さくらの名のもとに

ukon osumi

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第16話「カラスと神父」

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  教会の空気は、どこか時間の流れを忘れているようだった。
 尚吾は祭壇の前に立ち、しばらくそのまま佇んでいた。
 天井の高い礼拝堂に、足音ひとつすら響かない。
 誰もいないはずの空間で、目には見えない“何か”がこちらを見つめている気配だけが、ずっと背中に刺さっていた。
 それは恐怖ではなく、むしろ静かな覚悟を迫ってくるような――重みだった。
 尚吾はゆっくりと振り返る。
 入り口のほうには誰もいない。
 それでも、空間の気圧が変わったように感じた。
 そのときだった。
 天井の梁から、ふっと黒い影が舞い降りた。
 カラスだ。
 尚吾を導いた、あのカラス。
 鳥は無言のまま、尚吾の目の前に降り立つと、その場で静かに羽をたたんだ。
 そして、淡く差し込むステンドグラスの光が、その身体を包み――
 次の瞬間、まるで煙が溶けるように、その影が揺らめいた。
 カラスの姿が崩れ、影が人の形をかたどってゆく。
 尚吾は、動けなかった。
 ただ、その光景を見つめていた。
 影は輪郭を持ち、やがて一人の男の姿になった。
 黒いローブをまとい、目元に深い皺を刻んだ、静かな老人――神父。
 神父は微笑んだ。
 そして、まるですべてを知っている者のように、尚吾に向けてゆっくりと頷いた。
 「ようこそ、桐原尚吾さん」
 声は穏やかで、まるで長い旅路の末に再会した者へ向けるような響きだった。
 尚吾は言葉を失ったまま、ただ立ち尽くしていた。
 「あなたがここへ来るのを、ずっと待っていました」
 少し間を置いて、神父は柔らかく目を細める。
 「昔――あなたがまだ若かった頃、一本の桜の木の下で、落ちた雛をふたりで拾い上げた記憶がありますね」
 その言葉に、尚吾の胸が一瞬にして熱を帯びる。
 「……まさか……」
 「そうです。あの時、あなたと千草さんに助けられたカラスの雛。……それが、私です」
 目の前の神父の笑みに、鳥の面影はなかった。けれど、不思議とその言葉には、否定できない“確かさ”があった。
 「ふたりの手のぬくもりを、いまでも覚えています。あの時から、私はあなたたちを“見守る者”として、この地にとどまることになりました」
 尚吾は息を呑んだ。言葉にできない想いが胸の奥で膨らみ、気づけば拳をきつく握りしめていた。
 「瑠璃さんの願いも、あなたの決断も、私はすべて見届けてきました。だからこそ、ここでこうして再び出会えたことが……奇跡ではなく、必然だったのです」
 神父はゆっくりと歩み寄ってくる。
 足音は床にほとんど響かず、まるで音を吸い込むようだった。
 「あなたは、“見えてしまった”んですね。あの石が」
 尚吾は、ようやく声を絞り出す。
 「……あれは、いったい……何なんですか」
 神父は立ち止まり、しばし視線を外の夜空に向けた。
 そして小さく、しかし深く言った。
 「あれは、“選ばれた者”の前にだけ、姿を現すものです」
 尚吾は息を呑んだ。
 「見えるのは、守る者と、守られる者だけ。……それ以外の人間には、石の存在すら認識できない」
 思い出す。吉岡さんの反応、母の言葉。誰も見えなかった。尚吾だけが、そこに確かに石を見て、感じていた。
 「なぜ、俺にだけ……?」
 尚吾が問うと、神父は歩を進め、祭壇のそばにある木の椅子に腰を下ろした。
 そして語り出す――まるで、過去の出来事を読み解くように。
 「石が現れるのは、四年に一度の夜。――二月二十九日、午前零時」
 尚吾の鼓動が一瞬止まったように感じた。
 その日付には、覚えがあった。卒業から一年後、瑠璃が倒れた“その日”――
 神父の声は淡々としていた。
 「その日、その時刻に、“糖蜜”を石の根元へ与えた者の前にだけ、石は姿を現します。
 甘い供物を受け入れ、未来の一端を、その者に見せるのです」
 尚吾の喉が、ごくりと鳴った。
 自分の中で、点と点がつながる音がした。
 あの年。あの時期。瑠璃は――
 「彼女が、見たんですか……? 未来を?」
 神父は、ゆっくりと頷いた。
 「ええ。――彼女は、あなたの“未来”を見た」
 尚吾は言葉を失った。
 神父の言葉は、まるで重石のように胸へ降りかかってくる。
 「あなたの死。その運命が、彼女の目に映った。……そう、避けられない定めとして」
 神父の言葉が、礼拝堂の空気を変えた。
 尚吾はその場から動けなかった。
 自分が――死ぬ未来を、瑠璃が見ていた?
 なぜ、彼女はそれを自分に伝えなかったのか。
 「彼女は……何をしたんですか」
 声が震えた。言葉にしてしまえば、もう戻れない気がして、尚吾は一度だけ唇を噛んだ。
 神父は目を閉じ、まるでその場に瑠璃がいるかのように、穏やかに語り出した。
 「彼女は願いました。“彼が無事でありますように”と」
 祭壇のロウソクが、かすかに揺れた。
 「その願いを、石は受け入れました。ただし、何かを“差し出す”ことを条件として――」
 尚吾の全身が一瞬で冷たくなった。
 その言葉は、まるでずっと避けていた核心だった。
 「彼女は、“時間”を差し出しました」
 神父は静かに続ける。
 「自分の時間を、世界から切り離すこと。それが石が提示した“交換”でした。
 時間を封じられた者は、この世の時の流れから外れ、目覚めることができなくなります。……彼女はそれを受け入れた」
 尚吾の胸が締めつけられる。
 言葉が、喉の奥で音にならない。
 「……それでも、彼女は」
 「ええ。彼女は、あなたを守ることを選んだのです」
 神父は椅子の背にもたれ、遠くを見つめた。
 「君が桜の下で待ち続けていたあの春、彼女はすでに、時間の檻に囚われていた。
 君が知らない間に、彼女は選び、願い、眠りについていた」
 尚吾は、目の奥が熱くなるのを感じた。
 すべてが、ようやく繋がっていく。あの春、あの静けさ――何もかもが。
 「なぜ……そんなこと……俺は……」
 「彼女は、言いませんでした。言えば、君は迷い、苦しみ、きっと自分を責めるから」
 神父はそう言って、祭壇のろうそくにそっと手をかざした。
 「これは、彼女なりの“祈り”だったのです。たとえ何も伝えられなくても、たとえ忘れられても、君が生きていてほしい――その一心で」
 尚吾の視界が、滲んでいた。
 涙が流れていることに、気づかないふりをした。
 「……俺は、何も知らなかった」
 「だから、君はここまで来た」
 神父は微笑む。
 「石に選ばれた者は、いつか“もうひとつの選択”を迫られる時が来ます。
 守られた者として、それにどう向き合うか――それは、君にしか決められない」
 尚吾は拳を握った。
 心の奥で、何かがじわりと熱を持ちはじめていた。
 尚吾は拳を握った。
 心の奥で、何かがじわりと熱を持ちはじめていた。
 「“彼女の願い”で、俺は生きている。……そのことを、俺はこれから、どうすれば……」
 神父は、尚吾をまっすぐに見つめた。
 「――君はどうする?」
 尚吾は、ほとんど反射のように答えていた。
 「彼女を……助けてください」
 神父は目を細めた。
 「助けるためには、“一番大事なもの”を代償として、捧げなければならないかもしれません」
 尚吾は眉をひそめた。
 「大事なもの……? なんですか、それ?」
 そのとき、ふっと脳裏に浮かんだのは、あの笑顔だった。
 はにかみながらも真っすぐにこちらを見つめる、瑠璃の笑顔。
 「瑠璃……の笑顔……」
 神父は微笑んだ。
 「――彼女との記憶ですよ」
 その声は、どこまでも静かで、そして優しかった。
 神父は祈るように目を伏せ、言葉を結んだ。
     
 教会の外に出ると、風が冷たかった。
 空には、雲の切れ間から月が覗いていた。
 白く、静かな光だった。まるで、瑠璃の指先のぬくもりのように。
 尚吾は教会の扉の前で、立ち尽くしていた。
 思い返す。笑った顔、はにかんだ声、寄り添った時間。
 どれもが、すべて、彼女の“願い”の上にあったのだ。
 その願いが、どれほどの覚悟と痛みを伴っていたのか――今になってようやく、ほんの少しだけ見えてきた。
 「……瑠璃」
 小さく名前を呼ぶ。
 答えは返ってこない。
 でも、どこかで確かに、彼女の想いはそこにある気がした。
 尚吾は、月を仰いだ。
 息を吸い込み、吐く。
 手のひらに、温かさを感じた気がした。
 “それでも、君はどうする?”
 あの言葉が、胸の奥に残響のように響いていた。
 尚吾は、ゆっくりと歩き出した。
 瑠璃の願いと、自分自身の選択。
 その間にある道を、これから歩いていくために――。
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