〈影咒記(EIJUKI)〉外伝譚  第一篇 ― りんどうの空に――鏡師・蒼雲の若き日を描く

ukon osumi

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第一話 りんどうの径(こみち)

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 山の空気が、すこしずつ秋の色を帯びはじめていた。
 陽の光はまだじゅうぶんにあたたかいのに、風だけがやけに冴えていて、裾をくすぐる草の感触までもが、なぜか涼しげに思える。
 芳三郎は、登り坂の途中で足を止めた。
 空に伸びる木々のあいだからこぼれる陽射しが、ところどころに咲く花々を照らしている。
 その中に、ふと目を引かれる紫があった。細い茎に、そっと揺れている花。りんどうだ。
「……変わらないな」
 呟いた声は、自分の耳にだけ届いた。
 ほんのりと甘い香りが、風に乗って鼻先をかすめる。
 もうすぐ、会える。
 包みを抱え直し、また歩き出す。
 この山道を上がりきったところに、小さな祠がある。いつからか、ふたりで待ち合わせる場所になっていた。
 鳥の声が遠く、葉擦れの音が近い。
 耳を澄ませるまでもなく、そこに立つ人の気配を感じる。
「……来てたのか」
 登りきった先に、紗江がいた。
 背を向けて、りんどうの花に視線を落としている。
「遅かったわね」
 ふり返らずに言う声に、思わず笑みが漏れる。
 この声を聞くために、歩いてきたようなものだ。
「風が気持ちよくて、ついのんびりしてしまった」
 そう答えると、紗江は肩を揺らして笑った。
 ようやくこちらを振り向き、少し眩しそうに目を細める。
「じゃあ、今日はもう許してあげる」
「今日は……?」
「ええ。明日はまだ決めてないけど」
 そんな言葉の端々が、好きだ。
 こうして何でもないような会話を交わせることが、ただ嬉しい。
 芳三郎は紗江のそばに歩み寄り、彼女の肩に手を伸ばしかけて――ふと、そのまま止めた。
 触れるのは、もう少しあとでもいい。
 まずは、目の前にいるという事実を、ゆっくり味わいたかった。
「また、咲いてるな。りんどう」
「うん。今年もきれい。毎年同じ場所で咲くのって、不思議よね」
「変わらないって、すごいことだ」
「……でも、変わっていくから、また咲くんじゃない?」
 その言葉に、答えは返さなかった。
 代わりに、風がひとつ吹いて、紗江の髪が揺れた。
「ほら、持ってきたぞ。お前の好きなやつ」
 包みの口を開くと、中からあらわれたのは白い紙にくるまれた干菓子と、小さな折り花。
「あ……」と紗江が目を輝かせる。
「干菓子のほうは、あんまり上手く包めなかったが……」
「ううん、うれしい。ありがとう。ちょっと味見、してもいい?」
「もちろん」
 紗江は丁寧に紙を開き、ひとつを口に運んだ。
 その顔に、ゆるやかな笑みが浮かぶ。
「やっぱり、この味。……ちゃんと覚えてくれてる」
 芳三郎は、ただ頷いた。
 言葉を重ねなくても、通じるものがある気がした。
 こうして笑ってくれるなら、また来よう。
 また、同じものを包んで、同じようにここへ来ればいい。

 紗江は干菓子をもうひとつ手に取り、紙の上に残されたものを、そっと眺めるように見つめていた。
「これ、昔と同じね。あのとき、私が二つも食べちゃったの、覚えてる?」
「忘れるわけがない。俺のぶんだったんだぞ」
「ふふ……あのとき、怒らなかったよね」
「怒っても仕方ないだろ。美味しそうに食べるから、見てるだけで満足だった」
 そんな昔話が、自然に出てくるのがうれしかった。
 ここでは時間がやわらかく流れていて、記憶も未来も、ただひとつの風景のように混ざっている気がする。
 紗江は折り花を指先に取り上げる。
 淡い紅色の紙を、ていねいに折ったものだ。形は少し不格好だが、それがかえってやさしさを宿している。
「これも……懐かしい」
「似たのを、昔作ってやったろ」
「うん。……あのとき、手がすごく震えてた」
「……初めての折り紙だったからな」
「そうじゃなくて。きっと、照れてたんだと思う」
 紗江はいたずらっぽく笑い、花を胸元にそっと当てた。
 その仕草に、芳三郎はふいに息を呑みそうになる。何も特別なことではない。ただ、彼女がそこにいて、笑っている――それだけなのに。
「なあ、紗江」
「ん?」
「今日は、来てよかったよ」
「うん。私も」
 ふたりのあいだに、ことさらな言葉は必要なかった。
 この時間があれば、それでいい。そう思える静けさが、山の空気といっしょに、そっと身を包んでくる。
 芳三郎は包みの底から、最後のひとつを取り出した。
 それは、小さな草履だった。すこし色あせていて、鼻緒の片方はほどけかけている。
 紗江がそれを見て、瞳を見開く。
「……覚えててくれたんだ」
「おまえが気に入ってたからな。……ずっと、大事にしてた」
「ありがとう」
 その言葉は、風の音に溶けていきそうなほど、小さかった。
 紗江は草履にそっと指を伸ばす。触れようとして、けれど、やめる。
 そのかわりに、ひとつ息を吐き、祠のほうへと歩を進めた。
「置いていくの?」
「いや……預けるだけさ」
 芳三郎は立ち上がり、祠の端に草履をそっと添えた。
 手を合わせるでもなく、拝むでもなく――ただ、置く。それが自然だった。
「また、ここで会おうな」
「うん。……また、来てね」
 ふたりは並んで、祠の前に立った。
 空はすこしずつ傾き、りんどうの影が地面に長くのびていた。
 風が吹いて、花々がゆっくりと揺れる。
「もう少しいようか?」
「そうね。帰るのは、いつでもできるもの」
 そんなやりとりを交わしながら、ふたりは腰を下ろす。
 肩がそっと触れ合う。会話はもういらない。ただ、そこにいるだけで、すべてが足りていた。
 日が、山の端に沈みかけている。
 それでも、今日の光はまだ少しだけ、ふたりを照らしていた。
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