さくらの名のもとに

ukon osumi

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第15話「語られないもの」

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  数日前、尚吾は祖父の友人である吉岡さんに連絡を取った。
 町内会の古株で、桜の宮高校の敷地にも詳しい。昔、校舎の建て替え時期に資料を扱っていたと聞いたことがあった。
 「あそこの桜の根元に、石碑があるんです。何かご存じないかと思って……」
 吉岡さんは快く付き合ってくれて、尚吾と一緒に校庭へと足を運んだ。
 春の風が吹くなか、ふたりは桜の木の下に立った。
 「これです、ここに……」
 尚吾が指さした先、確かにそこに“願いの石”はある。
 かすれた文字、少し苔のついた表面。いつものように見えている。
 しかし吉岡さんは、眉をひそめた。
 「どこにあるんだ?」
 尚吾は少し焦った。「ここです、この根元の石です、文字が……」
 吉岡さんは首を横に振った。「なんにもないぞ。そこにあるのは……土と、根っこだけだな」
 風が吹いた。尚吾の髪が揺れる。
 自分には、見えている。確かに、そこにある。
 だが、彼には見えていない。
 その事実が、尚吾の胸の奥にひっそりと冷たく沈んだ。
 何かが、決定的に“ずれている”。そんな感覚だけが残った。
 風が止んだ、夜の桜の宮高校の校庭。
 薄暗い外灯の下、尚吾は桜の根元にひとり腰を下ろしていた。
 
 街灯の光が滲む中、尚吾は、校庭の桜の木の下に戻っていた。まるで時間ごと閉じ込められた世界のように思えた。
 陽が落ちかけた空の下、枝の影がゆっくりと伸びている。
 昼間、吉岡さんを連れてきて「石が見えない」と言われたことが、頭から離れなかった。
 自分には、確かに見えている。だが、他人にはまったく見えていない。
 見えていないどころか、そこに何かが“ある”という実感すら抱かれていない。
 「願いの石」は、存在の段階で、世界からすっぽりと切り離されているようだった。
 あの瞬間、胸の奥に凍りつくような孤独が走った。
 誰にもこの異変を共有できないという現実は、言葉にできない重さで尚吾を圧迫していた。
 風が吹き、落ち葉が地面を滑った。
 ふと頭上を見上げると、一本向こうの枝に黒い影が止まっていた。
 カラスだ。
 あの目――まっすぐに尚吾を見下ろしている。
 まただ。何度も見ている気がする。いや、どこかで“導かれている”気がしていた。
 カラスは鳴かない。ただ、尚吾の目線を受け止めると、その場から飛び立ち、低く、夜の町のほうへと滑空していった。
 尚吾は躊躇わずに走り出した。
 何かを解こうとしているわけでも、追い詰めたいわけでもない。
 ただ――呼ばれている。
 そんな感覚に突き動かされて、脚が動いていた。
     
 いくつもの角を曲がり、見覚えのある古びた坂道を抜けると、そこに建っていた。
 町の外れ、小さな教会。
 何年も前に一度だけ、祖父と散歩で通りかかった記憶があった。
 もう使われていないはずのその建物が、まるで今日という日を待っていたかのように、黒く、静かに立っていた。
 鉄製の門の上に、さきほどのカラスがいた。
 尚吾が近づくと、それは羽を二、三度揺らし、もう一声も発することなく飛び立っていった。
 残された門は、ほんの少しだけ開いている。
 風に押されて、ぎい、と軋む音を立てた。
 尚吾は門をくぐった。
 道の両側には、苔むした石畳と、咲き終えた名もない花が静かに揺れている。
 あたりには人の気配がない。にもかかわらず、尚吾は不思議と「誰かに見られている」ような感覚を覚えていた。
 礼拝堂の扉に手をかける。
 金具は冷たかったが、重みはなく、思ったよりも簡単に開いた。
 中に足を踏み入れると、古びた木の床がきしんだ。
 天井の高い礼拝堂。壁の一部は黒ずみ、椅子は少し歪んでいる。
 けれど、空間は整っていた。まるで誰かが、今も定期的に手を入れているような、不思議な清浄感があった。
 奥には祭壇と、その背後にステンドグラス。
 青と金が交じり合うそのガラスは、外の街灯をわずかに受けて淡く光っていた。
 尚吾は、ゆっくりと前へ進んだ。
 “何か”がここにある。
 あの石と同じ、あの鼓動のような、静かに染み渡る存在感。
 言葉にはならなかった。けれど、胸の奥がざわめいていた。
 何かに触れようとしている。まだ、それが何かは見えない。
 尚吾は、足を止めた。
 気配があった。目には見えないけれど、確かにこの空間に“誰か”がいる。
 背筋がすっと伸び、視線は自然と祭壇の奥へと向いた。
 音はない。風もない。
 けれど、世界の一部が少しだけ違って感じられた。
 尚吾はそっと目を閉じた。
 胸の奥で、小さな波紋が広がる。
 桜の根元にあった石、その冷たさ、指先に感じた微かな震え。
 瑠璃の言葉――「願いごとって、ちょっと怖くもあるよね」。
 言葉にならない感情が、今も静かに脈打っていた。
     
 どれくらいそうしていただろう。
 尚吾はしばらくその場に立ち尽くし、ゆっくりと目を開けた。
 外はもう完全な夜だった。
 礼拝堂の空気は、先ほどよりも穏やかになっている。
 尚吾は、まだこの場所を離れようとは思わなかった。
 まだ、何もわかっていない。
 けれど、何かが確実に“始まっている”。
 そう――この夜から、すべてが少しずつ変わり始めている。
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