さくらの名のもとに

ukon osumi

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第19話「白紙のノート」

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  朝の光がカーテン越しに差し込んでいた。
 けれど、尚吾はしばらくそれに気づかなかった。
 目を開けてからも、視界がぼんやりと霞んでいた。まるで夢の続きを引きずるような、そんな感覚が身体の奥に残っている。
 見覚えのある天井。
 壁の時計は、すでに七時を少し過ぎている。
 布団の中にいる自分が、どれだけの時間、目を開けたまま横たわっていたのかもわからなかった。
 起き上がろうとしたとき、ふと違和感が胸の奥に走った。
 何かが、足りない。
 失くした、とも、思い出せない、とも少し違う。
 けれど、確かにそこにあったはずの何かが、今はない。
 尚吾はゆっくりと身体を起こした。
 部屋の空気は少し冷えていて、床に置いたスリッパの位置が少しずれていた。
 そのすべてが、「日常」と呼ぶにはわずかに整いすぎていて、妙に落ち着かなかった。
 デスクの上に、白いノートが置かれていた。
 薄く汚れた角。表紙にラベルもタイトルもない。
 ページをめくってみると、すべてが真っ白だった。線も、文字も、跡もない。
 けれど、なぜかそれを捨てようとは思えなかった。
 「なんだこれ……?」
 誰に問うでもない声が、ぽつりとこぼれる。
 手触りは馴染みがあった。けれど、見覚えはまったくない。
 それでも、どこかで自分に関係している気がして、尚吾はそれをそっと閉じた。
 布団から抜け出すと、足が冷たくて軽く身震いする。
 廊下を抜けて洗面所に向かい、鏡の前に立った。
 顔はいつも通りだった。けれど、自分の中に“いつも通り”と比べられる何かが、本当にあるのか、自信がなかった。
 寝癖を直しながら、尚吾はもう一度、自室に置かれた白いノートのことを思い出した。
 なぜかあれが気になる。どうしても気になる。
 けれど、理由はわからない。中身が白紙であることは確かで、そこにヒントのようなものは何もなかった。
 「夢でも見たのか……?」
 口に出してそう言ったとき、脳裏に淡い光景が浮かんだ。
 枝を揺らす風。空に溶ける花びら。何か大切なことを、そこで誰かと話していた気がする。
 その“誰か”が誰なのか、思い出そうとするたびに、霧がかかったように遠のいていく。
 名を呼ぼうとすると、口の中で言葉が崩れた。
 「……なんか、変な夢見た気がする」
 そう呟きながら階段を下りると、キッチンから香ばしい匂いが漂ってきた。
 パンを焼く音、カップを置く音、紅茶の湯気。日常の音と匂いが、尚吾をゆっくりと現実に引き戻していく。
 ダイニングには父の達彦が新聞を読んで座っていた。
 母の陽子は紅茶をポットから注ぎながら、ふと尚吾に目を向けた。
 「おはよう、起きられた?」
 「……うん」
 短く答えながら席に着くと、父が新聞の端を折って顔を出した。
 「顔色悪いぞ。寝不足か?」
 「うーん……よく寝たはずなんだけど。変な夢を見た気がする」
 そう言うと、父はフンと笑って新聞を戻した。
 「疲れてるだけじゃないか。春は眠くなる季節だしな」
 「そうかもな……」
 尚吾は湯気の立つ紅茶に手を伸ばし、カップを顔に近づけた。
 そのとき――ふと、ほのかに花の香りが混じった気がした。
 それは、記憶のどこかで知っている香りだった。
 でも、思い出そうとするほど遠ざかる。
 鼻先をかすめるだけで、すぐに消えてしまう儚い香り。
 「……気のせいかもしれないけど、桜の花の香りがした気がしてね」
 言った瞬間、ふたりの親はふと動きを止めた。
 けれど、何も言わなかった。父は新聞を読み続け、母はそっと紅茶を差し出しただけだった。
 静かな朝だった。
 けれど、尚吾の胸の奥では、何かが微かにきしむ音を立てていた。
 
  紅茶の湯気がゆらゆらと立ち上っていた。
 温かいはずなのに、そのぬくもりが胸の奥には届かない。
 尚吾は、ただ静かに湯飲みを見つめていた。
 「なんか、変な夢見た気がする」
 ぽつりと呟いた言葉は、朝の食卓に溶けていった。
 父は新聞を読みながら「疲れてるだけじゃないか」と笑い、母は言葉を返さず、そっと紅茶を差し出した。
 それ以上の会話はなかった。
 けれど、尚吾の胸には、言葉にならないざらつきが残っていた。
 部屋に戻って、机の前に座る。
 そこには朝からずっと気になっている、白紙のノートがあった。
 見覚えはない。けれど、まるで昔からそこにあったかのような存在感があった。
 手に取って、開く。ページはすべて白い。
 けれど、白すぎるその余白が、妙に気にかかった。
 尚吾は一枚ずつ、ゆっくりとページを繰った。
 ときおり、何かに触れたような感触がする。けれど、それが何だったのか、思い出すことはできなかった。
 「……ほんとに、何も書いてないんだな」
 小さく呟いて、尚吾は指先で紙の端を撫でる。
 たしかに何もない。けれど、まるで“何かを消した”ような気配が、かすかに残っている。
 そんな気がしただけかもしれない。
 でも、そう思った瞬間、指先に微かなざらつきが伝わった。
 あるページの一部に、薄く、乾いた跡がある。
 インクではない。赤黒い、染みのような跡。
 それが何かはわからない。けれど、尚吾はなぜか、それに触れてはいけない気がして、そっとページを閉じた。
 深呼吸をして、ノートを見下ろす。
 捨てようとは思わなかった。かといって、大事なものだと確信があるわけでもない。
 それでも、これは――自分の手元に、今ここにあるべきもののように感じた。
 その理由が何なのか、自分にはわからない。
 けれど、ノートを閉じる動作のひとつひとつに、慎重さが混じっていた。
 尚吾はそれをそっと引き出しに戻した。
 けれど、閉じる前にもう一度、表紙を見つめた。
 真っ白で、何の文字も印もない。
 それなのに、その表紙の奥に、なぜか誰かの気配を感じるような気がした。
 気のせいだと思った。そう思いたかった。
 けれど、それでも目が離せなかった。
 ノートを閉じて引き出しを静かに閉じたあと、尚吾は椅子にもたれ、天井を見上げた。
 なにか、大事なことが、すぐそこまで来ている――そんな直感だけが、消えずに残っていた。
 窓の外から風の音が聞こえる。
 春が終わろうとしている。
 けれど、枝先にはまだ数枚、桜の花びらがしがみついていた。
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