さくらの名のもとに

ukon osumi

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第18話「血と記憶」

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  風が止まったように思えた。午後、空は少し曇っていた。
 ノートを書き終えた尚吾は、膝の上にそれを置いたまま、桜の木の下でしばらく動けずにいた。
 ページの最終行には、彼の文字でこう記されていた。
 ──君が目を覚ます未来のために、僕の記憶を贈る。
 もう何度も読み返した言葉だった。それでも、書いたはずのそれが、すでに他人のもののように感じられる。
 尚吾はゆっくりと立ち上がった。
 手の中にあるノートの重みは、これまで書いたどんなものよりもはるかに重かった。
 震える手で、それを胸元に抱える。
 目の前には、桜の根元に沈んだ“あの石”がある。
 夜の闇に溶け込むように、静かに、しかし確かに存在していた。
 尚吾は歩を進める。
 一歩、また一歩。踏み出すたびに、足元の土の感触がじわりと伝わってきた。
 身体の中心が冷えていく。だが、心だけは不思議と穏やかだった。
 「……瑠璃を、この世に」
 口に出した瞬間、声がかすれた。
 そして、もう一度、今度ははっきりと、目を閉じて言った。
 「僕の記憶は、差し出す」
 その言葉は、空気を震わせるほどの大きさではなかった。
 けれど、自分自身の奥底を突き動かすには十分だった。
 次の瞬間――。
 ひゅうっと、何かが通り抜けるような音がして、冷たい風が吹いた。
 背筋に沿って寒気が走り、まるで世界が一瞬で凍りついたかのようだった。
 尚吾はゆっくりと目を開けた。
 目の前には、石がある。
 その表面に、日光が反射していた……ように見えた。
 だが、それは光ではなかった。脈動するような、何か生きたものの呼吸のような、淡い青い輝き。
 尚吾はその輝きに引き寄せられるように、右手を伸ばした。
 指先が、石に触れる。
 とたんに、視界がぶれるように揺れた。
 息が止まる。
 胸が締めつけられる。
 瞬間、世界が、沈黙した。
 まるで水の中に引きずり込まれるような感覚だった。
 音も光もなくなって、ただ、深く、暗く、冷たい底へと落ちていく。
 その中で、尚吾は目を閉じた。
 意識が散り始めていた。
 何かが剥がれていく。
 言葉。記憶。
 名前。声。
 笑い方。仕草。香り。泣き顔。怒った顔。
 全部、霧のようにほどけていく。
 ひとつずつ、ふわり、ふわりと、手の届かない彼方へ。
 彼女がいた日々が、少しずつ、淡くなっていくのを感じた。
 でも、その渦の中で、尚吾はただ、ひとつのことだけを思っていた。
 「これで……瑠璃が、生きてくれるのなら」
 その祈りだけが、心の核に残っていた。
 声にならなかったその想いが、微かな震えとなって、石の中へと溶けていく。
 ――ありがとう。
 ――さようなら。
 そう聞こえた気がした。けれどそれが、誰の声だったのかは、もう分からなかった。
 
  ――これで、瑠璃が生きてくれるのなら。
 その想いが、尚吾の意識の底にぽつりと灯っていた。
 けれどそれさえも、次第に遠ざかっていく。
 思考はゆるやかにほどけ、記憶が一枚ずつ剥がれるように抜け落ちていく。
 最初に消えたのは、声だった。
 彼女の名前を呼んだときの響き。笑い声、怒るときの少し高くなる調子――それらが音を失って、ただの無音になった。
 続いて、顔が思い出せなくなった。
 目の形、前髪の分け方、はにかむように笑う表情。
 ひとつずつ輪郭がぼやけて、まるで霧の中に溶けていくようだった。
 記憶が失われることに、痛みはなかった。
 けれど、何かが“剥がれている”という感覚は確かにあった。
 自分の中の、もっとも柔らかい部分に貼りついていた何かが、そっと剥がされるような。
 それを止めようとは思わなかった。
 ――止めてはいけない。
 これが、彼女を救うために自分が決めたことなのだから。
 尚吾の胸に、微かな温かさが残っていた。
 誰かに抱きしめられたような感覚。
 あるいは、最後に彼女が微笑んだような――そんな錯覚。
 そのぬくもりだけを残して、世界が、完全に沈黙した。
 
  ふと、感覚が戻ったとき、尚吾は自分が桜の木の下に立っていることに気づいた。
 月明かりは変わらず降り注ぎ、空気は冷たい。
 右手は下ろしたまま、石から少し離れた位置にいた。
 足元にノートが落ちていた。
 拾い上げようとしたが、手が止まった。
 何か、大切なもののような気がする。
 けれど、それが何なのか思い出せない。
 ノートの表紙には、自分の名前が書かれていた。
 隣に、もうひとつ誰かの名前が書かれている。けれど――その文字が、読み取れなかった。
 胸の中に、ぽっかりと穴が開いているようだった。
 空虚で、どこか冷たく、そしてどこか懐かしいような、そんな感覚。
 ここに来た理由も、このノートを持っている理由も、今の尚吾には思い出せなかった。
 ふと、空を見上げた。
 風が吹いて、桜の枝が揺れる。
 ひとひらの花びらが舞い、尚吾の肩に落ちた。
 そのとき、彼はなぜか、涙がこぼれそうになるのを感じた。
 理由はわからなかった。ただ、胸が締めつけられるように苦しくて、息が詰まった。
 けれどそれも、一瞬のことだった。
 尚吾はノートを手に、ゆっくりとその場を離れた。
 
  その夜。
 病室の中で、ひとつのまぶたがゆっくりと開いた。
 白い天井を見つめる瞳は、まだ焦点が合っていなかった。
 けれど確かに、その目は“目覚め”の光を宿していた。
 ベッド脇に置かれた桜色のヘアゴム。
 誰が持ってきたのかも、もう誰も覚えていない。
 だがそれは、確かに彼女が選んでつけていたものだった。
 彼女の名前は、千草瑠璃。
 いま、その瞳に、微かに光が宿り始めていた。
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