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第1話「カラスの雛」
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登校の途中、尚吾はふと足を止めた。舗道に沿って並ぶ生け垣の陰、そのすぐ足元から、かすかな声がした。
ピイ――。
それは地面の、ごく近くから鳴いていた。
「……鳴き声?」
しゃがみこんで、慎重に目を凝らす。舗道とブロック塀の隙間に、黒くて小さな、丸まった羽毛の塊があった。弱々しいその動き。尚吾は思わず息を呑んだ。
「カラスの雛……?」
つややかな黒い羽根に包まれた、まだ飛ぶこともできなさそうな幼鳥。瞬きをするように小さく目を動かし、また「ピイ」と鳴いた。カラスがこんな声を出すことを、尚吾は初めて知った。
周囲を見渡す。どこかで親鳥が様子をうかがっているかもしれない。だが、気配はなかった。
「……落ちたのか?」
風のせいか、巣が不安定だったのか。とにかく、こんなところに放っておけば猫にやられるか、踏まれてしまうかだ。
尚吾は制服のポケットからハンカチを取り出し、そっと雛の下に差し入れた。ふわりと羽が動き、小さな体がハンカチに包まれる。軽い。こんなに軽い命だったのか。
立ち上がって見上げると、近くの街路樹の枝に、不自然な膨らみがあった。枝の間に積まれた枝葉――カラスの巣だ。
「高いな……」
少なく見積もっても三メートル。木登りなんて何年ぶりだろう。試しに塀に手をかけかけて、尚吾は一度ためらった。
「おーい、何やってんの?」
明るい声が背後から響いた。
振り返らなくても、その声の主はわかる。
「……瑠璃か」
千草瑠璃は、尚吾の横に並び、手にしていた通学バッグを肩にかけ直した。
「何、また小動物保護活動?」
「違うって。カラスの雛、落ちてた」
尚吾はハンカチを少し開いて、雛を見せた。瑠璃の表情が和らぐ。
「……かわいいじゃん。カラスだけど」
「なあ、巣に戻してやりたいんだけど、届かなくて」
「木登る?」
「無理だって。制服破れたら、母さんにどやされる」
「じゃあ、私がやる。支えて」
そう言って、瑠璃はすでに塀の上に片足をかけていた。躊躇がない。尚吾が口を開く前に、スカートの裾を押さえながら、木の幹に手を伸ばしてよじ登っていく。
「なぁ、いいって無理すんなよ!」
「はいはい、止めないで。これくらいできるから」
尚吾は半ば諦め、彼女の足元を支えるように見守った。スカートがはだけないよう慎重に、瑠璃はしっかりとした手つきで枝をつかみ、巣のあるあたりまで近づいた。
「ここかな……よし、入れるよ?」
尚吾がうなずくと、瑠璃はハンカチごと巣の中へ雛を戻した。その瞬間、枝の奥でガサガサと何かが動いた。カラスの親鳥が戻ってきたのかもしれない。
「……帰ってきたみたいだね」
「うん。ありがとな」
瑠璃がゆっくりと木を降りてくると、尚吾はその手を取って支えた。ふたりの指が一瞬、重なったまま動かなかった。
「……なんか、静かだね」
瑠璃がつぶやくように言った。
尚吾は辺りを見渡す。
確かにそうだった。住宅街の朝は、もっと雑音にあふれているはずなのに――通勤の車、鳥のさえずり、遠くの学校から聞こえるチャイム。それらがすべて、薄い膜の向こうにあるような感覚。
「音が……ない」
「このへんだけ変なんじゃない?」
「雛のせい……とか、ないよな」
尚吾の冗談に、瑠璃がくすりと笑った。その笑みを見て、尚吾も少しだけ肩の力を抜いた。
「でも……なんか、始まった気がする」
「え?」
「いや……なんでもない」
尚吾は首を振りながら、木の上をもう一度見上げた。風が吹き、枝がわずかに揺れる。けれど、それは彼の記憶にも、言葉にも、残らない予感だった。
その夜、帰宅した尚吾が夕食の席で何気なく話すと、母の陽子は味噌汁を口に運びながらぽつりと言った。
「今日、カラスの声が妙に静かだったわね」
父の達彦も、新聞を読みながら眉をひそめる。
「……なんか変な日だったな」
尚吾は笑って誤魔化したが、心のどこかに、妙な静けさだけが残っていた。
翌朝、尚吾は少し早めに家を出た。いつもより十分だけ前倒しにしたのは、あの雛のことが気になったからだった。
昨日見つけた場所に戻ると、街路樹の枝にある巣はそのままで、近くに黒い羽が一枚落ちていた。空を見上げると、親鳥らしきカラスが電線の上からこちらを見下ろしている。もう一羽が巣の中に降りたようだった。
雛は、無事に戻れたのだろうか――いや、あれからどうなったのかを尚吾が知る術はない。それでも、不思議と心は落ち着いていた。小さな命が、また世界に馴染んでいったのだと信じたい気持ちがあった。
「見てたよ、朝から寄り道してるの」
背後からの声に振り向くと、瑠璃が自転車を押して歩いてきた。昨日と同じ制服に、少し風に乱された前髪。けれど目元はどこか優しげで、尚吾を見て笑っていた。
「……気になっただけ。ちゃんと飛べてるかなって」
「そっか。私は見てないけど、雛、きっと元気だよ」
並んで歩きながら、二人は学校へ向かう。朝の光が細く校舎の屋根を撫でていた。
「なんかさ、昨日のこと、すごく印象に残ってる」
「雛のこと?」
「うん。……いや、違う。あの静けさ、かな」
尚吾の言葉に、瑠璃はしばらく黙ってから言った。
「うちの母も言ってたよ。“今日、空気が変だった”って」
「やっぱ、そう思うよな?」
「思う。でも……私はちょっと、好きだったかも」
「え?」
「音が全部消える感じ。ふたりだけしかいないような、あの空気」
尚吾は照れ隠しのように笑った。
「……それ、俺らがカラス助けたせい?」
「どうだろうね。カラスの恩返しってあるのかな」
ふたりは笑い合ったが、その静けさが単なる錯覚ではなかったことを、心のどこかで理解していた。あの日から何かが変わった。言葉にはならないその変化が、ゆっくりとふたりの周囲に広がっていた。
放課後、帰り道は瑠璃のほうから尚吾を誘った。彼女が行きたい場所があるという。駅から少し離れた小さな公園。桜の木が何本か並ぶ、ふたりが中学時代によく寄り道していた場所だ。
「ね、覚えてる?ここで初めて、ちゃんと手つないだよね」
「……ああ。確か、夏休みの補習の帰り」
「尚吾、手汗すごかった」
「おい、今それ言う?」
笑いながら歩くうちに、ふたりは自然と手をつないでいた。今度は、迷いも緊張もなかった。
「今日、なんか言いそびれてた?」
「え?」
「さっきの話の続き。昨日からずっと引っかかってる感じだった」
瑠璃の問いかけに、尚吾は少しだけ考えてから答えた。
「……うまく言えないけど、昨日のあの瞬間。時間が止まったみたいだったんだよ。音が消えて、風も止まって、なんか世界から切り離されたみたいで……」
「怖かった?」
「……逆。安心した。なんでかはわかんないけど」
瑠璃は黙って尚吾の手を握り直した。その手のぬくもりが、世界に確かに触れていることを教えてくれる。
その晩、家に戻った尚吾は、台所で夕飯を準備する母・陽子の隣で、なんとなく昨日のことを話した。
「へえ、カラスの雛を?それはまた……でも不思議ね、昨日はほんとに、妙に静かな日だったわ」
陽子は味噌汁をかき混ぜながら言う。
「ほら、朝からカラスの鳴き声が全然しなかったのよ。いつもうるさいのに」
「父さんも、なんか変な日だったって言ってたな」
「お父さん、昔からちょっとそういう感覚するどいのよね」
尚吾は「へえ」と曖昧に頷いたが、心の中では違う感覚が芽生えていた。あの静けさは、ただの気まぐれでも、気象のせいでもない。
何かが、確かに始まった。
この春の空の下で、誰にも知られずに。
けれどその始まりは、記憶にすら残らないような、かすかな羽音と共にあった。
カラスの雛の黒い瞳が、最後に尚吾を見上げたとき、確かに何かを告げた気がした。
――彼はまだ、その意味を知らなかった。
ピイ――。
それは地面の、ごく近くから鳴いていた。
「……鳴き声?」
しゃがみこんで、慎重に目を凝らす。舗道とブロック塀の隙間に、黒くて小さな、丸まった羽毛の塊があった。弱々しいその動き。尚吾は思わず息を呑んだ。
「カラスの雛……?」
つややかな黒い羽根に包まれた、まだ飛ぶこともできなさそうな幼鳥。瞬きをするように小さく目を動かし、また「ピイ」と鳴いた。カラスがこんな声を出すことを、尚吾は初めて知った。
周囲を見渡す。どこかで親鳥が様子をうかがっているかもしれない。だが、気配はなかった。
「……落ちたのか?」
風のせいか、巣が不安定だったのか。とにかく、こんなところに放っておけば猫にやられるか、踏まれてしまうかだ。
尚吾は制服のポケットからハンカチを取り出し、そっと雛の下に差し入れた。ふわりと羽が動き、小さな体がハンカチに包まれる。軽い。こんなに軽い命だったのか。
立ち上がって見上げると、近くの街路樹の枝に、不自然な膨らみがあった。枝の間に積まれた枝葉――カラスの巣だ。
「高いな……」
少なく見積もっても三メートル。木登りなんて何年ぶりだろう。試しに塀に手をかけかけて、尚吾は一度ためらった。
「おーい、何やってんの?」
明るい声が背後から響いた。
振り返らなくても、その声の主はわかる。
「……瑠璃か」
千草瑠璃は、尚吾の横に並び、手にしていた通学バッグを肩にかけ直した。
「何、また小動物保護活動?」
「違うって。カラスの雛、落ちてた」
尚吾はハンカチを少し開いて、雛を見せた。瑠璃の表情が和らぐ。
「……かわいいじゃん。カラスだけど」
「なあ、巣に戻してやりたいんだけど、届かなくて」
「木登る?」
「無理だって。制服破れたら、母さんにどやされる」
「じゃあ、私がやる。支えて」
そう言って、瑠璃はすでに塀の上に片足をかけていた。躊躇がない。尚吾が口を開く前に、スカートの裾を押さえながら、木の幹に手を伸ばしてよじ登っていく。
「なぁ、いいって無理すんなよ!」
「はいはい、止めないで。これくらいできるから」
尚吾は半ば諦め、彼女の足元を支えるように見守った。スカートがはだけないよう慎重に、瑠璃はしっかりとした手つきで枝をつかみ、巣のあるあたりまで近づいた。
「ここかな……よし、入れるよ?」
尚吾がうなずくと、瑠璃はハンカチごと巣の中へ雛を戻した。その瞬間、枝の奥でガサガサと何かが動いた。カラスの親鳥が戻ってきたのかもしれない。
「……帰ってきたみたいだね」
「うん。ありがとな」
瑠璃がゆっくりと木を降りてくると、尚吾はその手を取って支えた。ふたりの指が一瞬、重なったまま動かなかった。
「……なんか、静かだね」
瑠璃がつぶやくように言った。
尚吾は辺りを見渡す。
確かにそうだった。住宅街の朝は、もっと雑音にあふれているはずなのに――通勤の車、鳥のさえずり、遠くの学校から聞こえるチャイム。それらがすべて、薄い膜の向こうにあるような感覚。
「音が……ない」
「このへんだけ変なんじゃない?」
「雛のせい……とか、ないよな」
尚吾の冗談に、瑠璃がくすりと笑った。その笑みを見て、尚吾も少しだけ肩の力を抜いた。
「でも……なんか、始まった気がする」
「え?」
「いや……なんでもない」
尚吾は首を振りながら、木の上をもう一度見上げた。風が吹き、枝がわずかに揺れる。けれど、それは彼の記憶にも、言葉にも、残らない予感だった。
その夜、帰宅した尚吾が夕食の席で何気なく話すと、母の陽子は味噌汁を口に運びながらぽつりと言った。
「今日、カラスの声が妙に静かだったわね」
父の達彦も、新聞を読みながら眉をひそめる。
「……なんか変な日だったな」
尚吾は笑って誤魔化したが、心のどこかに、妙な静けさだけが残っていた。
翌朝、尚吾は少し早めに家を出た。いつもより十分だけ前倒しにしたのは、あの雛のことが気になったからだった。
昨日見つけた場所に戻ると、街路樹の枝にある巣はそのままで、近くに黒い羽が一枚落ちていた。空を見上げると、親鳥らしきカラスが電線の上からこちらを見下ろしている。もう一羽が巣の中に降りたようだった。
雛は、無事に戻れたのだろうか――いや、あれからどうなったのかを尚吾が知る術はない。それでも、不思議と心は落ち着いていた。小さな命が、また世界に馴染んでいったのだと信じたい気持ちがあった。
「見てたよ、朝から寄り道してるの」
背後からの声に振り向くと、瑠璃が自転車を押して歩いてきた。昨日と同じ制服に、少し風に乱された前髪。けれど目元はどこか優しげで、尚吾を見て笑っていた。
「……気になっただけ。ちゃんと飛べてるかなって」
「そっか。私は見てないけど、雛、きっと元気だよ」
並んで歩きながら、二人は学校へ向かう。朝の光が細く校舎の屋根を撫でていた。
「なんかさ、昨日のこと、すごく印象に残ってる」
「雛のこと?」
「うん。……いや、違う。あの静けさ、かな」
尚吾の言葉に、瑠璃はしばらく黙ってから言った。
「うちの母も言ってたよ。“今日、空気が変だった”って」
「やっぱ、そう思うよな?」
「思う。でも……私はちょっと、好きだったかも」
「え?」
「音が全部消える感じ。ふたりだけしかいないような、あの空気」
尚吾は照れ隠しのように笑った。
「……それ、俺らがカラス助けたせい?」
「どうだろうね。カラスの恩返しってあるのかな」
ふたりは笑い合ったが、その静けさが単なる錯覚ではなかったことを、心のどこかで理解していた。あの日から何かが変わった。言葉にはならないその変化が、ゆっくりとふたりの周囲に広がっていた。
放課後、帰り道は瑠璃のほうから尚吾を誘った。彼女が行きたい場所があるという。駅から少し離れた小さな公園。桜の木が何本か並ぶ、ふたりが中学時代によく寄り道していた場所だ。
「ね、覚えてる?ここで初めて、ちゃんと手つないだよね」
「……ああ。確か、夏休みの補習の帰り」
「尚吾、手汗すごかった」
「おい、今それ言う?」
笑いながら歩くうちに、ふたりは自然と手をつないでいた。今度は、迷いも緊張もなかった。
「今日、なんか言いそびれてた?」
「え?」
「さっきの話の続き。昨日からずっと引っかかってる感じだった」
瑠璃の問いかけに、尚吾は少しだけ考えてから答えた。
「……うまく言えないけど、昨日のあの瞬間。時間が止まったみたいだったんだよ。音が消えて、風も止まって、なんか世界から切り離されたみたいで……」
「怖かった?」
「……逆。安心した。なんでかはわかんないけど」
瑠璃は黙って尚吾の手を握り直した。その手のぬくもりが、世界に確かに触れていることを教えてくれる。
その晩、家に戻った尚吾は、台所で夕飯を準備する母・陽子の隣で、なんとなく昨日のことを話した。
「へえ、カラスの雛を?それはまた……でも不思議ね、昨日はほんとに、妙に静かな日だったわ」
陽子は味噌汁をかき混ぜながら言う。
「ほら、朝からカラスの鳴き声が全然しなかったのよ。いつもうるさいのに」
「父さんも、なんか変な日だったって言ってたな」
「お父さん、昔からちょっとそういう感覚するどいのよね」
尚吾は「へえ」と曖昧に頷いたが、心の中では違う感覚が芽生えていた。あの静けさは、ただの気まぐれでも、気象のせいでもない。
何かが、確かに始まった。
この春の空の下で、誰にも知られずに。
けれどその始まりは、記憶にすら残らないような、かすかな羽音と共にあった。
カラスの雛の黒い瞳が、最後に尚吾を見上げたとき、確かに何かを告げた気がした。
――彼はまだ、その意味を知らなかった。
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