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第20話「呼び声」
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三月も終わりに近づいたある朝、尚吾のスマートフォンに一通のメッセージが届いた。
表示された送信者名は「瑠璃」。
けれど、その名前を見ても、彼の記憶には何の手がかりも浮かばなかった。
誰だろう――という問いすら、なぜかすぐには浮かばない。
ただ、そこに表示された文面が胸の奥に妙な静けさをもたらした。
《明日の午後、またあの桜のところで会えないかな?》
たったそれだけの文章だった。
しかし尚吾は、その言葉に対して抗えない衝動を覚えた。
思い出せない名前、会った記憶もないのに、“また”という言葉が、自分宛であることを疑えないほど自然に響いた。
誰かと間違っているのかとも思ったが、それ以上に気になったのは、自分の中に芽生えた“確信のような違和感”だった。
――行かなきゃ。
なぜそう思ったのか、理由ははっきりしない。
けれど、心のどこかで「その場に行かなければならない」という感覚だけが強く残った。
そうして尚吾は、何の迷いもなく荷物をまとめ、午後にはバスタ新宿へと向かっていた。
春休みの新宿バスターミナルは混み合っていたが、窓口で購入した山梨行きの高速バスの切符を手に入れ、発車までの短い待ち時間を、尚吾は手元の白紙のノートを見つめながら過ごしていた。
ページはどこを開いても、何も書かれていなかった。
それでも、不思議と手放したくない。持っていたい。――そんな気持ちがあった。
なぜかはわからない。けれど、このノートには何かが詰まっている、そんな感覚だけがあった。
午後三時七分、バスは定刻どおりに新宿を出発した。
尚吾は車窓を流れる景色をぼんやりと眺めながら、自分でも理解できない静けさの中にいた。
何かが終わろうとしているような、あるいは何かが始まる前のような、そんな不思議な予感だった。
座席の背もたれに身を預けると、尚吾は上着の内ポケットからノートを取り出し、表紙を指でなぞった。
何も書かれていないそれは、ただの文具に過ぎないはずなのに、彼にとってはそれだけではない気がしていた。
やがてバスは高速道路を抜け、山間の町に向けて進んでいく。
空は少し曇っていたが、山の端に夕陽が淡く光を差していた。
尚吾はゆっくりと目を閉じ、明日――自分が誰と、なぜ会うのかを確かめるためだけに、その夜を迎えようとしていた。
バスが地元のターミナルに到着したのは、午後六時半を少し過ぎた頃だった。
外はすっかり暗くなっていて、街路灯が点々と灯り、歩道に長い影を落としていた。
尚吾はバスを降りて、吸い込むように夜の空気を胸いっぱいに取り込んだ。肌に触れる風が、東京とはまったく違うものに感じられた。
記憶はない。けれど、この町の匂いや気配には、どこか身体の奥がざわつくような既視感があった。
馴染みのないはずの道が、まるで彼を導くように足元を照らしていた。
尚吾はスマートフォンをポケットに入れ直し、まっすぐに家路を辿り始めた。
この時間になると、駅前の喧騒もやや静まり、通行人も少ない。
飲食店の明かりと、コンビニのガラス越しに漏れるBGMが、町の夜を飾っていた。
数分も歩けば、古い住宅街に入り、道幅が狭くなる。足元の舗装が少しだけ荒れていて、どこか懐かしい感じがする。――そう、懐かしいと“感じてしまう”自分がいた。
実家の門扉の前に立ち、チャイムを鳴らす前に、ふと手を止めた。
敷地の奥から漏れてくる灯り。台所の窓には母の影が映っていた。
玄関の扉を開けると、すぐに母の声がした。
「尚吾? ……帰ってきたの?」
「ただいま」
その言葉が自然に出たことに、自分でも少し驚いた。
靴を脱ぎながら見上げると、母・陽子がキッチンから顔をのぞかせていた。
彼女は目を丸くし、それからすぐに微笑んだ。
「どうしたの? 連絡もなしに。……なにかあった?」
「ううん、ちょっと……会いたい人がいて」
尚吾の言葉に、陽子はそれ以上は何も聞かなかった。
ただ、「お風呂、すぐ入れるようにしとくわね」とだけ言って、再び台所に戻っていった。
夕食は、思った以上に普通だった。父・達彦も居間にいて、テレビのニュースをぼんやり見ていた。
三人で食卓を囲む時間はどこか心地よく、それが久しぶりなのかどうかも、尚吾にはもうわからなかった。
食後、自室に戻った尚吾は、荷物の中からあのノートを取り出した。
白紙のままのその表紙を見つめるたびに、胸の奥がかすかにざわめく。
理由はわからないが、ただ“これだけは持ってこなければ”と思っていたのだ。
ページをめくる。どこにも文字はない。
けれど、その無地の中に、目に見えない何かが沈んでいるような気がしてならなかった。
書かれていない言葉。まだ浮かび上がっていない記憶。
いや、そもそも記憶という言葉すら、いまの彼には掴みきれない曖昧な輪郭のものだった。
尚吾はノートを閉じると、ベッドの上に置いたまま、窓の外を見やった。
カーテン越しに、夜空の一部が覗いている。星は見えないが、月が雲の切れ間から顔を出していた。
ふと、スマホを手に取って確認する。
アプリには、あのメッセージがまだ表示されたままだ。「またあの桜のところで会えないかな?」
その文面が、ずっと彼の胸に残っている。
明日、午後。
校庭に咲く桜の木の下で、なにかが始まる。
確信はなかった。ただ、そう感じている自分がいた。
尚吾はノートをそっと机の引き出しに戻した。
そして、明日の天気を思い浮かべるように、ゆっくりと目を閉じた。
白紙のノートは静かにそこにありながら、どこかで――時を待っていた。
表示された送信者名は「瑠璃」。
けれど、その名前を見ても、彼の記憶には何の手がかりも浮かばなかった。
誰だろう――という問いすら、なぜかすぐには浮かばない。
ただ、そこに表示された文面が胸の奥に妙な静けさをもたらした。
《明日の午後、またあの桜のところで会えないかな?》
たったそれだけの文章だった。
しかし尚吾は、その言葉に対して抗えない衝動を覚えた。
思い出せない名前、会った記憶もないのに、“また”という言葉が、自分宛であることを疑えないほど自然に響いた。
誰かと間違っているのかとも思ったが、それ以上に気になったのは、自分の中に芽生えた“確信のような違和感”だった。
――行かなきゃ。
なぜそう思ったのか、理由ははっきりしない。
けれど、心のどこかで「その場に行かなければならない」という感覚だけが強く残った。
そうして尚吾は、何の迷いもなく荷物をまとめ、午後にはバスタ新宿へと向かっていた。
春休みの新宿バスターミナルは混み合っていたが、窓口で購入した山梨行きの高速バスの切符を手に入れ、発車までの短い待ち時間を、尚吾は手元の白紙のノートを見つめながら過ごしていた。
ページはどこを開いても、何も書かれていなかった。
それでも、不思議と手放したくない。持っていたい。――そんな気持ちがあった。
なぜかはわからない。けれど、このノートには何かが詰まっている、そんな感覚だけがあった。
午後三時七分、バスは定刻どおりに新宿を出発した。
尚吾は車窓を流れる景色をぼんやりと眺めながら、自分でも理解できない静けさの中にいた。
何かが終わろうとしているような、あるいは何かが始まる前のような、そんな不思議な予感だった。
座席の背もたれに身を預けると、尚吾は上着の内ポケットからノートを取り出し、表紙を指でなぞった。
何も書かれていないそれは、ただの文具に過ぎないはずなのに、彼にとってはそれだけではない気がしていた。
やがてバスは高速道路を抜け、山間の町に向けて進んでいく。
空は少し曇っていたが、山の端に夕陽が淡く光を差していた。
尚吾はゆっくりと目を閉じ、明日――自分が誰と、なぜ会うのかを確かめるためだけに、その夜を迎えようとしていた。
バスが地元のターミナルに到着したのは、午後六時半を少し過ぎた頃だった。
外はすっかり暗くなっていて、街路灯が点々と灯り、歩道に長い影を落としていた。
尚吾はバスを降りて、吸い込むように夜の空気を胸いっぱいに取り込んだ。肌に触れる風が、東京とはまったく違うものに感じられた。
記憶はない。けれど、この町の匂いや気配には、どこか身体の奥がざわつくような既視感があった。
馴染みのないはずの道が、まるで彼を導くように足元を照らしていた。
尚吾はスマートフォンをポケットに入れ直し、まっすぐに家路を辿り始めた。
この時間になると、駅前の喧騒もやや静まり、通行人も少ない。
飲食店の明かりと、コンビニのガラス越しに漏れるBGMが、町の夜を飾っていた。
数分も歩けば、古い住宅街に入り、道幅が狭くなる。足元の舗装が少しだけ荒れていて、どこか懐かしい感じがする。――そう、懐かしいと“感じてしまう”自分がいた。
実家の門扉の前に立ち、チャイムを鳴らす前に、ふと手を止めた。
敷地の奥から漏れてくる灯り。台所の窓には母の影が映っていた。
玄関の扉を開けると、すぐに母の声がした。
「尚吾? ……帰ってきたの?」
「ただいま」
その言葉が自然に出たことに、自分でも少し驚いた。
靴を脱ぎながら見上げると、母・陽子がキッチンから顔をのぞかせていた。
彼女は目を丸くし、それからすぐに微笑んだ。
「どうしたの? 連絡もなしに。……なにかあった?」
「ううん、ちょっと……会いたい人がいて」
尚吾の言葉に、陽子はそれ以上は何も聞かなかった。
ただ、「お風呂、すぐ入れるようにしとくわね」とだけ言って、再び台所に戻っていった。
夕食は、思った以上に普通だった。父・達彦も居間にいて、テレビのニュースをぼんやり見ていた。
三人で食卓を囲む時間はどこか心地よく、それが久しぶりなのかどうかも、尚吾にはもうわからなかった。
食後、自室に戻った尚吾は、荷物の中からあのノートを取り出した。
白紙のままのその表紙を見つめるたびに、胸の奥がかすかにざわめく。
理由はわからないが、ただ“これだけは持ってこなければ”と思っていたのだ。
ページをめくる。どこにも文字はない。
けれど、その無地の中に、目に見えない何かが沈んでいるような気がしてならなかった。
書かれていない言葉。まだ浮かび上がっていない記憶。
いや、そもそも記憶という言葉すら、いまの彼には掴みきれない曖昧な輪郭のものだった。
尚吾はノートを閉じると、ベッドの上に置いたまま、窓の外を見やった。
カーテン越しに、夜空の一部が覗いている。星は見えないが、月が雲の切れ間から顔を出していた。
ふと、スマホを手に取って確認する。
アプリには、あのメッセージがまだ表示されたままだ。「またあの桜のところで会えないかな?」
その文面が、ずっと彼の胸に残っている。
明日、午後。
校庭に咲く桜の木の下で、なにかが始まる。
確信はなかった。ただ、そう感じている自分がいた。
尚吾はノートをそっと机の引き出しに戻した。
そして、明日の天気を思い浮かべるように、ゆっくりと目を閉じた。
白紙のノートは静かにそこにありながら、どこかで――時を待っていた。
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