〈影咒記(EIJUKI)〉外伝譚  第一篇 ― りんどうの空に――鏡師・蒼雲の若き日を描く

ukon osumi

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第五話 消える景色

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 陽が落ちかけていた。
 空の端から、少しずつ紅がにじみ、やがて青を呑み込んでいく。
 風は、昼よりも冷たさを帯びていた。けれど、それでも紗江の隣にいると、不思議と寒くは感じなかった。
 ふたりは、祠の傍らに腰を下ろしていた。
 りんどうの花はもうすっかり影の中に沈み、淡い紫が土に溶けこむように咲いている。
「……今日は、静かだね」
 紗江がぽつりとつぶやく。
 その声には、どこか輪郭のあいまいな響きがあった。
「そうだな。風の音も、小さくなった」
「うん。……山が、眠りはじめてるみたい」
 芳三郎は答えず、ただ目を閉じた。
 耳を澄ませば、遠くに鳥の羽音がかすかに聞こえる。木々の葉がわずかに揺れて、また音が消える。
 こうしている時間が、どれほど尊いか。
 ここにいることが、どれだけ奇跡のようなことか。
 ――ずっとわかっていた。
「ねえ、芳三郎」
「……なんだ?」
「もう、行かなくちゃいけないの」
 その声は、どこか遠くから届くようだった。
 思わず顔を向ける。
 紗江は、いつもと変わらぬ笑みをたたえていた。ただ、その目の奥には、ひとすじの哀しみが混じっていた。
「どうして?」
 そう問いかけたい衝動を、芳三郎は飲み込んだ。
 言葉にしたら、すべてが壊れてしまう気がした。
 代わりに、静かにうなずいた。
 紗江は微笑んだまま、視線を遠くへと移す。
 山の稜線が、朱と藍の境界を描いている。
 その先にあるものを、見るように。
「でも、会えてよかった。こうして、話せて。笑えて」
「……俺も、そう思ってる」
「ほんとに?」
「嘘をついたこと、あったか?」
「ううん、ない。でも、今日のは特別だと思って」
「特別、か」
「うん。だって、最期だから」
 その言葉は、ごく自然に落ちた。
 でも、それを聞いた瞬間、空気がほんのすこしだけ変わった。
 風が止まり、りんどうが揺れるのもやんだように思えた。
(――ああ)
 芳三郎は、ずっと気づいていた。
 わかっていた。
 それでも、それを言葉にしないでいられたから、ここに来られたのだ。
 紗江と過ごす時間を、“今”として感じられたのだ。
「……おまえの声は、前よりも静かに聞こえる」
「そうかもね」
「姿も、少し、霞んできてる」
「風が吹いてるからだよ」
 紗江はそう言って、また笑った。
 冗談のように、優しく、悲しく。
 紗江の輪郭が、少しずつ揺れていた。
 まるで空気に溶けるように、夕陽の光とともに淡くなっていく。
 それは決して突然ではなく、風が葉を揺らすのと同じくらい、自然なことのように思えた。
「……やっぱり、言ってよかった」
 紗江がふっと微笑む。
 それが最後になるのだと、芳三郎はどこかで理解していた。
 けれど、言葉は出なかった。
 何を言っても足りないと思えた。
 今この瞬間に、どんな言葉を選んでも、彼女が本当に欲しているものではない気がして。
「最期まで、忘れずにいてくれて、ありがとう」
 その声は、風の中に溶けていった。
 もう耳で聞くのではなく、胸の奥に触れるようにして、伝わってくる。
「……紗江」
 名を呼ぶ声は、喉の奥で止まった。
 呼んでしまえば、すべてが終わってしまう。
 それが怖かった。
 名前を音にしてしまえば、そこにいた人が「いなかったもの」になってしまう気がして――
 だから、彼は呼ばなかった。
 その代わりに、ただ見つめていた。
 風が吹いて、草が揺れ、りんどうの花びらがひとつ、そっと舞い上がる。
 その向こうで、紗江の姿が淡くなっていく。
 目の前にいるはずなのに、指先がもう触れられない気がしていた。
「もう、いいの。無理に、引きとめなくて」
 そう言うと、紗江はふわりと振り返った。
 ほんの一瞬だけ、彼のほうを見て、笑った。
 その笑顔は、初めて会ったときのものによく似ていた。
 夕陽が、最後の光を山の端に落とす。
 影が長くのび、祠も、草も、りんどうも、すべてが静かに沈んでいく。
 そして――
 紗江は、消えた。
 そこにいたはずの場所には、もう誰の気配もなかった。
 香りも、足音も、声の余韻もない。ただ、風だけが残っていた。
 芳三郎は、動けなかった。
 その場に、ただ立ち尽くしていた。
 手も動かさず、目も閉じず、言葉もなく。
 何かを叫ぶこともできず、ただ、彼女がいた空間を見つめていた。
(……ほんとうに、行ったんだな)
 胸の奥に、何かがすうっと抜けていく感覚があった。
 けれどそれは痛みではなく、温度を失った静けさだった。
 どれくらい、そうしていたのか。
 風の音も止んだ気がした。
 そして、ふいに足元で何かが揺れるのを感じて、彼は顔を落とす。
 草の上に、ひとつの花びらが舞い降りていた。
 りんどうの、淡い紫の花弁。
 さっきまで紗江の髪にかかっていたものと、同じ色だった。
 芳三郎はしゃがみこみ、指先でそっとそれに触れた。
 冷たい。けれど、その冷たさがなぜか、愛おしかった。
 拾い上げはしなかった。
 手のひらに包もうともしなかった。
 ただ、そこにあることを、確かめるように見つめた。
 そして、彼は立ち上がった。
 名を呼ばず、振り返らず、祠に背を向ける。
 ゆっくりと、足を一歩だけ前に出した。
 歩く先に何があるのかは、わからない。
 けれど、自分の中にある記憶と想いは、もう揺らがなかった。
 空は、すでに夜の色を帯びていた。
 けれど、遠くに光る星がひとつ、彼の行く道を照らしていた。
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