同様に妖の手のひらで薙ぎ倒された。
 衛士えじたちは転がりながら、ひいひいと悲鳴を上げている。見える限りでは誰も死んではいない様子だが、怪我をしたのか、それとも恐怖ゆえにか、もう一度立ち向かうことは出来ないようだ。
 恐怖に悲鳴すら出せない私と青妃に向かって、妖は大きな口を開く。

(食われる……!?)

 妖の口は私たち二人を同時に丸呑み出来そうなほど大きく、牙に至っては私の前腕くらいの長さがあるのが見えた。あんな歯で噛まれたらただでは済まない。逃げようにも体は震えるばかりで、まったく動けなかった。

「いいか、あまり動くなよ。この化け物の歯が肉に食い込んだら死ぬぞ。死にたくなければせいぜい大人しくしているのだな」

 白呈孝の酷薄そうな声が聞こえた瞬間、私と青妃は口を大きく開いた妖の虎にバクンッと噛み付かれていた。
 いや、おそらく妖からすれば軽く咥えただけなのだろう。
 上半身が狭いところにギュッと押し込められたように苦しいが、身動きが取れないだけで、肌が裂けるような痛みはない。ただ、口の中にいるせいで、不快な生温かさと圧迫感がある。それでもまだ青妃が私を抱きしめる腕の方が強いくらいだ。
 妖の口の中で下手に動いたら、白呈孝の言う通り、あの鋭い牙が体に食い込むだろう。そう考えただけで血の気が引き、とてもじゃないが逃げられない。
 恐怖に竦む私たちの体がガクガクと揺さぶられる。妖の虎は、私たちを咥えたままどこかに運んで行くようだ。
 遠くから朱貴妃が食われたという叫び声が聞こえる。まだ食われてはいないが、食い殺されたように見えたのかもしれない。
 足は地面に擦ることはなく、どこかに運ばれるような揺れを感じる。
 振動はますます激しくなり、時折ガクンと大きな衝撃が加わる。もしかすると、私を取り返そうとする衛士えじや障害物をこの妖が薙ぎ倒して進んでいるのかもしれない。
 激しい恐怖と、妖に咥えられた苦しさに頭がクラクラする。
 しかも妖の口の中はなんともいえないほど生臭い。もしかしたら有毒な気体が発生しているのかもしれない。

(──気持ち、悪い……)

 妖の口の中であらがうことも出来ず、意識が暗闇に落ちていった。




    第二章


 ピチョン、と冷たい雫が頬に垂れ、ゆっくりと意識が浮上する。

「う……」

 まず感じたのは寒いということだった。次いで、軽い体の痛み。
 どうやら固い地面に寝かされているようだ。身じろぎするだけでジャリッと音がする。
 重い瞼をこじ開けると、洞窟のような岩肌が目に入る。
 そうだ、攫われたのだと思い出し、はっきりと意識が覚醒した。
 起き上がり、自分の体を確認するが怪我をしているような痛みはない。牙で怪我をすることはなかったようだ。ふと、ろくに指を咥えられた時を思い出す。猫の前歯、特に門歯は小さい。親猫が子猫の首根っこを咥えて運んだりもするのだ。虎と猫だからまったく同じではないだろうが、咥える加減が出来るのかもしれない。軽い痛みは硬い地面に寝かされていたせいだろう。寝具なしで寝ると体が痛むのは、朱家にいた時に既に経験済みである。
 手足の拘束すらされていない。胸元をいじると、ゴロンとした首飾りの感触がある。雨了がくれた首飾りで、蓋の宝石を開けると雨了の鱗が入っているものだ。着物もそのままで、身体検査もされていない様子にホッと息を吐く。
 青妃は無事だろうか。
 私があたりを見回すと、青妃はすぐそばに倒れていた。慌てて息を確認したが、ちゃんと呼吸をしている。体も見た感じ、出血するような怪我はしていないようだ。
 肩を叩いてみたが、眉が寄せられるだけで目を開く様子はない。
 自分もそうだが、着物がじっとり湿っているのは、天井の岩肌から、たまに垂れてくる水滴のせいか、それともあの虎の妖の唾液だろうか。着物から口の中のような生臭い匂いはしないから、前者であってほしい。
 青妃が目覚めず、やることもないので周囲を観察することにした。
 最初に思った通り、天井や壁面は洞窟のようにボコボコしているが、地面はしっかり平らにならしてあり、人の手が入っている場所だ。
 しかも広い空間を遮るように鉄格子が入っていた。ここが牢屋の類なのは間違いない。


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