18 / 24
第18話「血と記憶」
しおりを挟む
風が止まったように思えた。午後、空は少し曇っていた。
ノートを書き終えた尚吾は、膝の上にそれを置いたまま、桜の木の下でしばらく動けずにいた。
ページの最終行には、彼の文字でこう記されていた。
──君が目を覚ます未来のために、僕の記憶を贈る。
もう何度も読み返した言葉だった。それでも、書いたはずのそれが、すでに他人のもののように感じられる。
尚吾はゆっくりと立ち上がった。
手の中にあるノートの重みは、これまで書いたどんなものよりもはるかに重かった。
震える手で、それを胸元に抱える。
目の前には、桜の根元に沈んだ“あの石”がある。
夜の闇に溶け込むように、静かに、しかし確かに存在していた。
尚吾は歩を進める。
一歩、また一歩。踏み出すたびに、足元の土の感触がじわりと伝わってきた。
身体の中心が冷えていく。だが、心だけは不思議と穏やかだった。
「……瑠璃を、この世に」
口に出した瞬間、声がかすれた。
そして、もう一度、今度ははっきりと、目を閉じて言った。
「僕の記憶は、差し出す」
その言葉は、空気を震わせるほどの大きさではなかった。
けれど、自分自身の奥底を突き動かすには十分だった。
次の瞬間――。
ひゅうっと、何かが通り抜けるような音がして、冷たい風が吹いた。
背筋に沿って寒気が走り、まるで世界が一瞬で凍りついたかのようだった。
尚吾はゆっくりと目を開けた。
目の前には、石がある。
その表面に、日光が反射していた……ように見えた。
だが、それは光ではなかった。脈動するような、何か生きたものの呼吸のような、淡い青い輝き。
尚吾はその輝きに引き寄せられるように、右手を伸ばした。
指先が、石に触れる。
とたんに、視界がぶれるように揺れた。
息が止まる。
胸が締めつけられる。
瞬間、世界が、沈黙した。
まるで水の中に引きずり込まれるような感覚だった。
音も光もなくなって、ただ、深く、暗く、冷たい底へと落ちていく。
その中で、尚吾は目を閉じた。
意識が散り始めていた。
何かが剥がれていく。
言葉。記憶。
名前。声。
笑い方。仕草。香り。泣き顔。怒った顔。
全部、霧のようにほどけていく。
ひとつずつ、ふわり、ふわりと、手の届かない彼方へ。
彼女がいた日々が、少しずつ、淡くなっていくのを感じた。
でも、その渦の中で、尚吾はただ、ひとつのことだけを思っていた。
「これで……瑠璃が、生きてくれるのなら」
その祈りだけが、心の核に残っていた。
声にならなかったその想いが、微かな震えとなって、石の中へと溶けていく。
――ありがとう。
――さようなら。
そう聞こえた気がした。けれどそれが、誰の声だったのかは、もう分からなかった。
――これで、瑠璃が生きてくれるのなら。
その想いが、尚吾の意識の底にぽつりと灯っていた。
けれどそれさえも、次第に遠ざかっていく。
思考はゆるやかにほどけ、記憶が一枚ずつ剥がれるように抜け落ちていく。
最初に消えたのは、声だった。
彼女の名前を呼んだときの響き。笑い声、怒るときの少し高くなる調子――それらが音を失って、ただの無音になった。
続いて、顔が思い出せなくなった。
目の形、前髪の分け方、はにかむように笑う表情。
ひとつずつ輪郭がぼやけて、まるで霧の中に溶けていくようだった。
記憶が失われることに、痛みはなかった。
けれど、何かが“剥がれている”という感覚は確かにあった。
自分の中の、もっとも柔らかい部分に貼りついていた何かが、そっと剥がされるような。
それを止めようとは思わなかった。
――止めてはいけない。
これが、彼女を救うために自分が決めたことなのだから。
尚吾の胸に、微かな温かさが残っていた。
誰かに抱きしめられたような感覚。
あるいは、最後に彼女が微笑んだような――そんな錯覚。
そのぬくもりだけを残して、世界が、完全に沈黙した。
ふと、感覚が戻ったとき、尚吾は自分が桜の木の下に立っていることに気づいた。
月明かりは変わらず降り注ぎ、空気は冷たい。
右手は下ろしたまま、石から少し離れた位置にいた。
足元にノートが落ちていた。
拾い上げようとしたが、手が止まった。
何か、大切なもののような気がする。
けれど、それが何なのか思い出せない。
ノートの表紙には、自分の名前が書かれていた。
隣に、もうひとつ誰かの名前が書かれている。けれど――その文字が、読み取れなかった。
胸の中に、ぽっかりと穴が開いているようだった。
空虚で、どこか冷たく、そしてどこか懐かしいような、そんな感覚。
ここに来た理由も、このノートを持っている理由も、今の尚吾には思い出せなかった。
ふと、空を見上げた。
風が吹いて、桜の枝が揺れる。
ひとひらの花びらが舞い、尚吾の肩に落ちた。
そのとき、彼はなぜか、涙がこぼれそうになるのを感じた。
理由はわからなかった。ただ、胸が締めつけられるように苦しくて、息が詰まった。
けれどそれも、一瞬のことだった。
尚吾はノートを手に、ゆっくりとその場を離れた。
その夜。
病室の中で、ひとつのまぶたがゆっくりと開いた。
白い天井を見つめる瞳は、まだ焦点が合っていなかった。
けれど確かに、その目は“目覚め”の光を宿していた。
ベッド脇に置かれた桜色のヘアゴム。
誰が持ってきたのかも、もう誰も覚えていない。
だがそれは、確かに彼女が選んでつけていたものだった。
彼女の名前は、千草瑠璃。
いま、その瞳に、微かに光が宿り始めていた。
ノートを書き終えた尚吾は、膝の上にそれを置いたまま、桜の木の下でしばらく動けずにいた。
ページの最終行には、彼の文字でこう記されていた。
──君が目を覚ます未来のために、僕の記憶を贈る。
もう何度も読み返した言葉だった。それでも、書いたはずのそれが、すでに他人のもののように感じられる。
尚吾はゆっくりと立ち上がった。
手の中にあるノートの重みは、これまで書いたどんなものよりもはるかに重かった。
震える手で、それを胸元に抱える。
目の前には、桜の根元に沈んだ“あの石”がある。
夜の闇に溶け込むように、静かに、しかし確かに存在していた。
尚吾は歩を進める。
一歩、また一歩。踏み出すたびに、足元の土の感触がじわりと伝わってきた。
身体の中心が冷えていく。だが、心だけは不思議と穏やかだった。
「……瑠璃を、この世に」
口に出した瞬間、声がかすれた。
そして、もう一度、今度ははっきりと、目を閉じて言った。
「僕の記憶は、差し出す」
その言葉は、空気を震わせるほどの大きさではなかった。
けれど、自分自身の奥底を突き動かすには十分だった。
次の瞬間――。
ひゅうっと、何かが通り抜けるような音がして、冷たい風が吹いた。
背筋に沿って寒気が走り、まるで世界が一瞬で凍りついたかのようだった。
尚吾はゆっくりと目を開けた。
目の前には、石がある。
その表面に、日光が反射していた……ように見えた。
だが、それは光ではなかった。脈動するような、何か生きたものの呼吸のような、淡い青い輝き。
尚吾はその輝きに引き寄せられるように、右手を伸ばした。
指先が、石に触れる。
とたんに、視界がぶれるように揺れた。
息が止まる。
胸が締めつけられる。
瞬間、世界が、沈黙した。
まるで水の中に引きずり込まれるような感覚だった。
音も光もなくなって、ただ、深く、暗く、冷たい底へと落ちていく。
その中で、尚吾は目を閉じた。
意識が散り始めていた。
何かが剥がれていく。
言葉。記憶。
名前。声。
笑い方。仕草。香り。泣き顔。怒った顔。
全部、霧のようにほどけていく。
ひとつずつ、ふわり、ふわりと、手の届かない彼方へ。
彼女がいた日々が、少しずつ、淡くなっていくのを感じた。
でも、その渦の中で、尚吾はただ、ひとつのことだけを思っていた。
「これで……瑠璃が、生きてくれるのなら」
その祈りだけが、心の核に残っていた。
声にならなかったその想いが、微かな震えとなって、石の中へと溶けていく。
――ありがとう。
――さようなら。
そう聞こえた気がした。けれどそれが、誰の声だったのかは、もう分からなかった。
――これで、瑠璃が生きてくれるのなら。
その想いが、尚吾の意識の底にぽつりと灯っていた。
けれどそれさえも、次第に遠ざかっていく。
思考はゆるやかにほどけ、記憶が一枚ずつ剥がれるように抜け落ちていく。
最初に消えたのは、声だった。
彼女の名前を呼んだときの響き。笑い声、怒るときの少し高くなる調子――それらが音を失って、ただの無音になった。
続いて、顔が思い出せなくなった。
目の形、前髪の分け方、はにかむように笑う表情。
ひとつずつ輪郭がぼやけて、まるで霧の中に溶けていくようだった。
記憶が失われることに、痛みはなかった。
けれど、何かが“剥がれている”という感覚は確かにあった。
自分の中の、もっとも柔らかい部分に貼りついていた何かが、そっと剥がされるような。
それを止めようとは思わなかった。
――止めてはいけない。
これが、彼女を救うために自分が決めたことなのだから。
尚吾の胸に、微かな温かさが残っていた。
誰かに抱きしめられたような感覚。
あるいは、最後に彼女が微笑んだような――そんな錯覚。
そのぬくもりだけを残して、世界が、完全に沈黙した。
ふと、感覚が戻ったとき、尚吾は自分が桜の木の下に立っていることに気づいた。
月明かりは変わらず降り注ぎ、空気は冷たい。
右手は下ろしたまま、石から少し離れた位置にいた。
足元にノートが落ちていた。
拾い上げようとしたが、手が止まった。
何か、大切なもののような気がする。
けれど、それが何なのか思い出せない。
ノートの表紙には、自分の名前が書かれていた。
隣に、もうひとつ誰かの名前が書かれている。けれど――その文字が、読み取れなかった。
胸の中に、ぽっかりと穴が開いているようだった。
空虚で、どこか冷たく、そしてどこか懐かしいような、そんな感覚。
ここに来た理由も、このノートを持っている理由も、今の尚吾には思い出せなかった。
ふと、空を見上げた。
風が吹いて、桜の枝が揺れる。
ひとひらの花びらが舞い、尚吾の肩に落ちた。
そのとき、彼はなぜか、涙がこぼれそうになるのを感じた。
理由はわからなかった。ただ、胸が締めつけられるように苦しくて、息が詰まった。
けれどそれも、一瞬のことだった。
尚吾はノートを手に、ゆっくりとその場を離れた。
その夜。
病室の中で、ひとつのまぶたがゆっくりと開いた。
白い天井を見つめる瞳は、まだ焦点が合っていなかった。
けれど確かに、その目は“目覚め”の光を宿していた。
ベッド脇に置かれた桜色のヘアゴム。
誰が持ってきたのかも、もう誰も覚えていない。
だがそれは、確かに彼女が選んでつけていたものだった。
彼女の名前は、千草瑠璃。
いま、その瞳に、微かに光が宿り始めていた。
0
あなたにおすすめの小説
邪神の祭壇へ無垢な筋肉を生贄として捧ぐ
零
BL
鍛えられた肉体、高潔な魂――
それは選ばれし“供物”の条件。
山奥の男子校「平坂学園」で、新任教師・高尾雄一は静かに歪み始める。
見えない視線、執着する生徒、触れられる肉体。
誇り高き男は、何に屈し、何に縋るのか。
心と肉体が削がれていく“儀式”が、いま始まる。
【完結】退職を伝えたら、無愛想な上司に囲われました〜逃げられると思ったのが間違いでした〜
来栖れいな
恋愛
逃げたかったのは、
疲れきった日々と、叶うはずのない憧れ――のはずだった。
無愛想で冷静な上司・東條崇雅。
その背中に、ただ静かに憧れを抱きながら、
仕事の重圧と、自分の想いの行き場に限界を感じて、私は退職を申し出た。
けれど――
そこから、彼の態度は変わり始めた。
苦手な仕事から外され、
負担を減らされ、
静かに、けれど確実に囲い込まれていく私。
「辞めるのは認めない」
そんな言葉すらないのに、
無言の圧力と、不器用な優しさが、私を縛りつけていく。
これは愛?
それともただの執着?
じれじれと、甘く、不器用に。
二人の距離は、静かに、でも確かに近づいていく――。
無愛想な上司に、心ごと囲い込まれる、じれじれ溺愛・執着オフィスラブ。
※この物語はフィクションです。
登場する人物・団体・名称・出来事などはすべて架空であり、実在のものとは一切関係ありません。
夫と息子に邪険にされたので王太子妃の座を譲ります~死に戻ってから溺愛されても今更遅い
青の雀
恋愛
夫婦喧嘩の末に置き去りにされた妻は、旦那が若い愛人とイチャついている間に盗賊に襲われ、命を落とした。
神様の温情により、10日間だけこの世に戻った妻と護衛の騎士は、その10日間の間に心残りを処分する。それは、娘の行く末と……もし、来世があるならば、今度は政略といえども夫以外の人の妻になるということ。
もう二度と夫と出会いたくない彼女は、彼女を蔑ろにしてきた息子とも縁を切ることを決意する。
生まれかわった妻は、新しい人生を強く生きることを決意。
過去世と同じ轍を踏みたくない……
上司、快楽に沈むまで
赤林檎
BL
完璧な男――それが、営業部課長・**榊(さかき)**の社内での評判だった。
冷静沈着、部下にも厳しい。私生活の噂すら立たないほどの隙のなさ。
だが、その“完璧”が崩れる日がくるとは、誰も想像していなかった。
入社三年目の篠原は、榊の直属の部下。
真面目だが強気で、どこか挑発的な笑みを浮かべる青年。
ある夜、取引先とのトラブル対応で二人だけが残ったオフィスで、
篠原は上司に向かって、いつもの穏やかな口調を崩した。「……そんな顔、部下には見せないんですね」
疲労で僅かに緩んだ榊の表情。
その弱さを見逃さず、篠原はデスク越しに距離を詰める。
「強がらなくていいですよ。俺の前では、もう」
指先が榊のネクタイを掴む。
引き寄せられた瞬間、榊の理性は音を立てて崩れた。
拒むことも、許すこともできないまま、
彼は“部下”の手によって、ひとつずつ乱されていく。
言葉で支配され、触れられるたびに、自分の知らなかった感情と快楽を知る。それは、上司としての誇りを壊すほどに甘く、逃れられないほどに深い。
だが、篠原の視線の奥に宿るのは、ただの欲望ではなかった。
そこには、ずっと榊だけを見つめ続けてきた、静かな執着がある。
「俺、前から思ってたんです。
あなたが誰かに“支配される”ところ、きっと綺麗だろうなって」
支配する側だったはずの男が、
支配されることで初めて“生きている”と感じてしまう――。
上司と部下、立場も理性も、すべてが絡み合うオフィスの夜。
秘密の扉を開けた榊は、もう戻れない。
快楽に溺れるその瞬間まで、彼を待つのは破滅か、それとも救いか。
――これは、ひとりの上司が“愛”という名の支配に沈んでいく物語。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる