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第六話 りんどうの空に
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朝の山は、まだすこし冷たい空気に包まれていた。
鳥の声が高く、葉のあいだから差しこむ光が、露に濡れた草をきらきらと照らしている。
芳三郎は、祠の前に立っていた。
風は凪いでおり、葉擦れの音もない。ただ、空がひとすじ澄んでいた。
昨日までそこにいた面影は、もうどこにもなかった。
手を伸ばしても、声をかけても、もう返るものはない。
けれど、それでも彼はここに来た。
――確かに、彼女はここにいた。
それだけが、すべての理由だった。
祠の端に目をやると、草の間に一輪の花が咲いていた。
他のりんどうたちは夜露に重くなり、首を垂れていたが、その花だけはまだ空を見ていた。
淡い、けれど凛とした青。
紗江の瞳と、声と、笑みを思わせるような――、そんな色だった。
芳三郎は、花に手を伸ばすことなく、ただ見つめた。
手折ることは、できなかった。
ここに咲いていること自体が、なによりも意味を持っている気がした。
彼はそっと息を吐き、腰を下ろす。
夜の間に冷えた石の感触が、身体にしみる。
けれどそれが、どこか心を落ち着かせた。
この場所には、紗江とのすべてがあった。
交わした言葉、並んだ足音、繋いだ手のぬくもり。
そのひとつひとつが、風と草の香りの中に、今もまだ残っているように感じられた。
「……名前を変えることにしたよ」
誰に語るでもなく、芳三郎はぽつりと呟いた。
声は風にさらわれることもなく、静かに祠に吸い込まれていった。
「忘れないために、そうすることにした」
記憶は、時とともに薄れていく。
どんなに鮮やかだった景色も、匂いも、声も、すこしずつ輪郭を失っていく。
それが人の性(さが)であることは、知っていた。
だからこそ、忘れないために、名を変える。
新しい名のなかに、紗江と過ごした時を閉じ込める。
「……空と、花の色をもらう」
ぽつんと咲いたりんどうに目をやりながら、芳三郎は心のなかでその名をつぶやく。
“蒼雲”
まだ言い慣れないその名は、けれどどこか馴染んでいた。
胸の奥にすっと沈み、やわらかく落ち着いていく。
陽が、山の端から昇り始めていた。
森の奥に差し込む朝の光は、まだやわらかく、葉のひとつひとつを透かすように輝いている。
芳三郎は立ち上がり、肩に旅支度を背負った。
袋の口をしっかりと結び直し、袴の裾を整える。
見慣れた山道の入り口に目をやると、そこには昨夜とは違う光が満ちていた。
もう、ここに来る理由はないのかもしれない。
けれど彼は、何度でも思い返すだろう。
紗江の笑った顔、指先のしぐさ、ふとした沈黙の時間――
すべてを、胸の奥にしまって。
祠にもう一度、深く頭を下げた。
言葉はなかった。名も呼ばなかった。
ただ、静かに別れを告げた。
山を下りる足取りは、軽くはなかった。
それでも、迷いはなかった。
一歩ずつ、地を踏みしめる感触が、今の自分を確かめるようだった。
途中、草むらに揺れるりんどうの群れが、朝露に濡れていた。
紗江が好きだった色――あの青を、空もまた映していた。
どこまでも澄んで、どこまでも遠く、手が届かないほど美しかった。
(蒼雲――)
心の中で、その名をもう一度だけ繰り返す。
雲のように流れて、空のように透きとおる。
そして、どこかに彼女の面影を宿すことができる名。
「忘れないために、名を変える」
それは、芳三郎のなかで繰り返し温められてきた言葉だった。
変わらずにいたいと願えばこそ、あえて変わる。
記憶を刻むために、新しい形を与える。
「蒼雲」として生きることは、紗江とともに生き続けることだった。
木々の間から、町の屋根がちらりと見えた。
人の声はまだ遠いが、ふもとの暮らしの気配が風に乗って届いてくる。
世界は動いていた。彼が立ち止まっていた時間とは無関係に。
それでもいい。
自分だけが知っていれば、それでいい。
誰かに語らなくても、この想いは、ここにある。
彼は立ち止まり、もう一度だけ山の方を振り返った。
山頂近く、祠のあるあたりはもう陽に包まれていた。
あの場所に、ひとひらの青い記憶が、今も咲いている気がした。
そして、彼は再び歩き出す。
風が吹いた。
冷たくはない。やさしく、背を押すような風だった。
空を見上げる。
雲ひとつない蒼。
その空の下、ひとりの若者が名を変え、新たな一歩を踏み出していた。
元禄元年九月二十六日。
この物語を最後まで読んでくれて、ありがとう。
あなたの時間に、少しでも灯がともったなら嬉しいです。
完結しました。
――ありがとう。
蒼雲の次の物語が、あなたを待っています。
黄泉灯籠迷図(よみとうろうめいず) ―― 灯籠の声を聴く者の物語へ。
鳥の声が高く、葉のあいだから差しこむ光が、露に濡れた草をきらきらと照らしている。
芳三郎は、祠の前に立っていた。
風は凪いでおり、葉擦れの音もない。ただ、空がひとすじ澄んでいた。
昨日までそこにいた面影は、もうどこにもなかった。
手を伸ばしても、声をかけても、もう返るものはない。
けれど、それでも彼はここに来た。
――確かに、彼女はここにいた。
それだけが、すべての理由だった。
祠の端に目をやると、草の間に一輪の花が咲いていた。
他のりんどうたちは夜露に重くなり、首を垂れていたが、その花だけはまだ空を見ていた。
淡い、けれど凛とした青。
紗江の瞳と、声と、笑みを思わせるような――、そんな色だった。
芳三郎は、花に手を伸ばすことなく、ただ見つめた。
手折ることは、できなかった。
ここに咲いていること自体が、なによりも意味を持っている気がした。
彼はそっと息を吐き、腰を下ろす。
夜の間に冷えた石の感触が、身体にしみる。
けれどそれが、どこか心を落ち着かせた。
この場所には、紗江とのすべてがあった。
交わした言葉、並んだ足音、繋いだ手のぬくもり。
そのひとつひとつが、風と草の香りの中に、今もまだ残っているように感じられた。
「……名前を変えることにしたよ」
誰に語るでもなく、芳三郎はぽつりと呟いた。
声は風にさらわれることもなく、静かに祠に吸い込まれていった。
「忘れないために、そうすることにした」
記憶は、時とともに薄れていく。
どんなに鮮やかだった景色も、匂いも、声も、すこしずつ輪郭を失っていく。
それが人の性(さが)であることは、知っていた。
だからこそ、忘れないために、名を変える。
新しい名のなかに、紗江と過ごした時を閉じ込める。
「……空と、花の色をもらう」
ぽつんと咲いたりんどうに目をやりながら、芳三郎は心のなかでその名をつぶやく。
“蒼雲”
まだ言い慣れないその名は、けれどどこか馴染んでいた。
胸の奥にすっと沈み、やわらかく落ち着いていく。
陽が、山の端から昇り始めていた。
森の奥に差し込む朝の光は、まだやわらかく、葉のひとつひとつを透かすように輝いている。
芳三郎は立ち上がり、肩に旅支度を背負った。
袋の口をしっかりと結び直し、袴の裾を整える。
見慣れた山道の入り口に目をやると、そこには昨夜とは違う光が満ちていた。
もう、ここに来る理由はないのかもしれない。
けれど彼は、何度でも思い返すだろう。
紗江の笑った顔、指先のしぐさ、ふとした沈黙の時間――
すべてを、胸の奥にしまって。
祠にもう一度、深く頭を下げた。
言葉はなかった。名も呼ばなかった。
ただ、静かに別れを告げた。
山を下りる足取りは、軽くはなかった。
それでも、迷いはなかった。
一歩ずつ、地を踏みしめる感触が、今の自分を確かめるようだった。
途中、草むらに揺れるりんどうの群れが、朝露に濡れていた。
紗江が好きだった色――あの青を、空もまた映していた。
どこまでも澄んで、どこまでも遠く、手が届かないほど美しかった。
(蒼雲――)
心の中で、その名をもう一度だけ繰り返す。
雲のように流れて、空のように透きとおる。
そして、どこかに彼女の面影を宿すことができる名。
「忘れないために、名を変える」
それは、芳三郎のなかで繰り返し温められてきた言葉だった。
変わらずにいたいと願えばこそ、あえて変わる。
記憶を刻むために、新しい形を与える。
「蒼雲」として生きることは、紗江とともに生き続けることだった。
木々の間から、町の屋根がちらりと見えた。
人の声はまだ遠いが、ふもとの暮らしの気配が風に乗って届いてくる。
世界は動いていた。彼が立ち止まっていた時間とは無関係に。
それでもいい。
自分だけが知っていれば、それでいい。
誰かに語らなくても、この想いは、ここにある。
彼は立ち止まり、もう一度だけ山の方を振り返った。
山頂近く、祠のあるあたりはもう陽に包まれていた。
あの場所に、ひとひらの青い記憶が、今も咲いている気がした。
そして、彼は再び歩き出す。
風が吹いた。
冷たくはない。やさしく、背を押すような風だった。
空を見上げる。
雲ひとつない蒼。
その空の下、ひとりの若者が名を変え、新たな一歩を踏み出していた。
元禄元年九月二十六日。
この物語を最後まで読んでくれて、ありがとう。
あなたの時間に、少しでも灯がともったなら嬉しいです。
完結しました。
――ありがとう。
蒼雲の次の物語が、あなたを待っています。
黄泉灯籠迷図(よみとうろうめいず) ―― 灯籠の声を聴く者の物語へ。
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