〈影咒記(EIJUKI)〉外伝譚  第一篇 ― りんどうの空に――鏡師・蒼雲の若き日を描く

ukon osumi

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第二話 山をおりて

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 ふたりはしばらく、並んで座っていた。
 空があたたかく淡い光を落とし、りんどうの花影が長く伸びている。風はやさしく、肩にかかる髪を撫でていった。
「ねえ、そろそろ行こうか」
 紗江がそう言って立ち上がる。
 芳三郎もそれに倣い、草履のある祠のほうにもう一度目をやった。夕陽を受けて、草履が淡く光って見える。
「置いていっていいの?」
「うん。明日また来るつもりだから」
「ふふ、明日も?」
「飽きるまで通うつもりだ」
「じゃあ、ずっと来るわね」
 紗江は笑って、芳三郎の袖を軽く引いた。
 その手の感触が、ふいに胸の奥をくすぐる。
 山道を下りはじめると、葉のこすれる音と、足元の石を踏む音だけがふたりのまわりに残った。
 ときおり小鳥の鳴く声がして、それに重なるように、ふたりの足取りも揃ってゆく。
「ねえ、帰りにあれ、寄ってもいい?」
「ん?」
「ほら、川のそばに咲いてた、白い花。去年、私が摘もうとして、足滑らせたとこ」
「ああ、あのとき。おまえ、裾びしょ濡れにして笑ってたな」
「笑ったのは芳三郎のほうよ。私が尻もちついたの見て、ひどく笑ってた」
「いや、あれは可愛かったんだ。だからつい」
 紗江はふふっと笑い、草履の音を響かせながら、ひと足早く歩いてゆく。
 芳三郎はその背を追いながら、なんでもない話のひとつひとつが、胸のなかでじんわりと熱を持っていくのを感じていた。
「じゃあ、今日は落ちないように気をつける」
「転んだらまた抱き起こしてやるよ」
「またって……あのときは、手も貸してくれなかったじゃない」
「おまえが笑ってるから、つられてな。ほんとは心配してたんだぞ」
「……ふうん」
 紗江がちょっとだけうしろを振り返り、なにかを確かめるように芳三郎の顔を見つめる。
「じゃあ、今日は信じておく」
「今日は、ね」
「うん。明日はまた、考える」
 そんな会話を交わせることが、なにより嬉しかった。
 明日もあると思えること。明日、また会えるということ。
 ふたりは道を外れ、川のそばへと出る。
 石の多い場所だが、紗江は迷いなく歩いてゆく。
 ひときわ白く咲いた花の前で、しゃがみこむ。
「やっぱり咲いてた。……会いにきてくれてありがとう」
「花に言ってるのか?」
「ううん。……あなたに」
 紗江はそっと手を伸ばし、花に触れた。
 その指先は、空気をなでるように軽やかだった。
「毎年咲くのよね、この花。すごいと思わない?」
「おまえと同じだな」
「えっ?」
「毎年、ちゃんと咲いてくれるところがさ」
 照れくさくて言いながら、少しだけ視線をそらす。
 紗江はほんの一瞬きょとんとした顔をしたあと、柔らかく笑った。
「……うれしい」
 たったそれだけの言葉に、なぜだか胸がいっぱいになる。
 なにかを言おうとして、けれど口には出さず、ただその場に立ちつくす。


 紗江はしゃがんだまま、白い花をしばらく見つめていた。
 その横顔を見ていると、言葉にしなくてもいいことまで、胸の内で伝わってくる気がした。
「摘んでいくか?」
 芳三郎がそう問いかけると、紗江は首を横に振った。
「ううん。ここに咲いてるのがいいの。来れば、また会えるでしょう?」
「……そうだな」
 返した言葉が、少しだけ掠れていたのを、自分でも気づいていた。
 でも紗江は何も言わずに、立ち上がって服の裾を払うと、軽く笑って見せた。
「さ、帰ろう」
「もう少しだけ、ゆっくり行くか?」
「うん、そうしよう」
 ふたりは並んで歩き出した。川音が背中を押すように遠ざかっていく。
 手は自然と、そっと近づいていった。意識せずに、でもたしかに、互いの距離を詰めていく。
 ときおり、袖がふれる。
 風に吹かれて、草が鳴る音に紛れるような、小さな接触だった。
「――手、つないでもいい?」
 不意に、紗江がそう言った。
 芳三郎は顔を向け、彼女の横顔を見る。
 目は伏せられていて、まつ毛が少し震えていた。
「もちろん」
 そう答えるより早く、紗江の指がそっと伸びてきた。
 手を差し出すと、迷いなく、その手が重なる。
 少しだけ冷たかった。けれど、それもまた心地よかった。
 握った手から、言葉にならないものが伝わってくる。
 声では言い表せない思いも、感情も、すべてがこの手のなかにある気がした。
「こうして歩くの、久しぶり」
 紗江の声が、風よりも柔らかく響く。
「そうか?」
「うん。……ずっと、こうしていたいって思ってた」
「じゃあ、これからは毎日でも」
「ほんと?」
「もちろん」
 返すと、紗江は小さく笑った。
 その笑顔は、どんな景色よりもあたたかく、どんな言葉よりも、まっすぐだった。
 坂を下りながら、空がすこしずつ朱に染まっていく。
 草いきれの混じった風が吹き、秋の虫が鳴きはじめていた。
「ねえ、覚えてる? 昔、私が歌を口ずさんだら、芳三郎が変な顔したこと」
「変な顔なんてしてないぞ」
「してた。眉がひくひく動いてた」
「……あれは音程がずれてたから」
「ひどい。せっかく気持ちよく歌ってたのに」
「気持ちはありがたかったよ。歌は……まあ、練習すればな」
「じゃあ、次はもっと上手に歌う」
「楽しみにしてる」
 笑い合う声が、坂道にやわらかく響いていた。
 どこまでも、終わりのない時間のように感じられる。
 やがて、山のふもとが近づいてくる。
 木々の隙間から、遠くの屋根や、人の気配が見えてくる。
 紗江はふと立ち止まり、手を握ったまま、空を仰いだ。
「……きれいね」
「そうだな」
「こうして並んで歩いてると、空まで近く感じる」
「おまえと一緒だからじゃないか?」
「……うん。そうかもしれない」
 そして、ふたりはまた歩き出す。
 指先はまだつながったまま。何も言わずとも、それで充分だった。
 今日という日が、ただここにあるということ。
 それだけで、心が満たされる気がした。
 ふたりの背中に、静かに夕陽が落ちていく。
 世界がゆっくりと夜の色に染まっていくなかで、
 繋いだ手のぬくもりだけが、確かにそこに残っていた。
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