さくらの名のもとに

ukon osumi

文字の大きさ
20 / 24

 第20話「呼び声」

しおりを挟む
  三月も終わりに近づいたある朝、尚吾のスマートフォンに一通のメッセージが届いた。
 表示された送信者名は「瑠璃」。
 けれど、その名前を見ても、彼の記憶には何の手がかりも浮かばなかった。
 誰だろう――という問いすら、なぜかすぐには浮かばない。
 ただ、そこに表示された文面が胸の奥に妙な静けさをもたらした。
 《明日の午後、またあの桜のところで会えないかな?》
 たったそれだけの文章だった。
 しかし尚吾は、その言葉に対して抗えない衝動を覚えた。
 思い出せない名前、会った記憶もないのに、“また”という言葉が、自分宛であることを疑えないほど自然に響いた。
 誰かと間違っているのかとも思ったが、それ以上に気になったのは、自分の中に芽生えた“確信のような違和感”だった。
 ――行かなきゃ。
 なぜそう思ったのか、理由ははっきりしない。
 けれど、心のどこかで「その場に行かなければならない」という感覚だけが強く残った。
 そうして尚吾は、何の迷いもなく荷物をまとめ、午後にはバスタ新宿へと向かっていた。
 春休みの新宿バスターミナルは混み合っていたが、窓口で購入した山梨行きの高速バスの切符を手に入れ、発車までの短い待ち時間を、尚吾は手元の白紙のノートを見つめながら過ごしていた。
 ページはどこを開いても、何も書かれていなかった。
 それでも、不思議と手放したくない。持っていたい。――そんな気持ちがあった。
 なぜかはわからない。けれど、このノートには何かが詰まっている、そんな感覚だけがあった。
 午後三時七分、バスは定刻どおりに新宿を出発した。
 尚吾は車窓を流れる景色をぼんやりと眺めながら、自分でも理解できない静けさの中にいた。
 何かが終わろうとしているような、あるいは何かが始まる前のような、そんな不思議な予感だった。
 座席の背もたれに身を預けると、尚吾は上着の内ポケットからノートを取り出し、表紙を指でなぞった。
 何も書かれていないそれは、ただの文具に過ぎないはずなのに、彼にとってはそれだけではない気がしていた。
 やがてバスは高速道路を抜け、山間の町に向けて進んでいく。
 空は少し曇っていたが、山の端に夕陽が淡く光を差していた。
 尚吾はゆっくりと目を閉じ、明日――自分が誰と、なぜ会うのかを確かめるためだけに、その夜を迎えようとしていた。
 
  バスが地元のターミナルに到着したのは、午後六時半を少し過ぎた頃だった。
 外はすっかり暗くなっていて、街路灯が点々と灯り、歩道に長い影を落としていた。
 尚吾はバスを降りて、吸い込むように夜の空気を胸いっぱいに取り込んだ。肌に触れる風が、東京とはまったく違うものに感じられた。
 記憶はない。けれど、この町の匂いや気配には、どこか身体の奥がざわつくような既視感があった。
 馴染みのないはずの道が、まるで彼を導くように足元を照らしていた。
 尚吾はスマートフォンをポケットに入れ直し、まっすぐに家路を辿り始めた。
 この時間になると、駅前の喧騒もやや静まり、通行人も少ない。
 飲食店の明かりと、コンビニのガラス越しに漏れるBGMが、町の夜を飾っていた。
 数分も歩けば、古い住宅街に入り、道幅が狭くなる。足元の舗装が少しだけ荒れていて、どこか懐かしい感じがする。――そう、懐かしいと“感じてしまう”自分がいた。
 実家の門扉の前に立ち、チャイムを鳴らす前に、ふと手を止めた。
 敷地の奥から漏れてくる灯り。台所の窓には母の影が映っていた。
 玄関の扉を開けると、すぐに母の声がした。
 「尚吾? ……帰ってきたの?」
 「ただいま」
 その言葉が自然に出たことに、自分でも少し驚いた。
 靴を脱ぎながら見上げると、母・陽子がキッチンから顔をのぞかせていた。
 彼女は目を丸くし、それからすぐに微笑んだ。
 「どうしたの? 連絡もなしに。……なにかあった?」
 「ううん、ちょっと……会いたい人がいて」
 尚吾の言葉に、陽子はそれ以上は何も聞かなかった。
 ただ、「お風呂、すぐ入れるようにしとくわね」とだけ言って、再び台所に戻っていった。
 夕食は、思った以上に普通だった。父・達彦も居間にいて、テレビのニュースをぼんやり見ていた。
 三人で食卓を囲む時間はどこか心地よく、それが久しぶりなのかどうかも、尚吾にはもうわからなかった。
 食後、自室に戻った尚吾は、荷物の中からあのノートを取り出した。
 白紙のままのその表紙を見つめるたびに、胸の奥がかすかにざわめく。
 理由はわからないが、ただ“これだけは持ってこなければ”と思っていたのだ。
 ページをめくる。どこにも文字はない。
 けれど、その無地の中に、目に見えない何かが沈んでいるような気がしてならなかった。
 書かれていない言葉。まだ浮かび上がっていない記憶。
 いや、そもそも記憶という言葉すら、いまの彼には掴みきれない曖昧な輪郭のものだった。
 尚吾はノートを閉じると、ベッドの上に置いたまま、窓の外を見やった。
 カーテン越しに、夜空の一部が覗いている。星は見えないが、月が雲の切れ間から顔を出していた。
 ふと、スマホを手に取って確認する。
 アプリには、あのメッセージがまだ表示されたままだ。「またあの桜のところで会えないかな?」
 その文面が、ずっと彼の胸に残っている。
 明日、午後。
 校庭に咲く桜の木の下で、なにかが始まる。
 確信はなかった。ただ、そう感じている自分がいた。
 尚吾はノートをそっと机の引き出しに戻した。
 そして、明日の天気を思い浮かべるように、ゆっくりと目を閉じた。
 白紙のノートは静かにそこにありながら、どこかで――時を待っていた。
しおりを挟む
感想 0

あなたにおすすめの小説

夫婦交換

山田森湖
恋愛
好奇心から始まった一週間の“夫婦交換”。そこで出会った新鮮なときめき

邪神の祭壇へ無垢な筋肉を生贄として捧ぐ

BL
鍛えられた肉体、高潔な魂―― それは選ばれし“供物”の条件。 山奥の男子校「平坂学園」で、新任教師・高尾雄一は静かに歪み始める。 見えない視線、執着する生徒、触れられる肉体。 誇り高き男は、何に屈し、何に縋るのか。 心と肉体が削がれていく“儀式”が、いま始まる。

【完結】退職を伝えたら、無愛想な上司に囲われました〜逃げられると思ったのが間違いでした〜

来栖れいな
恋愛
逃げたかったのは、 疲れきった日々と、叶うはずのない憧れ――のはずだった。 無愛想で冷静な上司・東條崇雅。 その背中に、ただ静かに憧れを抱きながら、 仕事の重圧と、自分の想いの行き場に限界を感じて、私は退職を申し出た。 けれど―― そこから、彼の態度は変わり始めた。 苦手な仕事から外され、 負担を減らされ、 静かに、けれど確実に囲い込まれていく私。 「辞めるのは認めない」 そんな言葉すらないのに、 無言の圧力と、不器用な優しさが、私を縛りつけていく。 これは愛? それともただの執着? じれじれと、甘く、不器用に。 二人の距離は、静かに、でも確かに近づいていく――。 無愛想な上司に、心ごと囲い込まれる、じれじれ溺愛・執着オフィスラブ。 ※この物語はフィクションです。 登場する人物・団体・名称・出来事などはすべて架空であり、実在のものとは一切関係ありません。

夫と息子に邪険にされたので王太子妃の座を譲ります~死に戻ってから溺愛されても今更遅い

青の雀
恋愛
夫婦喧嘩の末に置き去りにされた妻は、旦那が若い愛人とイチャついている間に盗賊に襲われ、命を落とした。 神様の温情により、10日間だけこの世に戻った妻と護衛の騎士は、その10日間の間に心残りを処分する。それは、娘の行く末と……もし、来世があるならば、今度は政略といえども夫以外の人の妻になるということ。 もう二度と夫と出会いたくない彼女は、彼女を蔑ろにしてきた息子とも縁を切ることを決意する。 生まれかわった妻は、新しい人生を強く生きることを決意。 過去世と同じ轍を踏みたくない……

上司、快楽に沈むまで

赤林檎
BL
完璧な男――それが、営業部課長・**榊(さかき)**の社内での評判だった。 冷静沈着、部下にも厳しい。私生活の噂すら立たないほどの隙のなさ。 だが、その“完璧”が崩れる日がくるとは、誰も想像していなかった。 入社三年目の篠原は、榊の直属の部下。 真面目だが強気で、どこか挑発的な笑みを浮かべる青年。 ある夜、取引先とのトラブル対応で二人だけが残ったオフィスで、 篠原は上司に向かって、いつもの穏やかな口調を崩した。「……そんな顔、部下には見せないんですね」 疲労で僅かに緩んだ榊の表情。 その弱さを見逃さず、篠原はデスク越しに距離を詰める。 「強がらなくていいですよ。俺の前では、もう」 指先が榊のネクタイを掴む。 引き寄せられた瞬間、榊の理性は音を立てて崩れた。 拒むことも、許すこともできないまま、 彼は“部下”の手によって、ひとつずつ乱されていく。 言葉で支配され、触れられるたびに、自分の知らなかった感情と快楽を知る。それは、上司としての誇りを壊すほどに甘く、逃れられないほどに深い。 だが、篠原の視線の奥に宿るのは、ただの欲望ではなかった。 そこには、ずっと榊だけを見つめ続けてきた、静かな執着がある。 「俺、前から思ってたんです。  あなたが誰かに“支配される”ところ、きっと綺麗だろうなって」 支配する側だったはずの男が、 支配されることで初めて“生きている”と感じてしまう――。 上司と部下、立場も理性も、すべてが絡み合うオフィスの夜。 秘密の扉を開けた榊は、もう戻れない。 快楽に溺れるその瞬間まで、彼を待つのは破滅か、それとも救いか。 ――これは、ひとりの上司が“愛”という名の支配に沈んでいく物語。

完結 辺境伯様に嫁いで半年、完全に忘れられているようです   

ヴァンドール
恋愛
実家でも忘れられた存在で 嫁いだ辺境伯様にも離れに追いやられ、それすら 忘れ去られて早、半年が過ぎました。

さようなら婚約者

あんど もあ
ファンタジー
アンジュは、五年間虐げられた婚約者から婚約破棄を告げられる。翌日、カバン一つを持って五年住んだ婚約者の家を去るアンジュ。一方、婚約者は…。

あなたが決めたことよ

アーエル
恋愛
その日は私の誕生日パーティーの三日前のことでした。 前触れもなく「婚約の話は無かったことにしよう」と言われたのです。 ‪✰他社でも公開

処理中です...