さくらの名のもとに

ukon osumi

文字の大きさ
23 / 24

第23話「もう一度、桜の下で」

しおりを挟む
  桜の木の下、尚吾はノートを胸に抱いて立ち尽くしていた。
 あの石の上に落ちた瞬間、白紙だったページに浮かび上がった文字。それは、記憶というより“確かにあった時間”の痕跡だった。
 風に揺れるページを、尚吾はひとつひとつ、ゆっくりと指でめくる。
 そこには、どこか他人事のような、それでいて懐かしさを伴った言葉が連なっていた。
 「瑠璃の笑顔は、春の陽だまりみたいだった」
 「初めて名前を呼ばれた日、心臓が跳ねた」
 「喧嘩をしても、最後に手を握ってくれた手のぬくもりが忘れられない」
 尚吾は、すべてを思い出したわけではなかった。
 けれど、確かにそこにいた“自分”が記した思い出が、文字となって蘇っていた。
 目の前で瑠璃が、そっと涙を拭う。
 その理由を問うまでもなく、尚吾の胸の奥には、ひとつの痛みのような衝動が広がっていた。
 この涙を、彼女はどれだけ抱えていたのだろう。
 ずっと、眠りの中で。時が止まったままの場所で。
 尚吾は、ノートを閉じた。
 そして小さく頷くと、もう一度彼女に目を向けた。
 「全部は、わからない。思い出せないことも、まだたくさんある。……でも、きっとまた笑えるよね、ふたりで」
 その言葉に、瑠璃はほっとしたように微笑んだ。
 「うん。何度でも、笑えるわ。あなたとなら」
 言葉が交わされるたび、ふたりの間に流れる空気がやわらかくなっていく。
 春の終わりを告げる風が、ふたりの髪をさらりと撫でた。
 時間が動き出している――尚吾は、はっきりと感じた。
 止まっていた記憶も、閉ざされていた想いも、少しずつ、確かに前へと進み始めている。
 夕暮れが街を包み始める頃、尚吾は瑠璃と別れ、ひとり家路についた。
 道中、何度も振り返りそうになったが、そのたびに胸の中で名前を反芻した。
 「千草瑠璃」
 そう呼ぶたび、確かな温度が心に宿る。
 家の前にたどり着くと、玄関の灯りが暖かく迎えてくれた。
 扉を開けると、母・陽子の姿がキッチンにあった。
 「……ただいま」
 尚吾がそう言うと、陽子は振り返り、少しだけ驚いたような表情を見せた。
 「おかえり。夕飯、まだ温めてないけど……いる?」
 「……うん、あとで食べる。今日は……ちょっと、大切な人に会ってきたんだ」
 その言葉に、陽子は静かに頷いた。
 問い返すことも、詮索することもなく、ただその背中を見守るように。
 尚吾は自室に戻り、バッグからノートを取り出して机の上に置いた。
 それは、もう白紙ではなかった。
 けれど、記録としての価値よりも、“今ここにある”という事実が、何よりも尊く思えた。
 名前を交わしたふたりの再出発。
 その始まりが、ようやく訪れた――そう思えた。

  ノートをそっと机に置いた尚吾は、椅子に腰を下ろした。
 カーテン越しに差し込む街灯の光が、部屋を淡く照らしていた。
 静かな夜だった。
 けれど、胸の奥はどこかざわめいていた。
 ページをめくるたびに浮かぶ筆跡、それを見ていた瑠璃の顔。
 驚きと、懐かしさと、言葉にならない痛みが混ざったような、あの表情。
 そのすべてが、尚吾の記憶とは別のところで、確かに心に焼きついていた。
 彼女が自分を待っていてくれた――
 それは、ただの思い出以上の意味を持っていた。
 “名前”を交わした瞬間、ふたりの間に生まれた新しい何か。
 「千草瑠璃」
 声に出すたび、胸の奥で響く。
 それは、かつての記憶ではなく、“これから”を指し示す呼び名のようだった。
 机の引き出しを開け、ノートをしまいかけて、尚吾は手を止めた。
 最後のページに、小さな文字で何かが書かれていたことを思い出したからだ。
 ――“また、桜の下で”
 誰が書いたかはわからない。
 けれど、それが“未来”の合図だということだけは、尚吾にも理解できた。
 その時、階段を上がってくる足音がした。
 やがて、部屋のドアがノックされる。
 「尚吾、明日、おばあちゃんの家に行くからね。朝早いけど、起きられる?」
 母・陽子の声が、柔らかく響いた。
 「……うん、大丈夫。ありがとう」
 ドア越しに返事をすると、階下に戻る足音が遠ざかっていく。
 尚吾はもう一度ノートを見つめた。
 そして、思った。
 これから先、自分は瑠璃とどう歩んでいくのだろう。
 記憶がすべて戻らなくても、名前を交わしただけで生まれた感情がある。
 あれは幻ではない。
 確かにここにある、始まりのようなもの。
 そう思えたからこそ、恐れずに言えた。
 ――「また、会おう」
 静かにノートを閉じ、尚吾はベッドに身を横たえた。
 窓の外に目を向けると、遠くに薄く雲のかかった月が浮かんでいた。
 名前を交わしたふたり。
 記憶に依らない、新たな絆のはじまり。
 それは、過去を越えていく物語の、ほんの序章だった。
しおりを挟む
感想 0

あなたにおすすめの小説

夫婦交換

山田森湖
恋愛
好奇心から始まった一週間の“夫婦交換”。そこで出会った新鮮なときめき

邪神の祭壇へ無垢な筋肉を生贄として捧ぐ

BL
鍛えられた肉体、高潔な魂―― それは選ばれし“供物”の条件。 山奥の男子校「平坂学園」で、新任教師・高尾雄一は静かに歪み始める。 見えない視線、執着する生徒、触れられる肉体。 誇り高き男は、何に屈し、何に縋るのか。 心と肉体が削がれていく“儀式”が、いま始まる。

【完結】退職を伝えたら、無愛想な上司に囲われました〜逃げられると思ったのが間違いでした〜

来栖れいな
恋愛
逃げたかったのは、 疲れきった日々と、叶うはずのない憧れ――のはずだった。 無愛想で冷静な上司・東條崇雅。 その背中に、ただ静かに憧れを抱きながら、 仕事の重圧と、自分の想いの行き場に限界を感じて、私は退職を申し出た。 けれど―― そこから、彼の態度は変わり始めた。 苦手な仕事から外され、 負担を減らされ、 静かに、けれど確実に囲い込まれていく私。 「辞めるのは認めない」 そんな言葉すらないのに、 無言の圧力と、不器用な優しさが、私を縛りつけていく。 これは愛? それともただの執着? じれじれと、甘く、不器用に。 二人の距離は、静かに、でも確かに近づいていく――。 無愛想な上司に、心ごと囲い込まれる、じれじれ溺愛・執着オフィスラブ。 ※この物語はフィクションです。 登場する人物・団体・名称・出来事などはすべて架空であり、実在のものとは一切関係ありません。

夫と息子に邪険にされたので王太子妃の座を譲ります~死に戻ってから溺愛されても今更遅い

青の雀
恋愛
夫婦喧嘩の末に置き去りにされた妻は、旦那が若い愛人とイチャついている間に盗賊に襲われ、命を落とした。 神様の温情により、10日間だけこの世に戻った妻と護衛の騎士は、その10日間の間に心残りを処分する。それは、娘の行く末と……もし、来世があるならば、今度は政略といえども夫以外の人の妻になるということ。 もう二度と夫と出会いたくない彼女は、彼女を蔑ろにしてきた息子とも縁を切ることを決意する。 生まれかわった妻は、新しい人生を強く生きることを決意。 過去世と同じ轍を踏みたくない……

上司、快楽に沈むまで

赤林檎
BL
完璧な男――それが、営業部課長・**榊(さかき)**の社内での評判だった。 冷静沈着、部下にも厳しい。私生活の噂すら立たないほどの隙のなさ。 だが、その“完璧”が崩れる日がくるとは、誰も想像していなかった。 入社三年目の篠原は、榊の直属の部下。 真面目だが強気で、どこか挑発的な笑みを浮かべる青年。 ある夜、取引先とのトラブル対応で二人だけが残ったオフィスで、 篠原は上司に向かって、いつもの穏やかな口調を崩した。「……そんな顔、部下には見せないんですね」 疲労で僅かに緩んだ榊の表情。 その弱さを見逃さず、篠原はデスク越しに距離を詰める。 「強がらなくていいですよ。俺の前では、もう」 指先が榊のネクタイを掴む。 引き寄せられた瞬間、榊の理性は音を立てて崩れた。 拒むことも、許すこともできないまま、 彼は“部下”の手によって、ひとつずつ乱されていく。 言葉で支配され、触れられるたびに、自分の知らなかった感情と快楽を知る。それは、上司としての誇りを壊すほどに甘く、逃れられないほどに深い。 だが、篠原の視線の奥に宿るのは、ただの欲望ではなかった。 そこには、ずっと榊だけを見つめ続けてきた、静かな執着がある。 「俺、前から思ってたんです。  あなたが誰かに“支配される”ところ、きっと綺麗だろうなって」 支配する側だったはずの男が、 支配されることで初めて“生きている”と感じてしまう――。 上司と部下、立場も理性も、すべてが絡み合うオフィスの夜。 秘密の扉を開けた榊は、もう戻れない。 快楽に溺れるその瞬間まで、彼を待つのは破滅か、それとも救いか。 ――これは、ひとりの上司が“愛”という名の支配に沈んでいく物語。

完結 辺境伯様に嫁いで半年、完全に忘れられているようです   

ヴァンドール
恋愛
実家でも忘れられた存在で 嫁いだ辺境伯様にも離れに追いやられ、それすら 忘れ去られて早、半年が過ぎました。

さようなら婚約者

あんど もあ
ファンタジー
アンジュは、五年間虐げられた婚約者から婚約破棄を告げられる。翌日、カバン一つを持って五年住んだ婚約者の家を去るアンジュ。一方、婚約者は…。

あなたが決めたことよ

アーエル
恋愛
その日は私の誕生日パーティーの三日前のことでした。 前触れもなく「婚約の話は無かったことにしよう」と言われたのです。 ‪✰他社でも公開

処理中です...