〈影咒記(EIJUKI)〉外伝譚 第一篇 ― りんどうの空に――鏡師・蒼雲の若き日を描く
祠で待つ人は、声だけ先に届く。りんどうの青の下、鏡師となる青年は最期の面影に別れを告げる。
山の風はもう秋の色を帯びていた。青年・芳三郎は、祠へ続く細い径を歩いている。風に揺れるりんどうの花、袖をすり抜ける光の粒。彼がそこに向かうのは、ある約束のためだった。祠の前には、いつも彼女が先に来ている。名は紗江。穏やかに笑う声が、山の静けさの中で一番やさしい音だった。
ふたりの間に、特別な出来事はない。干菓子を分け合い、昔話をして、花を眺めるだけの時間。けれど、その何気ない瞬間が、芳三郎には何よりの喜びだった。祠のそばには、毎年同じ場所で咲くりんどうがある。変わらず咲く花のように、ふたりの時間も続くと信じていた。
ある日、紗江が言う。「変わらないって、すごいこと。でも、変わるからこそ、また咲くのよね。」
その言葉が、芳三郎の胸に残る。彼は祠に小さな草履を置き、来年もまたここで会おうと約束した。別れ際、ふたりの影が重なり、風が花々を揺らす。その一瞬が永遠のように感じられた。
季節がいくつ過ぎても、芳三郎は同じ山道を登りつづける。りんどうは咲き、祠は変わらずそこにある。けれど、どこかが少しずつ違っていく。風の向き、陽の角度、そして――彼女の声の響き。ある日、紗江は静かに笑って言った。「ねえ、また明日も来てくれる?」 彼は頷く。けれど、その「明日」は、ほんとうに訪れるのだろうか。
りんどうの花が、風に揺れている。祠の前に置かれた小さな草履は、今もそのままだ。山の静けさの中、空の色だけが澄み渡っていく。
青年は祠の前に立ち、しばらく何も言わずにいた。風が頬をなでる。目を閉じると、かすかにあの笑い声が聞こえた気がする。
そして、彼は名を呼ばずに、そっと空を仰ぐ。
雲ひとつない蒼の下――その空は、どこまでも深く、どこまでも静かだった。
蒼雲の次の物語が、あなたを待っています。
黄泉灯籠迷図(よみとうろうめいず) ―― 灯籠の声を聴く者の物語へ。
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そして、彼は名を呼ばずに、そっと空を仰ぐ。
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