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第2話「すれ違いのフライト」
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午前の撮影が一段落し、ヨウジはホテル近くのカフェテラスで短いミーティングを終えた。紙コップのコーヒーはぬるくなり、氷の溶けた水だけがやけに冷たい。ワイキキの空は明るく、雲は白く途切れ、潮風は乾いていた。歩道沿いのプルメリアが淡い花を落とし、観光客の子どもがそれを拾い上げて母親に渡している。
平和な景色のはずなのに、ヨウジの内側には掴みきれない疲れがあった。体ではなく、心のほうに沈む疲れだ。段取りは順調だった。機材も人員も揃い、ロケ場所の交渉も問題ない。それでも、胸の奥に曖昧な焦燥が残っている。
理由は分かっていた。
ようこが来ている。イサムもいる。
イサムは現地採用の社員として何年もこの島に住みついている。サーフィンと夜の遊びに夢中で、仕事にはムラがある。けれど社交性は抜群で、気づけば顔が利く範囲を広げてきた。「愛されキャラだな」と言われるのも納得できる。問題は、その軽さが時に責任の輪郭をぼかすことだった。
そして、そのイサムとようこが、同じホテルにいる。
ヨウジは砂浜を踏みしめながら、ダイヤモンドヘッドのほうを見た。風は背中から吹き、シャツの裾が軽くはためく。考えないようにしても、頭は勝手に結びつけてしまう。
ようこは、ただの同行者だ。撮影の関係者ではない。そういう建前はある。だが昨日、現場で交わした短い会話の中に、どこか割り切れないものがあった。距離を取ろうとしているのに、わざわざ「顔を出した」と言う。その矛盾が、ヨウジには引っかかっていた。
スマホが震えた。イサムからのメッセージだった。
《チェックイン完了。午後はのんびりするわー。夜、飲みに行こうぜ?》
いつも通りの軽い文面。ヨウジは画面を眺めたまま、すぐには返信しなかった。指を動かせば、今の自分が何を考えているか、向こうに伝わってしまう気がした。
夕方には日の入りに合わせたカットが控えている。ロケバスの手配も済んでいる。やるべき仕事は山ほどある。なのに、ヨウジの足は海ではなく街側へ向きはじめていた。
ようこが滞在しているホテルの名前は、チェックインリストの控えで知っていた。見ようと思って見たわけじゃない。仕事上、目に入る。だから、その方向へ歩くのも、ただの確認だと言い訳が立つ。そう自分に言い聞かせながら、ヨウジはカラカウア通りを一本外れた通りへ入った。
ホテルの前に差しかかると、ロビーのガラスが外の光を淡く返していた。出入りする観光客はいるが、撮影班の動線とは少し離れている。ヨウジは立ち止まり、何をするでもなく、その入口を見た。
何を確認したいのか。何を聞きたいのか。
答えはない。ただ、昨日のようこの沈黙が、頭の中で小さく音を立てている。終わらせようとしている気配。誰かと並んで歩いている顔ではない、あの張りつめた静けさ。
交差点を渡ろうとしたとき、反対側の歩道に見慣れた柄が揺れた。パイナップル柄のシャツ。ビーサン。首からスタッフバッジ。イサムだった。手には冷えたペットボトル。
イサムも気づいたようで、軽く手を挙げて近づいてくる。
「お疲れっす。ヨウジさん、休憩?」
「下見が一段落したところだ。そっちは?」
「次の搬入までちょい空くんで、冷たいの買いに出てました」
ペットボトルを軽く振って笑う。その笑顔はいつも通りで、だからこそヨウジの胸に微かな異物感が残った。ヨウジは自分でも驚くほど自然に口を開いていた。
「ようこさん、今どこにいるか知ってるか?」
イサムは一瞬目を瞬かせてから、肩をすくめる。
「うーん。昼前に一回すれ違ったけど、そのあと別行動っすね。たぶんホテル戻ってると思うけど」
その言い方には「気にしてないよ」が混ざっていた。悪気はない。ただ、軽い。その軽さが、ようこの静けさと噛み合わない。
「今朝、現場で顔合わせたとき、疲れてるように見えた」
「マジっすか? 俺そのとき別件で、会ってないっす」
イサムは笑いながら付け足した。
「まあ、ここ来ると無口になるんすよね、ようこさん。暑さのせいかな。俺、あんまり追いかけないようにしてて」
追いかけないようにしている。それは優しさにも聞こえるし、逃げにも聞こえる。ヨウジは視線を落とした。口の中に、言うべきでない言葉が溜まっていく。それでも、止められなかった。
「お前……彼女と、ちゃんと向き合ってるか?」
イサムは表情を崩さないまま、ほんの一瞬だけ黙った。次に出てきた声は、軽さを保ったまま、どこかだけ乾いていた。
「向き合うって、難しいっすよね。聞いたって、答えてくれるとは限らないし」
「でも、聞くべきだろ」
「うん。わかってるつもりっす。だけど、そればっか集中すると、今の生活とか全部崩れる気がして。俺、こう見えて結構ギリギリなんすよ。色々と」
冗談めかして笑う。けれど、その笑いの奥が空っぽに見えた。ヨウジはそれ以上言わなかった。言えば、現場の人間関係が崩れる。仕事が崩れる。何より、ようこが望んでいない形で、彼女の名前が傷つく。
イサムは時計を見て、軽く手を振る。
「じゃ、搬入戻りますね。夕方のロケ、また連絡くださーい」
人波に紛れていく背中を見送ってから、ヨウジはホテルの正面に目を戻した。ガラス張りのロビーに、ようこの姿は見えない。
自分はなぜここに立っているのか。何を知ろうとしているのか。問いは答えを持たないまま残る。けれど一つだけ、はっきりしている感覚があった。
ようこは、何かを抱えている。しかも、それはイサムの軽さではすくい上げられない種類のものだ。
スマホが震えた。撮影班からの連絡だった。ヨウジは短く返事を打ち、歩き出す。海のほうから夕方の風が吹き始めていた。波の音は遠いのに、胸の奥だけが妙にざわついていた。
平和な景色のはずなのに、ヨウジの内側には掴みきれない疲れがあった。体ではなく、心のほうに沈む疲れだ。段取りは順調だった。機材も人員も揃い、ロケ場所の交渉も問題ない。それでも、胸の奥に曖昧な焦燥が残っている。
理由は分かっていた。
ようこが来ている。イサムもいる。
イサムは現地採用の社員として何年もこの島に住みついている。サーフィンと夜の遊びに夢中で、仕事にはムラがある。けれど社交性は抜群で、気づけば顔が利く範囲を広げてきた。「愛されキャラだな」と言われるのも納得できる。問題は、その軽さが時に責任の輪郭をぼかすことだった。
そして、そのイサムとようこが、同じホテルにいる。
ヨウジは砂浜を踏みしめながら、ダイヤモンドヘッドのほうを見た。風は背中から吹き、シャツの裾が軽くはためく。考えないようにしても、頭は勝手に結びつけてしまう。
ようこは、ただの同行者だ。撮影の関係者ではない。そういう建前はある。だが昨日、現場で交わした短い会話の中に、どこか割り切れないものがあった。距離を取ろうとしているのに、わざわざ「顔を出した」と言う。その矛盾が、ヨウジには引っかかっていた。
スマホが震えた。イサムからのメッセージだった。
《チェックイン完了。午後はのんびりするわー。夜、飲みに行こうぜ?》
いつも通りの軽い文面。ヨウジは画面を眺めたまま、すぐには返信しなかった。指を動かせば、今の自分が何を考えているか、向こうに伝わってしまう気がした。
夕方には日の入りに合わせたカットが控えている。ロケバスの手配も済んでいる。やるべき仕事は山ほどある。なのに、ヨウジの足は海ではなく街側へ向きはじめていた。
ようこが滞在しているホテルの名前は、チェックインリストの控えで知っていた。見ようと思って見たわけじゃない。仕事上、目に入る。だから、その方向へ歩くのも、ただの確認だと言い訳が立つ。そう自分に言い聞かせながら、ヨウジはカラカウア通りを一本外れた通りへ入った。
ホテルの前に差しかかると、ロビーのガラスが外の光を淡く返していた。出入りする観光客はいるが、撮影班の動線とは少し離れている。ヨウジは立ち止まり、何をするでもなく、その入口を見た。
何を確認したいのか。何を聞きたいのか。
答えはない。ただ、昨日のようこの沈黙が、頭の中で小さく音を立てている。終わらせようとしている気配。誰かと並んで歩いている顔ではない、あの張りつめた静けさ。
交差点を渡ろうとしたとき、反対側の歩道に見慣れた柄が揺れた。パイナップル柄のシャツ。ビーサン。首からスタッフバッジ。イサムだった。手には冷えたペットボトル。
イサムも気づいたようで、軽く手を挙げて近づいてくる。
「お疲れっす。ヨウジさん、休憩?」
「下見が一段落したところだ。そっちは?」
「次の搬入までちょい空くんで、冷たいの買いに出てました」
ペットボトルを軽く振って笑う。その笑顔はいつも通りで、だからこそヨウジの胸に微かな異物感が残った。ヨウジは自分でも驚くほど自然に口を開いていた。
「ようこさん、今どこにいるか知ってるか?」
イサムは一瞬目を瞬かせてから、肩をすくめる。
「うーん。昼前に一回すれ違ったけど、そのあと別行動っすね。たぶんホテル戻ってると思うけど」
その言い方には「気にしてないよ」が混ざっていた。悪気はない。ただ、軽い。その軽さが、ようこの静けさと噛み合わない。
「今朝、現場で顔合わせたとき、疲れてるように見えた」
「マジっすか? 俺そのとき別件で、会ってないっす」
イサムは笑いながら付け足した。
「まあ、ここ来ると無口になるんすよね、ようこさん。暑さのせいかな。俺、あんまり追いかけないようにしてて」
追いかけないようにしている。それは優しさにも聞こえるし、逃げにも聞こえる。ヨウジは視線を落とした。口の中に、言うべきでない言葉が溜まっていく。それでも、止められなかった。
「お前……彼女と、ちゃんと向き合ってるか?」
イサムは表情を崩さないまま、ほんの一瞬だけ黙った。次に出てきた声は、軽さを保ったまま、どこかだけ乾いていた。
「向き合うって、難しいっすよね。聞いたって、答えてくれるとは限らないし」
「でも、聞くべきだろ」
「うん。わかってるつもりっす。だけど、そればっか集中すると、今の生活とか全部崩れる気がして。俺、こう見えて結構ギリギリなんすよ。色々と」
冗談めかして笑う。けれど、その笑いの奥が空っぽに見えた。ヨウジはそれ以上言わなかった。言えば、現場の人間関係が崩れる。仕事が崩れる。何より、ようこが望んでいない形で、彼女の名前が傷つく。
イサムは時計を見て、軽く手を振る。
「じゃ、搬入戻りますね。夕方のロケ、また連絡くださーい」
人波に紛れていく背中を見送ってから、ヨウジはホテルの正面に目を戻した。ガラス張りのロビーに、ようこの姿は見えない。
自分はなぜここに立っているのか。何を知ろうとしているのか。問いは答えを持たないまま残る。けれど一つだけ、はっきりしている感覚があった。
ようこは、何かを抱えている。しかも、それはイサムの軽さではすくい上げられない種類のものだ。
スマホが震えた。撮影班からの連絡だった。ヨウジは短く返事を打ち、歩き出す。海のほうから夕方の風が吹き始めていた。波の音は遠いのに、胸の奥だけが妙にざわついていた。
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