2 / 6
第二話 山をおりて
しおりを挟む
ふたりはしばらく、並んで座っていた。
空があたたかく淡い光を落とし、りんどうの花影が長く伸びている。風はやさしく、肩にかかる髪を撫でていった。
「ねえ、そろそろ行こうか」
紗江がそう言って立ち上がる。
芳三郎もそれに倣い、草履のある祠のほうにもう一度目をやった。夕陽を受けて、草履が淡く光って見える。
「置いていっていいの?」
「うん。明日また来るつもりだから」
「ふふ、明日も?」
「飽きるまで通うつもりだ」
「じゃあ、ずっと来るわね」
紗江は笑って、芳三郎の袖を軽く引いた。
その手の感触が、ふいに胸の奥をくすぐる。
山道を下りはじめると、葉のこすれる音と、足元の石を踏む音だけがふたりのまわりに残った。
ときおり小鳥の鳴く声がして、それに重なるように、ふたりの足取りも揃ってゆく。
「ねえ、帰りにあれ、寄ってもいい?」
「ん?」
「ほら、川のそばに咲いてた、白い花。去年、私が摘もうとして、足滑らせたとこ」
「ああ、あのとき。おまえ、裾びしょ濡れにして笑ってたな」
「笑ったのは芳三郎のほうよ。私が尻もちついたの見て、ひどく笑ってた」
「いや、あれは可愛かったんだ。だからつい」
紗江はふふっと笑い、草履の音を響かせながら、ひと足早く歩いてゆく。
芳三郎はその背を追いながら、なんでもない話のひとつひとつが、胸のなかでじんわりと熱を持っていくのを感じていた。
「じゃあ、今日は落ちないように気をつける」
「転んだらまた抱き起こしてやるよ」
「またって……あのときは、手も貸してくれなかったじゃない」
「おまえが笑ってるから、つられてな。ほんとは心配してたんだぞ」
「……ふうん」
紗江がちょっとだけうしろを振り返り、なにかを確かめるように芳三郎の顔を見つめる。
「じゃあ、今日は信じておく」
「今日は、ね」
「うん。明日はまた、考える」
そんな会話を交わせることが、なにより嬉しかった。
明日もあると思えること。明日、また会えるということ。
ふたりは道を外れ、川のそばへと出る。
石の多い場所だが、紗江は迷いなく歩いてゆく。
ひときわ白く咲いた花の前で、しゃがみこむ。
「やっぱり咲いてた。……会いにきてくれてありがとう」
「花に言ってるのか?」
「ううん。……あなたに」
紗江はそっと手を伸ばし、花に触れた。
その指先は、空気をなでるように軽やかだった。
「毎年咲くのよね、この花。すごいと思わない?」
「おまえと同じだな」
「えっ?」
「毎年、ちゃんと咲いてくれるところがさ」
照れくさくて言いながら、少しだけ視線をそらす。
紗江はほんの一瞬きょとんとした顔をしたあと、柔らかく笑った。
「……うれしい」
たったそれだけの言葉に、なぜだか胸がいっぱいになる。
なにかを言おうとして、けれど口には出さず、ただその場に立ちつくす。
紗江はしゃがんだまま、白い花をしばらく見つめていた。
その横顔を見ていると、言葉にしなくてもいいことまで、胸の内で伝わってくる気がした。
「摘んでいくか?」
芳三郎がそう問いかけると、紗江は首を横に振った。
「ううん。ここに咲いてるのがいいの。来れば、また会えるでしょう?」
「……そうだな」
返した言葉が、少しだけ掠れていたのを、自分でも気づいていた。
でも紗江は何も言わずに、立ち上がって服の裾を払うと、軽く笑って見せた。
「さ、帰ろう」
「もう少しだけ、ゆっくり行くか?」
「うん、そうしよう」
ふたりは並んで歩き出した。川音が背中を押すように遠ざかっていく。
手は自然と、そっと近づいていった。意識せずに、でもたしかに、互いの距離を詰めていく。
ときおり、袖がふれる。
風に吹かれて、草が鳴る音に紛れるような、小さな接触だった。
「――手、つないでもいい?」
不意に、紗江がそう言った。
芳三郎は顔を向け、彼女の横顔を見る。
目は伏せられていて、まつ毛が少し震えていた。
「もちろん」
そう答えるより早く、紗江の指がそっと伸びてきた。
手を差し出すと、迷いなく、その手が重なる。
少しだけ冷たかった。けれど、それもまた心地よかった。
握った手から、言葉にならないものが伝わってくる。
声では言い表せない思いも、感情も、すべてがこの手のなかにある気がした。
「こうして歩くの、久しぶり」
紗江の声が、風よりも柔らかく響く。
「そうか?」
「うん。……ずっと、こうしていたいって思ってた」
「じゃあ、これからは毎日でも」
「ほんと?」
「もちろん」
返すと、紗江は小さく笑った。
その笑顔は、どんな景色よりもあたたかく、どんな言葉よりも、まっすぐだった。
坂を下りながら、空がすこしずつ朱に染まっていく。
草いきれの混じった風が吹き、秋の虫が鳴きはじめていた。
「ねえ、覚えてる? 昔、私が歌を口ずさんだら、芳三郎が変な顔したこと」
「変な顔なんてしてないぞ」
「してた。眉がひくひく動いてた」
「……あれは音程がずれてたから」
「ひどい。せっかく気持ちよく歌ってたのに」
「気持ちはありがたかったよ。歌は……まあ、練習すればな」
「じゃあ、次はもっと上手に歌う」
「楽しみにしてる」
笑い合う声が、坂道にやわらかく響いていた。
どこまでも、終わりのない時間のように感じられる。
やがて、山のふもとが近づいてくる。
木々の隙間から、遠くの屋根や、人の気配が見えてくる。
紗江はふと立ち止まり、手を握ったまま、空を仰いだ。
「……きれいね」
「そうだな」
「こうして並んで歩いてると、空まで近く感じる」
「おまえと一緒だからじゃないか?」
「……うん。そうかもしれない」
そして、ふたりはまた歩き出す。
指先はまだつながったまま。何も言わずとも、それで充分だった。
今日という日が、ただここにあるということ。
それだけで、心が満たされる気がした。
ふたりの背中に、静かに夕陽が落ちていく。
世界がゆっくりと夜の色に染まっていくなかで、
繋いだ手のぬくもりだけが、確かにそこに残っていた。
空があたたかく淡い光を落とし、りんどうの花影が長く伸びている。風はやさしく、肩にかかる髪を撫でていった。
「ねえ、そろそろ行こうか」
紗江がそう言って立ち上がる。
芳三郎もそれに倣い、草履のある祠のほうにもう一度目をやった。夕陽を受けて、草履が淡く光って見える。
「置いていっていいの?」
「うん。明日また来るつもりだから」
「ふふ、明日も?」
「飽きるまで通うつもりだ」
「じゃあ、ずっと来るわね」
紗江は笑って、芳三郎の袖を軽く引いた。
その手の感触が、ふいに胸の奥をくすぐる。
山道を下りはじめると、葉のこすれる音と、足元の石を踏む音だけがふたりのまわりに残った。
ときおり小鳥の鳴く声がして、それに重なるように、ふたりの足取りも揃ってゆく。
「ねえ、帰りにあれ、寄ってもいい?」
「ん?」
「ほら、川のそばに咲いてた、白い花。去年、私が摘もうとして、足滑らせたとこ」
「ああ、あのとき。おまえ、裾びしょ濡れにして笑ってたな」
「笑ったのは芳三郎のほうよ。私が尻もちついたの見て、ひどく笑ってた」
「いや、あれは可愛かったんだ。だからつい」
紗江はふふっと笑い、草履の音を響かせながら、ひと足早く歩いてゆく。
芳三郎はその背を追いながら、なんでもない話のひとつひとつが、胸のなかでじんわりと熱を持っていくのを感じていた。
「じゃあ、今日は落ちないように気をつける」
「転んだらまた抱き起こしてやるよ」
「またって……あのときは、手も貸してくれなかったじゃない」
「おまえが笑ってるから、つられてな。ほんとは心配してたんだぞ」
「……ふうん」
紗江がちょっとだけうしろを振り返り、なにかを確かめるように芳三郎の顔を見つめる。
「じゃあ、今日は信じておく」
「今日は、ね」
「うん。明日はまた、考える」
そんな会話を交わせることが、なにより嬉しかった。
明日もあると思えること。明日、また会えるということ。
ふたりは道を外れ、川のそばへと出る。
石の多い場所だが、紗江は迷いなく歩いてゆく。
ひときわ白く咲いた花の前で、しゃがみこむ。
「やっぱり咲いてた。……会いにきてくれてありがとう」
「花に言ってるのか?」
「ううん。……あなたに」
紗江はそっと手を伸ばし、花に触れた。
その指先は、空気をなでるように軽やかだった。
「毎年咲くのよね、この花。すごいと思わない?」
「おまえと同じだな」
「えっ?」
「毎年、ちゃんと咲いてくれるところがさ」
照れくさくて言いながら、少しだけ視線をそらす。
紗江はほんの一瞬きょとんとした顔をしたあと、柔らかく笑った。
「……うれしい」
たったそれだけの言葉に、なぜだか胸がいっぱいになる。
なにかを言おうとして、けれど口には出さず、ただその場に立ちつくす。
紗江はしゃがんだまま、白い花をしばらく見つめていた。
その横顔を見ていると、言葉にしなくてもいいことまで、胸の内で伝わってくる気がした。
「摘んでいくか?」
芳三郎がそう問いかけると、紗江は首を横に振った。
「ううん。ここに咲いてるのがいいの。来れば、また会えるでしょう?」
「……そうだな」
返した言葉が、少しだけ掠れていたのを、自分でも気づいていた。
でも紗江は何も言わずに、立ち上がって服の裾を払うと、軽く笑って見せた。
「さ、帰ろう」
「もう少しだけ、ゆっくり行くか?」
「うん、そうしよう」
ふたりは並んで歩き出した。川音が背中を押すように遠ざかっていく。
手は自然と、そっと近づいていった。意識せずに、でもたしかに、互いの距離を詰めていく。
ときおり、袖がふれる。
風に吹かれて、草が鳴る音に紛れるような、小さな接触だった。
「――手、つないでもいい?」
不意に、紗江がそう言った。
芳三郎は顔を向け、彼女の横顔を見る。
目は伏せられていて、まつ毛が少し震えていた。
「もちろん」
そう答えるより早く、紗江の指がそっと伸びてきた。
手を差し出すと、迷いなく、その手が重なる。
少しだけ冷たかった。けれど、それもまた心地よかった。
握った手から、言葉にならないものが伝わってくる。
声では言い表せない思いも、感情も、すべてがこの手のなかにある気がした。
「こうして歩くの、久しぶり」
紗江の声が、風よりも柔らかく響く。
「そうか?」
「うん。……ずっと、こうしていたいって思ってた」
「じゃあ、これからは毎日でも」
「ほんと?」
「もちろん」
返すと、紗江は小さく笑った。
その笑顔は、どんな景色よりもあたたかく、どんな言葉よりも、まっすぐだった。
坂を下りながら、空がすこしずつ朱に染まっていく。
草いきれの混じった風が吹き、秋の虫が鳴きはじめていた。
「ねえ、覚えてる? 昔、私が歌を口ずさんだら、芳三郎が変な顔したこと」
「変な顔なんてしてないぞ」
「してた。眉がひくひく動いてた」
「……あれは音程がずれてたから」
「ひどい。せっかく気持ちよく歌ってたのに」
「気持ちはありがたかったよ。歌は……まあ、練習すればな」
「じゃあ、次はもっと上手に歌う」
「楽しみにしてる」
笑い合う声が、坂道にやわらかく響いていた。
どこまでも、終わりのない時間のように感じられる。
やがて、山のふもとが近づいてくる。
木々の隙間から、遠くの屋根や、人の気配が見えてくる。
紗江はふと立ち止まり、手を握ったまま、空を仰いだ。
「……きれいね」
「そうだな」
「こうして並んで歩いてると、空まで近く感じる」
「おまえと一緒だからじゃないか?」
「……うん。そうかもしれない」
そして、ふたりはまた歩き出す。
指先はまだつながったまま。何も言わずとも、それで充分だった。
今日という日が、ただここにあるということ。
それだけで、心が満たされる気がした。
ふたりの背中に、静かに夕陽が落ちていく。
世界がゆっくりと夜の色に染まっていくなかで、
繋いだ手のぬくもりだけが、確かにそこに残っていた。
0
あなたにおすすめの小説
JKメイドはご主人様のオモチャ 命令ひとつで脱がされて、触られて、好きにされて――
のぞみ
恋愛
「今日から、お前は俺のメイドだ。ベッドの上でもな」
高校二年生の蒼井ひなたは、借金に追われた家族の代わりに、ある大富豪の家で住み込みメイドとして働くことに。
そこは、まるでおとぎ話に出てきそうな大きな洋館。
でも、そこで待っていたのは、同じ高校に通うちょっと有名な男の子――完璧だけど性格が超ドSな御曹司、天城 蓮だった。
昼間は生徒会長、夜は…ご主人様?
しかも、彼の命令はちょっと普通じゃない。
「掃除だけじゃダメだろ? ご主人様の癒しも、メイドの大事な仕事だろ?」
手を握られるたび、耳元で囁かれるたび、心臓がバクバクする。
なのに、ひなたの体はどんどん反応してしまって…。
怒ったり照れたりしながらも、次第に蓮に惹かれていくひなた。
だけど、彼にはまだ知られていない秘密があって――
「…ほんとは、ずっと前から、私…」
ただのメイドなんかじゃ終わりたくない。
恋と欲望が交差する、ちょっぴり危険な主従ラブストーリー。
わたしの下着 母の私をBBA~と呼ぶことのある息子がまさか...
MisakiNonagase
青春
39才の母・真知子は息子が私の下着を持ち出していることに気づいた。
ネットで同様の事象がないか調べると、案外多いようだ。
さて、真知子は息子を問い詰める? それとも気づかないふりを続けてあげるか?
そのほかに外伝も綴りました。
意味が分かると怖い話(解説付き)
彦彦炎
ホラー
一見普通のよくある話ですが、矛盾に気づけばゾッとするはずです
読みながら話に潜む違和感を探してみてください
最後に解説も載せていますので、是非読んでみてください
実話も混ざっております
上司、快楽に沈むまで
赤林檎
BL
完璧な男――それが、営業部課長・**榊(さかき)**の社内での評判だった。
冷静沈着、部下にも厳しい。私生活の噂すら立たないほどの隙のなさ。
だが、その“完璧”が崩れる日がくるとは、誰も想像していなかった。
入社三年目の篠原は、榊の直属の部下。
真面目だが強気で、どこか挑発的な笑みを浮かべる青年。
ある夜、取引先とのトラブル対応で二人だけが残ったオフィスで、
篠原は上司に向かって、いつもの穏やかな口調を崩した。「……そんな顔、部下には見せないんですね」
疲労で僅かに緩んだ榊の表情。
その弱さを見逃さず、篠原はデスク越しに距離を詰める。
「強がらなくていいですよ。俺の前では、もう」
指先が榊のネクタイを掴む。
引き寄せられた瞬間、榊の理性は音を立てて崩れた。
拒むことも、許すこともできないまま、
彼は“部下”の手によって、ひとつずつ乱されていく。
言葉で支配され、触れられるたびに、自分の知らなかった感情と快楽を知る。それは、上司としての誇りを壊すほどに甘く、逃れられないほどに深い。
だが、篠原の視線の奥に宿るのは、ただの欲望ではなかった。
そこには、ずっと榊だけを見つめ続けてきた、静かな執着がある。
「俺、前から思ってたんです。
あなたが誰かに“支配される”ところ、きっと綺麗だろうなって」
支配する側だったはずの男が、
支配されることで初めて“生きている”と感じてしまう――。
上司と部下、立場も理性も、すべてが絡み合うオフィスの夜。
秘密の扉を開けた榊は、もう戻れない。
快楽に溺れるその瞬間まで、彼を待つのは破滅か、それとも救いか。
――これは、ひとりの上司が“愛”という名の支配に沈んでいく物語。
与兵衛長屋つれあい帖 お江戸ふたり暮らし
かずえ
歴史・時代
旧題:ふたり暮らし
長屋シリーズ一作目。
第八回歴史・時代小説大賞で優秀短編賞を頂きました。応援してくださった皆様、ありがとうございます。
十歳のみつは、十日前に一人親の母を亡くしたばかり。幸い、母の蓄えがあり、自分の裁縫の腕の良さもあって、何とか今まで通り長屋で暮らしていけそうだ。
頼まれた繕い物を届けた帰り、くすんだ着物で座り込んでいる男の子を拾う。
一人で寂しかったみつは、拾った男の子と二人で暮らし始めた。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる