〈影咒記(EIJUKI)〉外伝譚  第一篇 ― りんどうの空に――鏡師・蒼雲の若き日を描く

ukon osumi

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第三話 風のなかの二人

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 祠の前に腰を下ろすと、背中に冷たい石の感触が伝わってきた。
 けれど隣に紗江がいると思えば、それすらも心地よく思えてくる。
 秋の風が吹き抜け、りんどうの群れが揺れていた。
「風が、昨日より少し強いね」
 紗江がそう言いながら、髪を押さえるように耳のあたりをなぞる。
 その仕草が、やけに懐かしく感じられて、芳三郎はふと笑った。
「こうしてると、時が止まってるみたいだな」
「止まってるの? 進んでるの?」
「わからない。でも、おまえといると、どっちでもいい気がする」
 紗江はふっと笑い、指先で草を撫でるように触れた。
 その向こうでは、細い茎に乗ったりんどうの花が、陽射しのなかで揺れている。
 ふたりのあいだに沈黙が流れる。けれどそれは気まずさではなく、どこか安心する静けさだった。
 その沈黙を破るように、芳三郎が口を開く。
「最近、ようやく少しだけ“映し”が見えるようになった」
「“映し”?」
「鏡のなかに、人の心が反射するんだ。表情や言葉じゃない、その奥にあるもの……願いや、思い出や、誰にも言わないような気持ちが、まるで水面に浮かぶように」
「ふうん……それ、見てしまって平気なの?」
「平気かどうかは、まだわからない。けど、避けて通れない。鏡師を名乗るなら、正面から向き合うしかないらしい」
 紗江は小さくうなずいて、考えるように空を見上げた。
「……ねえ、私の心も、鏡に映るかな」
 その問いに、芳三郎は答えられなかった。
 言葉が、喉の奥で止まってしまった。
 映るかもしれない。けれど、映していいものなのか。
 知りたい気持ちと、触れてはいけないという思いが、心の奥でせめぎ合っている。
「……きっと、映るさ」
 ようやく絞り出した言葉は、どこか曖昧だった。
 紗江は彼の横顔を見つめ、何も言わずに微笑んだ。
 風がまた吹いて、髪が肩に流れた。
 彼女の横顔に、かすかに光が差し込んでいる。
 その光のなかに、遠い記憶が重なった。
 かつて、同じようにここに座り、何気ない話を交わしていたあの日の風景が、胸の奥からそっと浮かび上がる。

 芳三郎は、祠の前に咲く小さな花に目を落とした。
 色の浅いりんどう。ひとつだけ、他の花とは違う方角に向かって咲いている。
 どこか、紗江に似ている気がした。
「鏡に心が映るならさ」
 紗江がぽつりと口をひらく。
「誰かの心を見たとき、自分の気持ちも変わっちゃうんじゃない?」
「……変わるかもしれないな。だけど、だからこそ、嘘がつけない」
「うん。嘘、つけなさそう。芳三郎って」
「そうか?」
「うん。昔からそうだったよ。なんでも顔に出るし」
「それ、いいのか?」
「いいの。そういうとこ、好きだったから」

 突然の言葉に、芳三郎は息を呑んだ。
 紗江は照れるふうでもなく、ただ静かに空を見上げている。
 秋の空は高く、風が雲をゆっくりと流していた。
「なあ、紗江」
「うん?」
「心が映るってのは、いいことなのか……それとも、怖いことなのか」
「それは……人によるんじゃない?」
「おまえはどうだ」
 紗江は少しだけ考えるように視線を落とし、やがて、草の上に手を伸ばす。
 指先でりんどうの茎をなぞりながら、ぽつりと答えた。
「誰かに、自分の心を見せられるなら、それはすごく――嬉しいことだと思う。でも……」
「でも?」
「相手の心が見えると、こわくなることもあるよね。全部知ってしまったら、嫌われるかもしれないって」
 その言葉に、芳三郎は胸の奥が少しだけ痛くなるのを感じた。
 でも、それと同時に、手のひらの中でじんわりとあたたかい何かが広がるような気もしていた。
「俺は……おまえの心を、知っていたい」
「うん」
「でも、知りたいって思うぶんだけ、ちゃんと……俺のも見せなきゃいけないんだな」
「そうだね。ずるいのはだめよ」
 そう言って、紗江は笑った。
 肩が軽くふれて、芳三郎は思わず目を細める。
「じゃあ、まずは一枚、鏡を用意するところからだな」
「持ってるんでしょう? その袋に」
「いや、それはまだ修行用で……いろいろと制限があるんだ」
「ふうん。じゃあ、わたしの心は、特別すぎるってことでいい?」
「そういうことにしておく」
 小さな冗談を交わせることが、たまらなく愛おしかった。
 空気に、やわらかな沈黙が満ちる。言葉のかわりに、風がそっと髪を揺らす。
「今度さ、私の心を映してみて」
「……いいのか?」
「うん。でも、驚かないでね」
「なにが映るんだ?」
「内緒」
 そう言って、紗江は立ち上がる。
 夕暮れがすこしずつ色を濃くし、山の影が長くのびていた。
「今日は、もう帰る?」
「もうちょっとだけ、ここにいよう」
「いいよ。……あと少しだけ」
 紗江は、彼の隣に座り直した。
 ほんの少し、肩がふれ合う距離。けれどそれが、たしかなつながりだった。
 りんどうの花が、風に揺れている。
 この場所に来れば、またふたりで会える。
 そう思えることが、何よりも幸せだった。
 芳三郎は目を閉じた。風の音と、紗江の気配と、心の奥で静かに波打つもの――
 それらがすべて、自分の中に溶けていくようだった。
 言葉も、鏡もいらない。ただ、いまこの時を一緒に過ごせること。
 それが、何よりも確かな“心の形”なのだと、思えた。
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