ストロベリームーン・セレナーデ

ukon osumi

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第16話「終わりの気配」

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 波の音だけが、静かに世界を埋めていた。
ワイキキの夜は、昼の喧騒とはまるで別の顔を見せる。
観光客の足もまばらになった海辺には、星のように点在する光が、海面を揺らしていた。
遠くで風が椰子の葉を鳴らし、砂に残る足跡の列もやがて潮に溶けていく。
 ヨウジは、ようこと並んでその砂浜を歩いていた。
 並んで歩いているというより、同じ方向に歩いている――それだけのことのようでもあった。
 言葉はなかった。
 だが、今夜のふたりには、それでも十分だった。
 事件が起きてから、時間が止まったような日々が続いた。
 その中で、ようことの距離もまた、言葉にできない変化を繰り返してきた。
 そして今、こうして夜の浜辺を一緒に歩いていることが、なによりの証拠だった。
 ヨウジは、月のない空を見上げた。
 真っ黒な天蓋の奥に、星々が静かに瞬いている。
 「……この事件、たぶんもうすぐ終わる気がする」
 ようこの声が、隣でそっと落ちた。
 波音の向こうからやってきて、胸の中にそのまま沈んでいくような声だった。
 ヨウジは、彼女の方を見た。
 ようこは、遠くの海を見つめたままだった。
 「でも、終わったらどうなるんだろうって……今は、それがこわいの」
 それは、ため息ではなかった。
 問いかけでもなかった。
 ただ、自分の中から湧き上がった思いを、そのまま預けるように口にした言葉だった。
 ヨウジは、すぐには返事をしなかった。
 その気持ちが、よくわかったからだ。
 事件が終われば、現場は解散する。
 撮影は続くかもしれないが、日常に戻る者、仕事に戻る者、それぞれがまた別の生活に散っていく。
 ようこも、きっと――
 いや、考えるのはやめた。
 それを考えると、なにかが締めつけられるようだった。
 「……俺も、そんな気がしてる」
 ヨウジはそう答えた。
 「事件が終わるのは、もうすぐかもしれない。けど……」
 彼は、浜辺に打ち寄せる波を見つめた。
 砂がゆっくりとさらわれ、また形を変えて戻ってくる。
 「終わったあとに、何が残るのかは……まだ、俺にもわからない」
 ようこが、ほんの少しだけこちらを向いた。
 その目は、驚くほど静かだった。
 不安も、迷いも、その奥にあるのに、表情だけは穏やかだった。
 「サリーさんが死んで、いろんなことが壊れたけど、同時に……はじめて見えたものもあるの」
 「たとえば?」
 「人の気持ちって、ほんとに複雑なんだなってこと。
 亮二さんも、葵さんも、……たぶんきっと、サリーさんのことを憎んでたんじゃなくて、ただ……わかってほしかっただけなのかもって」
 ようこの声は、かすかに揺れていた。
 「でも、それが叶わなかったとき、どうしても誰かを傷つけたくなる。
 その結果が……こんなふうに、誰かの命を奪うことにつながるなんて……」
 ヨウジは、その言葉をただ受け止めた。
 ようこは、事件の核心に触れかけている。
 それと同時に、自分自身のなかにも、整理のつかない感情を抱えている。
 イサムとの関係。
 自分との距離。
 事件の真相と、それを見てしまったこと。
 どれもが、彼女の心を波のように揺らしている。
 「怖いんだ。終わるのが」
 ようこが、もう一度つぶやいた。
 「事件が終わったら、私たち、どうなるんだろうって」
 その“私たち”に含まれていた意味を、ヨウジは誤解しなかった。
 だが、それに答えられる言葉は、やはり見つからなかった。
 それほどまでに、この“非日常”のなかでふたりが共有してきた時間は、輪郭のないものだった。
 だから、ヨウジはただ、そっと頷いた。
 そして、そっとひとことだけ、言葉を落とした。
 「終わってほしいけど、……終わってほしくないな」
 ようこが、うっすらと微笑んだように見えた。
 それは、夜の浜辺の闇に溶けるように、消えていった。
 砂浜を離れて、ふたりは静かに歩き出した。
 舗装された小径をたどると、ビーチ沿いのベンチが並ぶ公園が見えてきた。
 明るすぎない照明の下、街の音がうっすらと届く。
 ようこがひとつ、長い息を吐いた。
 「……いま思えば、あの人たちの目って、どこか似てたのかもしれない」
 「亮二と……葵?」
 「うん。どこか、誰かを見ているようで、誰も見ていなかった。
 自分の想いに囚われてる感じだった」
 ヨウジはその言葉に、思いあたるものがあった。
 あの日、控室の端で香水の瓶を見つめていた葵の表情。
 あれは“持ち主を想っている”顔ではなかった。
 まるで、その香りを通して自分が“なにか”に近づこうとしているかのようだった。
 「亮二も、自分の話ばかりしてたよな。撮影のプレッシャーとか、演出家との確執とか。
 サリーの話は、ほとんどしなかった」
 「愛してたって、言ってたけどね」
 「それも、自分の“所有”みたいな言い方だった。
 手に入れた、あるいは、失いたくなかった――そんな類いの」
 ヨウジの声が、少し低くなった。
 ようこは静かに頷く。
 「サリーさんが、そんなふたりの“対象”にされてたとしたら、あまりにも孤独だったかも」
 「……たぶん、そうだな」
 ヨウジは、今この夜が少し怖くなっていた。
 事件の全体像――人間関係、嫉妬、欲望、そのすべてが、うす暗いこの空気の中に浮かび上がってくる気がして。
 ふと、彼の頭に浮かんだのは、先日見返した照明落下事故の記録だった。
 テントの影に映ったわずかな“誰か”のシルエット。
 角度的に顔は確認できなかったが、細身の体型に見えたその姿が、誰に重なるかを、もうヨウジは考えまいとしていた。
 確証がない。
 でも、“偶然”というには、あまりに重なりすぎている。
 「ようこ」
 「ん?」
 「仮に、サリーが殺された理由が“恋”だとしたら――
 たぶんそれは、亮二や葵の中で歪んでいた“感情”が原因だったんだろう」
 「……うん」
 「でも、君が狙われた理由は、それとは違う」
 「え?」
 「君は、“見た”からだ。
 誰かにとって都合の悪いものを、見て、覚えている。
 それだけで十分、理由になる」
 ようこは立ち止まり、ヨウジを見た。
 その瞳は、驚きと、わずかな覚悟をたたえていた。
 「私、やっぱり巻き込まれてたんだね」
 「……そうだと思う」
 「でも、逃げなかったよ」
 「知ってる」
 その一言に、ようこはふっと笑った。
 笑ったというより、張りつめたものがほどけたようだった。
 「もし事件が終わったとしても、そのあとも、たぶん私は平気。
 きっと、どこかに戻る場所があるなら、怖くないと思う」
 「戻る場所?」
 「……ううん。違うな。立てる場所かな」
 ようこはそう言って、わずかに歩を進めた。
 その背を見ながら、ヨウジは何かが変わる瞬間にいることを実感していた。
 事件の終わりは、たぶんすぐそこまで来ている。
 そしてそれが、ようこと自分の関係の“始まり”であってほしいと、どこかで思っていた。
 けれど、現実は甘くはない。
 証拠が必要だ。動機が要る。
 警察は動いてはいるが、核心にはまだ手が届いていない。
 その核心を見抜くには、まだ何かが足りない。
 「ヨウジさん」
 ようこが振り返る。
 「明日、もう一度、最初から全部洗いなおしてみない?
 証言も、映像も、私が話したことも」
 「……ああ」
 「何か、きっと見えてくる気がする。
 この“終わり”の前に、ちゃんと真実にたどり着きたいの」
 その言葉には、恐れよりも、前を向く意志があった。
 ヨウジは頷いた。
 ようこが“誰かの影”から抜け出し、自分の足で立とうとしていることを、今、確かに感じていた。
 遠くの波が、静かに満ちてきていた。
 そして、星のない空の彼方から、微かに白む気配があった。
 終わりが近い。
 でも、それは“はじまり”と背中合わせなのかもしれない。
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