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第四話 秋の水面
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風が、音もなく通り抜けていった。
山の稜線に沿って沈みゆく陽が、祠の前の草むらをやさしく照らしている。
りんどうの群れは少しずつ影のなかに沈み、紫の花弁が夕暮れに滲んでいく。
芳三郎は、紗江の隣に腰を下ろしていた。
ふたりのあいだには言葉がなかったが、それが不思議と心地よかった。
沈黙が、まるで言葉以上に意味を持つように、ふたりのあいだに横たわっていた。
「……こうしてると、夢みたい」
ふいに、紗江がぽつりとつぶやいた。
目を閉じたままの横顔は、どこか遠いものを見つめているようだった。
「夢、か」
芳三郎も同じように目を閉じ、ことばを反芻する。
夢のよう、というより――夢であってほしくない、と思った。
「そうかもしれん」
その一言に、紗江がゆるく笑った。
風がまたひと吹き、木々の梢を揺らす。どこからか鳥の声がして、また静けさが戻ってきた。
「ねえ、芳三郎は、夢って見たりする?」
「たまにな。最近はあまり見ないが」
「どんな夢、見るの?」
「昔はよく、うなされる夢を見てた。子どもの頃のこととか、道場で怒鳴られたときのとか」
「ふふ、道場……似合いそう」
「それ、褒めてるのか?」
「もちろん。ちょっと怖そうで、まじめで、まっすぐで」
「ほとんど悪口だぞ、それは」
「そんなことない。……だって、そういう芳三郎が好きだったんだから」
言葉に詰まりそうになって、芳三郎はわざと草をむしる。
指先に残るざらついた感触が、妙に現実的で、それが少しだけ救いになった。
「俺は、おまえと一緒にいる夢を見たことがある」
「……今じゃなくて?」
「今は夢じゃない」
紗江がこちらを見た気配がして、けれど彼は顔を向けなかった。
ただ、隣にいる温度だけを信じていたかった。
祠の裏手を伝うように、細い水音が響く。
どこかでせせらぎが流れ、岩をなめるように音を立てているのだろう。
その音が、まるでふたりの呼吸を整える拍子のように、一定のリズムで鳴っていた。
「ここの水、昔飲んだことある。すごく冷たくて、びっくりしたの覚えてる」
「俺も、手をつけたら、指がしびれるかと思った」
「……でも、おいしかった」
「ああ。山の水って、不思議だな」
「なんで?」
「冷たくて、透きとおってて、なにもないのに――満たされる感じがする」
「わかる」
紗江の声が、ほんの少しだけ近づいた。
身体の重みが、ほんのわずかに肩へと寄りかかってくる。
それを受け止めるように、芳三郎は身じろぎもしなかった。
ただ、今ここにあるぬくもりを、そっと包むようにして。
紗江の肩が、わずかに芳三郎に寄りかかっている。
重さと呼べるほどのものではない。けれど、たしかな気配だった。
どれほどの時間が流れただろうか。
せせらぎの音と、秋風のかすれる音。ふたりのあいだには、静けさが揺るぎなく続いていた。
言葉がなくても、十分だった。
それでも、言葉を交わすことは、やっぱり嬉しい。
「……昔、この祠の裏に小さな蛙がいたの、覚えてる?」
紗江がふいに言った。
「蛙?」
「うん。よくここに来てたとき、石のかげから顔を出してたの。小さくて、まんまるなやつ」
「……ああ。緑じゃなくて、茶色だったやつか」
「そう、それ。目がくりくりしてて、いつもおどおどしてた」
「おまえ、指をのばして、驚かせてただろ」
「ちょっとだけ、ね。でもすぐ逃げられた」
「蛙のほうが一枚うわてだったな」
「ふふ。……そういうこと、ちゃんと覚えててくれるんだね」
「忘れるようなことか?」
紗江はそれには答えず、小さく笑っただけだった。
その笑みに、どこかほっとするような、胸が締めつけられるようなものが混じっていた。
水音が近くで跳ねた。
小さな魚が飛び上がって、また水に戻るような、軽やかな音。
ふと、芳三郎の胸にひとつの言葉が浮かぶ。けれど、それを口にするには何かが足りなかった。
「……話すって、難しいな」
ぽつりと、つぶやくように言った。
「なにが?」
「想いを。こうして一緒にいるのに、伝えたいことが、言葉にうまくならない」
「うん。でも、わたしには、ちゃんと伝わってるよ」
紗江の声は、驚くほどやわらかかった。
目を見てそう言うでもなく、ただ、隣にいてそう言ってくれること――
それがどんな言葉よりも深く、響いた。
「……ありがとう」
小さく、それだけを返す。
紗江は笑い、草の上に手を伸ばして、落ち葉をひとつ拾った。
「風に乗ってきたんだね、これ」
掌の上の葉は、小さなもみじだった。
まだ赤くなりきらず、黄色と橙が混ざっている。
「色が、変わってるな」
「うん。でも、きれい」
紗江はそう言って、そっとそれを地面に戻した。
見つめるだけで、持ち帰らず、置いていく――まるで、ここにある時間そのものみたいに。
「明日も、来ようか」
「うん。明日も、また」
答えはそれだけで、充分だった。
また明日会えるという、ただそれだけの約束。
それが、どんな贈り物よりも愛おしく思える。
山の影がすこしずつ伸びて、祠の足元に静かに広がっていく。
風が止んだあとの静寂のなかで、ふたりの影もまた、ひとつに寄り添う。
芳三郎は横目で、紗江の瞳をそっと見た。
そこには、何の問いもなかった。ただ、見つめていた。
彼の胸にある言葉にならないものを、無理に暴こうとせず、
「わかってるよ」とも言わず、
ただ黙って、そばにいてくれるその姿に、言いようのない安らぎを覚える。
紗江のまなざしは、やさしかった。
それが、芳三郎のなかにある静けさと、不思議なほど調和していた。
「……なあ」
「なに?」
「なんでもない」
「ふふ、なによそれ」
紗江が笑う。風がまた吹き、葉が一枚、ふたりの間に舞い落ちた。
それを見て、ふたりとも笑った。
何が可笑しかったわけでもない。ただ、それが自然だった。
――言葉がなくても、心は届く。
そう思える時間が、ここにはあった。
山の稜線に沿って沈みゆく陽が、祠の前の草むらをやさしく照らしている。
りんどうの群れは少しずつ影のなかに沈み、紫の花弁が夕暮れに滲んでいく。
芳三郎は、紗江の隣に腰を下ろしていた。
ふたりのあいだには言葉がなかったが、それが不思議と心地よかった。
沈黙が、まるで言葉以上に意味を持つように、ふたりのあいだに横たわっていた。
「……こうしてると、夢みたい」
ふいに、紗江がぽつりとつぶやいた。
目を閉じたままの横顔は、どこか遠いものを見つめているようだった。
「夢、か」
芳三郎も同じように目を閉じ、ことばを反芻する。
夢のよう、というより――夢であってほしくない、と思った。
「そうかもしれん」
その一言に、紗江がゆるく笑った。
風がまたひと吹き、木々の梢を揺らす。どこからか鳥の声がして、また静けさが戻ってきた。
「ねえ、芳三郎は、夢って見たりする?」
「たまにな。最近はあまり見ないが」
「どんな夢、見るの?」
「昔はよく、うなされる夢を見てた。子どもの頃のこととか、道場で怒鳴られたときのとか」
「ふふ、道場……似合いそう」
「それ、褒めてるのか?」
「もちろん。ちょっと怖そうで、まじめで、まっすぐで」
「ほとんど悪口だぞ、それは」
「そんなことない。……だって、そういう芳三郎が好きだったんだから」
言葉に詰まりそうになって、芳三郎はわざと草をむしる。
指先に残るざらついた感触が、妙に現実的で、それが少しだけ救いになった。
「俺は、おまえと一緒にいる夢を見たことがある」
「……今じゃなくて?」
「今は夢じゃない」
紗江がこちらを見た気配がして、けれど彼は顔を向けなかった。
ただ、隣にいる温度だけを信じていたかった。
祠の裏手を伝うように、細い水音が響く。
どこかでせせらぎが流れ、岩をなめるように音を立てているのだろう。
その音が、まるでふたりの呼吸を整える拍子のように、一定のリズムで鳴っていた。
「ここの水、昔飲んだことある。すごく冷たくて、びっくりしたの覚えてる」
「俺も、手をつけたら、指がしびれるかと思った」
「……でも、おいしかった」
「ああ。山の水って、不思議だな」
「なんで?」
「冷たくて、透きとおってて、なにもないのに――満たされる感じがする」
「わかる」
紗江の声が、ほんの少しだけ近づいた。
身体の重みが、ほんのわずかに肩へと寄りかかってくる。
それを受け止めるように、芳三郎は身じろぎもしなかった。
ただ、今ここにあるぬくもりを、そっと包むようにして。
紗江の肩が、わずかに芳三郎に寄りかかっている。
重さと呼べるほどのものではない。けれど、たしかな気配だった。
どれほどの時間が流れただろうか。
せせらぎの音と、秋風のかすれる音。ふたりのあいだには、静けさが揺るぎなく続いていた。
言葉がなくても、十分だった。
それでも、言葉を交わすことは、やっぱり嬉しい。
「……昔、この祠の裏に小さな蛙がいたの、覚えてる?」
紗江がふいに言った。
「蛙?」
「うん。よくここに来てたとき、石のかげから顔を出してたの。小さくて、まんまるなやつ」
「……ああ。緑じゃなくて、茶色だったやつか」
「そう、それ。目がくりくりしてて、いつもおどおどしてた」
「おまえ、指をのばして、驚かせてただろ」
「ちょっとだけ、ね。でもすぐ逃げられた」
「蛙のほうが一枚うわてだったな」
「ふふ。……そういうこと、ちゃんと覚えててくれるんだね」
「忘れるようなことか?」
紗江はそれには答えず、小さく笑っただけだった。
その笑みに、どこかほっとするような、胸が締めつけられるようなものが混じっていた。
水音が近くで跳ねた。
小さな魚が飛び上がって、また水に戻るような、軽やかな音。
ふと、芳三郎の胸にひとつの言葉が浮かぶ。けれど、それを口にするには何かが足りなかった。
「……話すって、難しいな」
ぽつりと、つぶやくように言った。
「なにが?」
「想いを。こうして一緒にいるのに、伝えたいことが、言葉にうまくならない」
「うん。でも、わたしには、ちゃんと伝わってるよ」
紗江の声は、驚くほどやわらかかった。
目を見てそう言うでもなく、ただ、隣にいてそう言ってくれること――
それがどんな言葉よりも深く、響いた。
「……ありがとう」
小さく、それだけを返す。
紗江は笑い、草の上に手を伸ばして、落ち葉をひとつ拾った。
「風に乗ってきたんだね、これ」
掌の上の葉は、小さなもみじだった。
まだ赤くなりきらず、黄色と橙が混ざっている。
「色が、変わってるな」
「うん。でも、きれい」
紗江はそう言って、そっとそれを地面に戻した。
見つめるだけで、持ち帰らず、置いていく――まるで、ここにある時間そのものみたいに。
「明日も、来ようか」
「うん。明日も、また」
答えはそれだけで、充分だった。
また明日会えるという、ただそれだけの約束。
それが、どんな贈り物よりも愛おしく思える。
山の影がすこしずつ伸びて、祠の足元に静かに広がっていく。
風が止んだあとの静寂のなかで、ふたりの影もまた、ひとつに寄り添う。
芳三郎は横目で、紗江の瞳をそっと見た。
そこには、何の問いもなかった。ただ、見つめていた。
彼の胸にある言葉にならないものを、無理に暴こうとせず、
「わかってるよ」とも言わず、
ただ黙って、そばにいてくれるその姿に、言いようのない安らぎを覚える。
紗江のまなざしは、やさしかった。
それが、芳三郎のなかにある静けさと、不思議なほど調和していた。
「……なあ」
「なに?」
「なんでもない」
「ふふ、なによそれ」
紗江が笑う。風がまた吹き、葉が一枚、ふたりの間に舞い落ちた。
それを見て、ふたりとも笑った。
何が可笑しかったわけでもない。ただ、それが自然だった。
――言葉がなくても、心は届く。
そう思える時間が、ここにはあった。
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