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第14話「届かない手がかり」
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図書館の中は、冷たく乾いた空気で満ちていた。
春休み中の平日の昼下がり。誰もいない郷土資料室で、尚吾はページをめくる音だけを響かせていた。
棚にはこの町の歴史を記した古い郷土誌や年報、地域新聞の縮刷版などが並んでいる。学校では使わなかったような分厚い書籍に囲まれながら、尚吾は眉間に皺を寄せて一冊ずつ目を通していた。
探しているのは――あの石についての記述だった。
名前がある。形も明確だ。場所も、いつからあるかもはっきりしないが、確かにそこにあったものだ。それなら、町の記録に何かが残っていても不思議じゃない。
そう思っていた。
けれど――
「……やっぱり、ない」
声は思わず漏れたものだった。目の前の年報には、桜の宮高校の校庭についての記事があった。桜の古木についても「昭和初期に植樹されたと伝えられる」とある。
だが、その根元にあるはずの石については一切触れられていない。
どれだけ遡っても、どの記録を見ても、「願いの石」などという単語はどこにも見つからなかった。
*
「お探しの内容、もしかして……霊石とか、信仰に関わるものですか?」
司書の女性が尚吾のもとに声をかけてきた。落ち着いた口調で、笑みを浮かべているが、尚吾の疲れ切った様子に気づいたのだろう。
「いえ……どちらかというと、地元の“言い伝え”とか、そういう類の話です。特定の石が、ある場所にずっと置かれてる……みたいな」
「桜の宮の桜のあたりですか?」
「はい。そこに、黒い石碑のような……」
司書は少しだけ首をかしげた。
「うーん……それなら、地域信仰とか風習に詳しい本の方が近いかもしれませんけど……正直、記憶にないですね」
「そうですか……」
尚吾は礼を言って頭を下げ、資料室に戻った。
図書館で分かることは、もう限られている。なら、次はネットだ。
*
実家に戻ると、リビングに誰もいなかった。父も母も出かけているようで、家の中は妙に静かだった。
尚吾はダイニングテーブルにノートパソコンを置き、検索を始めた。
「桜の宮高校 石碑」
「桜の木 根元 石」
「願いの石 由来」
「見えない石 誰にも見えない」
単語を変え、言い回しを変え、画像検索まで試した。だが、出てくるのは観光地の“願掛け石”や全国の伝承ばかりで、あの石に繋がる情報はひとつも出てこなかった。
まるで――その存在自体が、最初からこの世にないようにすら思えた。
「……おかしいよな……」
尚吾は椅子にもたれ、目を閉じた。
自分の目で見たはずだ。手のひらで触れた感触も、確かにあった。けれど、それを誰も知らない。記録もない。写真すら残っていない。
もしこれが“夢”だったなら、それで説明がつく。でも、夢じゃない。
むしろ、現実のほうが虚ろに感じられてきた。
*
その夜、尚吾は高校時代のノートを引っ張り出してみた。授業の合間に落書きしていたページ、交換日記のように瑠璃とやり取りしていたメモ――どれも、懐かしい言葉が並んでいた。
けれど。
桜の木のこと、石のこと、あの春の会話のこと――一切、どこにも書かれていなかった。
瑠璃が「願い」という言葉を使っていた気がする。けれどその記録はどこにもない。
たしかに聞いたはずの彼女の言葉が、紙の上からは消えていた。
「……なんで?」
呟いた尚吾の声が、部屋に沈んだ。
それは、言葉の記憶が嘘だったというよりも――「この世界から記録ごと消えている」ような感覚だった。
*
日が落ちる頃、尚吾は縁側に出て、ひとり庭を眺めていた。
静かな風が枝を揺らし、どこかで犬の遠吠えが聞こえる。どこか、季節と心の距離がかみ合っていないような、そんな感覚が胸の奥で広がっていた。
「寒くないの?」
母の声が後ろから聞こえた。振り返ると、陽子が湯気の立つマグカップを二つ持って立っていた。尚吾は黙って受け取り、目の前に置く。白い陶器から立ちのぼる湯気の匂いは、どこか懐かしいミルクティーの香りだった。
「……ありがと」
陽子はとなりに腰を下ろし、庭の方を向いた。二人の間に、しばしの静寂が流れた。
「今日も、調べてきたんでしょ?」
「うん……でも、何もなかった。あの石のことも、桜のことも、高校の資料にも載ってない。ネットにもない。……全部、最初からなかったみたいでさ」
陽子はカップに口をつけながら、うなずいた。
「そういうもの、なのかもしれないね。ときどき、誰にも記憶されないものってあるのよ」
尚吾は、膝の上で両手を組んだまま、小さく息を吐いた。
「でも……何か、確かにあったって、感じるんだ。……いや、あったんだ。触れたし、見た。温度もあった」
その感覚だけが、鮮やかに残っている。
それなのに、形も記録も、周囲の人の記憶さえ、そこにはない。
「……変な話かもしれないけど、あれが“なかったこと”になってる気がするんだ」
その言葉に、陽子はわずかに眉を寄せたが、すぐに表情を緩めた。
「思い出って、どこにあると思う?」
「え……?」
「体に残るって言う人もいれば、言葉の中にあるって人もいる。記録っていうのは、確かに安心させてくれるけど、全部じゃないよ」
尚吾は言葉に詰まったまま、カップを見つめた。
冷えかけた紅茶の味は、どこか遠い日の記憶のように淡い。
*
その夜、尚吾は自室で一冊のノートを取り出していた。
高校時代に使っていたもののひとつだ。ページをめくっていくと、古びたインクの文字や、瑠璃の走り書き、試験前の計算問題のメモなどが混在していた。
何も変わっていないようで、何かが失われているようにも思える。
――この中に、何か書いてなかったか。
「願い」とか、「石」とか。ほんの些細な言葉でもいい。手がかりが欲しかった。けれど、どこにもそれらしい文字はなかった。
尚吾は背もたれに寄りかかり、顔を覆った。
体の奥にだけ、ぼんやりとした感触が残っている。それは確かに存在したものだ。だが、何も手にしていないという実感もまた強い。
まるで、ひとつだけ自分の記憶の中にあって、外の世界には影も痕跡もないもの。
そんな感覚だった。
*
夜更け、再び縁側に出ると、風の音がわずかに変わっていた。
空気の冷たさの中に、ほんのわずかな春の気配が混じっている。遠くで、電車の音が鳴った。
尚吾は空を見上げた。星は見えなかった。雲に覆われた空には、月の輪郭だけが滲んでいた。
あの石が何かを語ることはない。瑠璃の口から真実が語られることも、今はない。
ただ、なにかが“そこにある”という感覚だけが残っている。
それが何かを意味するのかさえ、今はわからない。
「……届かないんだな」
尚吾の呟きは、夜の空気に吸い込まれていった。
春休み中の平日の昼下がり。誰もいない郷土資料室で、尚吾はページをめくる音だけを響かせていた。
棚にはこの町の歴史を記した古い郷土誌や年報、地域新聞の縮刷版などが並んでいる。学校では使わなかったような分厚い書籍に囲まれながら、尚吾は眉間に皺を寄せて一冊ずつ目を通していた。
探しているのは――あの石についての記述だった。
名前がある。形も明確だ。場所も、いつからあるかもはっきりしないが、確かにそこにあったものだ。それなら、町の記録に何かが残っていても不思議じゃない。
そう思っていた。
けれど――
「……やっぱり、ない」
声は思わず漏れたものだった。目の前の年報には、桜の宮高校の校庭についての記事があった。桜の古木についても「昭和初期に植樹されたと伝えられる」とある。
だが、その根元にあるはずの石については一切触れられていない。
どれだけ遡っても、どの記録を見ても、「願いの石」などという単語はどこにも見つからなかった。
*
「お探しの内容、もしかして……霊石とか、信仰に関わるものですか?」
司書の女性が尚吾のもとに声をかけてきた。落ち着いた口調で、笑みを浮かべているが、尚吾の疲れ切った様子に気づいたのだろう。
「いえ……どちらかというと、地元の“言い伝え”とか、そういう類の話です。特定の石が、ある場所にずっと置かれてる……みたいな」
「桜の宮の桜のあたりですか?」
「はい。そこに、黒い石碑のような……」
司書は少しだけ首をかしげた。
「うーん……それなら、地域信仰とか風習に詳しい本の方が近いかもしれませんけど……正直、記憶にないですね」
「そうですか……」
尚吾は礼を言って頭を下げ、資料室に戻った。
図書館で分かることは、もう限られている。なら、次はネットだ。
*
実家に戻ると、リビングに誰もいなかった。父も母も出かけているようで、家の中は妙に静かだった。
尚吾はダイニングテーブルにノートパソコンを置き、検索を始めた。
「桜の宮高校 石碑」
「桜の木 根元 石」
「願いの石 由来」
「見えない石 誰にも見えない」
単語を変え、言い回しを変え、画像検索まで試した。だが、出てくるのは観光地の“願掛け石”や全国の伝承ばかりで、あの石に繋がる情報はひとつも出てこなかった。
まるで――その存在自体が、最初からこの世にないようにすら思えた。
「……おかしいよな……」
尚吾は椅子にもたれ、目を閉じた。
自分の目で見たはずだ。手のひらで触れた感触も、確かにあった。けれど、それを誰も知らない。記録もない。写真すら残っていない。
もしこれが“夢”だったなら、それで説明がつく。でも、夢じゃない。
むしろ、現実のほうが虚ろに感じられてきた。
*
その夜、尚吾は高校時代のノートを引っ張り出してみた。授業の合間に落書きしていたページ、交換日記のように瑠璃とやり取りしていたメモ――どれも、懐かしい言葉が並んでいた。
けれど。
桜の木のこと、石のこと、あの春の会話のこと――一切、どこにも書かれていなかった。
瑠璃が「願い」という言葉を使っていた気がする。けれどその記録はどこにもない。
たしかに聞いたはずの彼女の言葉が、紙の上からは消えていた。
「……なんで?」
呟いた尚吾の声が、部屋に沈んだ。
それは、言葉の記憶が嘘だったというよりも――「この世界から記録ごと消えている」ような感覚だった。
*
日が落ちる頃、尚吾は縁側に出て、ひとり庭を眺めていた。
静かな風が枝を揺らし、どこかで犬の遠吠えが聞こえる。どこか、季節と心の距離がかみ合っていないような、そんな感覚が胸の奥で広がっていた。
「寒くないの?」
母の声が後ろから聞こえた。振り返ると、陽子が湯気の立つマグカップを二つ持って立っていた。尚吾は黙って受け取り、目の前に置く。白い陶器から立ちのぼる湯気の匂いは、どこか懐かしいミルクティーの香りだった。
「……ありがと」
陽子はとなりに腰を下ろし、庭の方を向いた。二人の間に、しばしの静寂が流れた。
「今日も、調べてきたんでしょ?」
「うん……でも、何もなかった。あの石のことも、桜のことも、高校の資料にも載ってない。ネットにもない。……全部、最初からなかったみたいでさ」
陽子はカップに口をつけながら、うなずいた。
「そういうもの、なのかもしれないね。ときどき、誰にも記憶されないものってあるのよ」
尚吾は、膝の上で両手を組んだまま、小さく息を吐いた。
「でも……何か、確かにあったって、感じるんだ。……いや、あったんだ。触れたし、見た。温度もあった」
その感覚だけが、鮮やかに残っている。
それなのに、形も記録も、周囲の人の記憶さえ、そこにはない。
「……変な話かもしれないけど、あれが“なかったこと”になってる気がするんだ」
その言葉に、陽子はわずかに眉を寄せたが、すぐに表情を緩めた。
「思い出って、どこにあると思う?」
「え……?」
「体に残るって言う人もいれば、言葉の中にあるって人もいる。記録っていうのは、確かに安心させてくれるけど、全部じゃないよ」
尚吾は言葉に詰まったまま、カップを見つめた。
冷えかけた紅茶の味は、どこか遠い日の記憶のように淡い。
*
その夜、尚吾は自室で一冊のノートを取り出していた。
高校時代に使っていたもののひとつだ。ページをめくっていくと、古びたインクの文字や、瑠璃の走り書き、試験前の計算問題のメモなどが混在していた。
何も変わっていないようで、何かが失われているようにも思える。
――この中に、何か書いてなかったか。
「願い」とか、「石」とか。ほんの些細な言葉でもいい。手がかりが欲しかった。けれど、どこにもそれらしい文字はなかった。
尚吾は背もたれに寄りかかり、顔を覆った。
体の奥にだけ、ぼんやりとした感触が残っている。それは確かに存在したものだ。だが、何も手にしていないという実感もまた強い。
まるで、ひとつだけ自分の記憶の中にあって、外の世界には影も痕跡もないもの。
そんな感覚だった。
*
夜更け、再び縁側に出ると、風の音がわずかに変わっていた。
空気の冷たさの中に、ほんのわずかな春の気配が混じっている。遠くで、電車の音が鳴った。
尚吾は空を見上げた。星は見えなかった。雲に覆われた空には、月の輪郭だけが滲んでいた。
あの石が何かを語ることはない。瑠璃の口から真実が語られることも、今はない。
ただ、なにかが“そこにある”という感覚だけが残っている。
それが何かを意味するのかさえ、今はわからない。
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