ストロベリームーン・セレナーデ

ukon osumi

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第1話「波音のむこうに」

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朝のワイキキには、ざらりとした風の匂いがある。潮と砂、それに熱気を孕んだ街の鼓動が、いくつもの層になって鼻の奥に残る。ヨウジは毎朝、その匂いの中に立っていた。
コーディネート会社《LOCAL LINK》のオフィスは、アラワイ運河沿いの古びたテナントビルの一角にある。日本から来る撮影班を受け入れ、ロケ地を手配し、通訳や送迎、現地交渉まで一手に引き受ける。華やかな画面の外側で、現場が止まらないように支える仕事だ。
ノートPCの画面には今日の段取りが詰め込まれていた。午前はカフェでのインタビュー収録、昼は浜辺のプロモーションカット、午後は政府機関との会合。ひとつでも狂えば、連鎖で崩れる。
ヨウジは冷えかけたアイスコーヒーを口に運び、スケジュールを指でなぞった。
「はい、これで通るはず……。イサム、今日の流れ、もう一回確認して」
背後から軽い返事が返る。
「あいよー」
イサムはヨウジの部下だった。地元の大学を出たばかりの二十代。日焼けした肌にタンクトップ、髪は海風に崩れない程度にまとめている。この島では珍しくない格好なのに、彼がそこにいるだけで空気が少し明るくなる。フレンドリーで、リズム感があって、憎めない。
「午前はカフェ取材。スタジオ撮影はキャンセルで、ラグーンでスチール押さえる。カメラマン、午後からって言ってたけど?」
「そこは俺が調整する。先方には連絡済み。あとは君が現場を押さえといてくれればいい」
「へーい、了解でーす」
ヨウジはうなずき、画面に目を戻した。エアコンの効きが甘い。シャツの背にうっすら汗がにじむ。日本の夏のような湿気はないが、日差しが容赦なく体力を削る。六月のワイキキは観光客で溢れ、同時に現地業者にとっては戦場だった。
それでも、嫌いではなかった。雑然とした情報をまとめ、段取りを組み、現場が滑らかに回りはじめる瞬間には、静かな快感がある。自分は表に立つタイプじゃない。派手さもない。調整役に徹するほうが性に合っている。
恋愛に関しては、もっと早い段階で諦めがついていた。モテる種類ではない。二十代の前半には、もう自覚していた。だから、仕事に没頭できるのは、むしろ救いだった。
ふと、昔かけられた言葉が蘇る。
「ヨウジさん、最近ちょっと目が死んでますよ」
言ったのは、ようこだった。
名前を思い浮かべた瞬間、胸の奥がわずかにざらつく。ようこは客室乗務員だった。かつて恋人だった、と自分では思っている。けれど実際は、曖昧だ。終わったとも、終わっていないとも言い切れない。連絡は減った。なのに、彼女はいま、イサムと続いている。少なくとも表面上は、そういうことになっている。
気まずさと名残と、どうしようもない未練。その全部を内ポケットに押し込めて、ヨウジは仕事に戻るしかなかった。
立ち上がった瞬間、スマホが震えた。《日本撮影隊:プロデューサーYAMAGATA》。こういう着信は、息を整える間をくれない。
「はい、LOCAL LINKのヨウジです……ええ、承知しました。急な変更でも現地は対応可能ですので……はい、はい、大丈夫です」
通話を終える頃には、朝の光がビルのガラスに反射しはじめていた。ヨウジは袖をまくり、イサムに声をかける。
「俺、先に現場行くから。遅れないように」
「了解っす。あ、そういえばさ。今日、ようこさん来るって言ってたよ?」
言葉が一瞬、止まった。
「……なんで?」
「知らないけど。撮影隊に便乗して、午後に来るらしいよ。言ってなかった?」
ヨウジは首を振った。
「初耳だ」
「おー、気まずっ。でも、また会えるじゃん。よかったじゃん、ヨウジさん的には」
「……よくは、ないよ」
口にした瞬間、自分で嘘だとわかった。よくないはずがない。だが、その「よさ」が何を意味するのか、考えるのが怖かった。
午後の撮影は、カピオラニ公園の東端にあるクイーンズ・サーフ・ビーチで行われた。白砂と緑が交わる静かな一角で、観光客の波が届きにくい。素材撮りには最適だった。
ヨウジはテントの設営を終え、照明の影の角度をチェックする。日差しは高く影は短い。海風は穏やかで、音声も通りやすい。三脚を運びながら、現場の状況を頭の中で組み直す。
「あとはカメラマン次第か……」
つぶやいたとき、視界の端に見覚えのある輪郭が入った。
ようこだった。
白いシャツに薄手のパンツ。観光客に溶けるほどシンプルで、動きやすい服装。髪はひとつに結ばれ、歩幅はゆっくりだった。目が合うと、彼女は軽く手を挙げて近づいてくる。
「ヨウジさん、お疲れさま」
「ようこさん……来るって、聞いてなかった」
「タイミングが合っただけ。空席があって、便に便乗できたの。撮影の関係者ってわけじゃないけど、ちょっと顔を出してみようかなって思って」
落ち着いた声だった。距離を保とうとする気配が、言葉の端ににじむ。ヨウジは返事をしかけて、少し間を置いた。選ぶ言葉を間違えれば、現場の空気が変わる。仕事の場で、私情は一番厄介だ。
「これから本番だよ。天気の具合で順番が変わるかもしれない」
「うん。ちょっとだけ、歩いてきてもいい?」
「もちろん。ロープの中には入らないようにしてくれれば」
「了解。邪魔しないようにする」
ようこは軽く笑い、ビーチの端へと歩き出した。砂の白さが足元に映え、遠くで打ち寄せる波の音が控えめに響く。
ヨウジは機材に視線を戻しながらも、意識の一部がようこのほうに残っていた。海を見て何かを探すような横顔。歩き方の癖。そういう細部が、記憶の引き出しを勝手に開ける。
しばらくして、ようこが戻ってきた。波に濡れた砂の上をゆっくり歩き、ヨウジのそばで立ち止まる。
「昨夜、ホテルのベランダから月を見たんだ。ちょっと変な感じだった」
「変?」
「うん。いつもより南にあって、思ったより高い位置にあった。見慣れない角度で……違和感があった」
「ここは日本より緯度が低いから、見え方が変わる」
「そうなんだね。空って、いつも同じだと思ってた」
言葉の奥に、別の話題が隠れている気がした。ようこが何を感じているのか、どこまで言うつもりなのか。ヨウジにはまだ読めない。
そのとき、スタッフの声が飛んだ。
「ヨウジさん、照明の位置、調整入りまーす!」
「了解。すぐ行く」
ヨウジはようこに向き直る。
「ここ、機材の動線がある。少し後ろに下がっていてくれると助かる」
「わかった。木陰にでも座ってるね」
ようこは手を振り、芝生のほうへ歩いていった。背中を見送りながら、ヨウジは現場へ戻る。モデルたちは立ち位置を確認し、カメラマンは構図を覗き込んでいる。
風が少し強くなり始め、遠くに午後の雲がうっすら立ち上がっていた。
ヨウジの胸の奥にも、同じように、小さな雲が生まれていた。まだ形にならない、けれど確かにある違和感が、波の音と一緒に残っていた。
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