さくらの名のもとに

ukon osumi

文字の大きさ
21 / 24

 第21話「稲光と記憶」

しおりを挟む
  校庭に着いたのは、午後二時を少し回った頃だった。
 春の日差しが柔らかく降り注ぎ、桜の木々は薄紅の花をまばらに残していた。
 尚吾は、誰に言われたわけでもないのに、その場所に向かっていた。
 その理由も目的も、自分では説明できなかった。ただ、胸の奥の方で何かが引かれるように動いた。
 その引力に導かれるようにして、尚吾は桜の下へと歩みを進めた。
 そこには、誰かがいた。
 陽光を背にして、一本の木の根元に立つ、ひとりの女性。
 見覚えがあるはずなのに、思い出せない。
 けれど、その姿は確かに、自分の心のどこか深い場所に刻まれていた。
 女性が口を開いた。
 「ごめんね。ずっと寝てて……あなたのことを待たせてしまったわね」
 その言葉が空気を震わせた瞬間、尚吾の心臓がひとつ脈打った。
 何も覚えていないのに、何かを思い出しそうな感覚。
 言葉が胸の奥を震わせ、静かに染み込んでくる。
 尚吾は一歩、また一歩と近づいていった。
 その時、足元で何かが微かに動いた気がして、思わず立ち止まる。
 地面が、わずかに盛り上がっている。
 気のせいかと思ったが、次の瞬間、黒い石が地面の中からせり上がるように現れた。
 つや消しのような質感を持ち、無機質な冷たさとは異なる、どこか生き物のような気配を帯びていた。
 尚吾の呼吸が止まりかけた。
 足を踏み出した瞬間、足元の土がわずかに崩れ、身体がぐらりと傾いた。
 前のめりに倒れそうになる勢いの中、胸ポケットに入れていた白紙のノートが弾かれるように飛び出した。
 ノートはふわりと宙を舞い、地面に落ちるかと思われた――
 が、まっすぐに、黒い石の上に落ちた。
 ページの端が風にめくれ、ノートの角が石に触れた瞬間。
 世界が一変した。
 バリバリッ――と空気を裂くような雷鳴が、校庭の空に轟く。
 見上げれば、雲の切れ間から一筋の稲光が走っていた。
 石の表面に、淡く赤い滲みが浮かび上がっている。
 それは、尚吾があの夜にノートへと記した“血”の色と、まったく同じだった。
 ノートと石――それぞれに滲んだ血が、呼び合うように脈動していた。
 女性が静かに歩み寄り、尚吾の横にしゃがみ込むと、石の上に置かれたノートをそっと拾い上げた。
 彼女の手の中にある白紙のノートから、わずかに光が漏れた気がした。
 「これ、あなたの……だよね?」
 尚吾はうなずいた。けれどその瞬間、目の前で起きたことが、現実なのか夢なのか判断がつかなくなった。
 彼女が手渡してくれたノートを開くと、白紙だったはずのページに、うっすらと――
 一行の文字が、浮かび上がろうとしていた。
 
  尚吾の手の中で、ノートがわずかに震えた。
 開かれたページの中央に、にじむように文字が浮かび始めていた。
 最初に現れたのは、たったひとつの名前――
 「瑠璃」
 その文字を見た瞬間、尚吾の中で何かが音を立てて崩れた。
 記憶ではなかった。けれど、心が反応した。
 呼び慣れたその名が、胸の奥の空白に、熱を伴って触れた。
 さらに、ページが風にめくられた。
 そこには手書きの文字が並んでいた。乱れながらも、丁寧に書かれた、言葉の羅列。
 「笑った顔が好きだった」
 「春の風が吹くと、君を思い出す」
 「君がいなかったら、たぶん僕は、強くなれなかった」
 どれも、自分が書いたはずのもの。
 けれど、書いた記憶がない。
 読んだ瞬間に、それが“自分の言葉”だとわかるのに――思い出せない。
 目の奥がじわりと熱くなった。
 ページをめくるたび、そこに書かれていたのは、恋の記録。日々の記憶。願いと後悔。
 そして、最後のページにだけ、色が違うインクでこう記されていた。
 「瑠璃が、未来に笑っていられますように」
 「僕の記憶は要らない。君が生きてくれるなら、それでいい」
 手が、震えていた。
 涙が零れそうだった。
 それなのに、まだ思い出せない。彼女の名前を見ても、心は震えるのに、記憶は戻ってこない。
 尚吾はゆっくりと顔を上げた。
 女性――瑠璃は、目を潤ませたまま、黙って彼を見つめていた。
 そして、微かに口を開く。
 「そのノート……あの夜、あなたが残してくれたのね」
 「私が目覚めるために、必要だったもの……」
 言葉を交わすたびに、空気が変わっていく。
 春の風が吹き抜け、桜の花びらがふたりの間に舞った。
 尚吾は、小さく首を傾けた。
 「……どうして、僕のことを……?」
 瑠璃は微笑んだ。
 「覚えてるの。“私”が覚えてるのよ。あなたを想い続けたことも、あの約束も……全部」
 尚吾の手の中のノートが、ふっと風にめくられた。
 そこに書かれていたのは、ひとつの言葉だった。
 「また、桜の下で」
 その瞬間、遠くで雷鳴が鳴り、空が揺れた。
 そして、尚吾の中に、ひとつの光が差し込む。
 それは記憶ではなかったが、確かな実感だった。
 ――この人を、大切にしていた。
 ――失いたくないと思っていた。
 ――笑っていてほしいと、願った。
 「……ありがとう」と尚吾は言った。
 自分でも、誰に向けた言葉なのかわからなかった。
 けれど、目の前の瑠璃はその声を受け取り、小さくうなずいた。
 ふたりの間に、言葉よりも強いものが流れていた。
 思い出せないまま、それでも心が再び惹かれていく。
 それが“再会”ではなく、“出会い直す”ということだと、尚吾はまだ知らなかった。
 春の午後。
 桜の木の下で、風がふたりの髪を優しく揺らしていた。
しおりを挟む
感想 0

あなたにおすすめの小説

夫婦交換

山田森湖
恋愛
好奇心から始まった一週間の“夫婦交換”。そこで出会った新鮮なときめき

邪神の祭壇へ無垢な筋肉を生贄として捧ぐ

BL
鍛えられた肉体、高潔な魂―― それは選ばれし“供物”の条件。 山奥の男子校「平坂学園」で、新任教師・高尾雄一は静かに歪み始める。 見えない視線、執着する生徒、触れられる肉体。 誇り高き男は、何に屈し、何に縋るのか。 心と肉体が削がれていく“儀式”が、いま始まる。

【完結】退職を伝えたら、無愛想な上司に囲われました〜逃げられると思ったのが間違いでした〜

来栖れいな
恋愛
逃げたかったのは、 疲れきった日々と、叶うはずのない憧れ――のはずだった。 無愛想で冷静な上司・東條崇雅。 その背中に、ただ静かに憧れを抱きながら、 仕事の重圧と、自分の想いの行き場に限界を感じて、私は退職を申し出た。 けれど―― そこから、彼の態度は変わり始めた。 苦手な仕事から外され、 負担を減らされ、 静かに、けれど確実に囲い込まれていく私。 「辞めるのは認めない」 そんな言葉すらないのに、 無言の圧力と、不器用な優しさが、私を縛りつけていく。 これは愛? それともただの執着? じれじれと、甘く、不器用に。 二人の距離は、静かに、でも確かに近づいていく――。 無愛想な上司に、心ごと囲い込まれる、じれじれ溺愛・執着オフィスラブ。 ※この物語はフィクションです。 登場する人物・団体・名称・出来事などはすべて架空であり、実在のものとは一切関係ありません。

夫と息子に邪険にされたので王太子妃の座を譲ります~死に戻ってから溺愛されても今更遅い

青の雀
恋愛
夫婦喧嘩の末に置き去りにされた妻は、旦那が若い愛人とイチャついている間に盗賊に襲われ、命を落とした。 神様の温情により、10日間だけこの世に戻った妻と護衛の騎士は、その10日間の間に心残りを処分する。それは、娘の行く末と……もし、来世があるならば、今度は政略といえども夫以外の人の妻になるということ。 もう二度と夫と出会いたくない彼女は、彼女を蔑ろにしてきた息子とも縁を切ることを決意する。 生まれかわった妻は、新しい人生を強く生きることを決意。 過去世と同じ轍を踏みたくない……

上司、快楽に沈むまで

赤林檎
BL
完璧な男――それが、営業部課長・**榊(さかき)**の社内での評判だった。 冷静沈着、部下にも厳しい。私生活の噂すら立たないほどの隙のなさ。 だが、その“完璧”が崩れる日がくるとは、誰も想像していなかった。 入社三年目の篠原は、榊の直属の部下。 真面目だが強気で、どこか挑発的な笑みを浮かべる青年。 ある夜、取引先とのトラブル対応で二人だけが残ったオフィスで、 篠原は上司に向かって、いつもの穏やかな口調を崩した。「……そんな顔、部下には見せないんですね」 疲労で僅かに緩んだ榊の表情。 その弱さを見逃さず、篠原はデスク越しに距離を詰める。 「強がらなくていいですよ。俺の前では、もう」 指先が榊のネクタイを掴む。 引き寄せられた瞬間、榊の理性は音を立てて崩れた。 拒むことも、許すこともできないまま、 彼は“部下”の手によって、ひとつずつ乱されていく。 言葉で支配され、触れられるたびに、自分の知らなかった感情と快楽を知る。それは、上司としての誇りを壊すほどに甘く、逃れられないほどに深い。 だが、篠原の視線の奥に宿るのは、ただの欲望ではなかった。 そこには、ずっと榊だけを見つめ続けてきた、静かな執着がある。 「俺、前から思ってたんです。  あなたが誰かに“支配される”ところ、きっと綺麗だろうなって」 支配する側だったはずの男が、 支配されることで初めて“生きている”と感じてしまう――。 上司と部下、立場も理性も、すべてが絡み合うオフィスの夜。 秘密の扉を開けた榊は、もう戻れない。 快楽に溺れるその瞬間まで、彼を待つのは破滅か、それとも救いか。 ――これは、ひとりの上司が“愛”という名の支配に沈んでいく物語。

完結 辺境伯様に嫁いで半年、完全に忘れられているようです   

ヴァンドール
恋愛
実家でも忘れられた存在で 嫁いだ辺境伯様にも離れに追いやられ、それすら 忘れ去られて早、半年が過ぎました。

さようなら婚約者

あんど もあ
ファンタジー
アンジュは、五年間虐げられた婚約者から婚約破棄を告げられる。翌日、カバン一つを持って五年住んだ婚約者の家を去るアンジュ。一方、婚約者は…。

あなたが決めたことよ

アーエル
恋愛
その日は私の誕生日パーティーの三日前のことでした。 前触れもなく「婚約の話は無かったことにしよう」と言われたのです。 ‪✰他社でも公開

処理中です...