さくらの名のもとに

ukon osumi

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第24話「心で、ふたたび」

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  桜の校庭に、風がやさしく吹いていた。
 淡い花びらが、瑠璃の髪にふわりと触れる。その様子を、尚吾は隣で静かに見ていた。
 ふたりの間にあるのは、数々の思い出……ではなかった。
 記憶を取り戻したわけではない。けれど、それでもいいと思えた。
 今、目の前にいる彼女を、大切だと感じている。
 それだけで、十分だった。
 尚吾の手には、あのノートがあった。
 白紙だったはずのページに、いくつもの文字が浮かんでいた。過去の記憶。自分の手で書いた言葉。
 けれど、それを開くことはしなかった。
 「――これ、君に」
 尚吾はノートを差し出した。
 瑠璃は驚いたようにそれを見つめたが、すぐに受け取って小さく笑った。
 「次は、君の思い出をここに書いてよ」
 その言葉に、瑠璃は少しだけ目を見開いたあと、頷いた。
 「……うん。そうする」
 彼女の笑顔には、迷いがなかった。
 ふたりの間に、記憶ではなく“信頼”が生まれていた。
 風が吹き抜け、木々の葉が揺れる。
 そして、瑠璃がぽつりと呟いた。
 「ケーキの材料、落としただけだったんだよ」
 瑠璃は、まるで昔話をするように微笑んだ。
 「砂糖と蜂蜜、買ったばかりで、紙袋の底が抜けちゃって。あの桜の根元に、どさっと落ちたの」
 尚吾は立ち止まり、彼女の顔をじっと見つめた。
 「偶然だったのか……」
 「うん。すごく情けなかったよ。だって、母に言ったら“桜が甘い夢を見るかもね”って笑われてさ」
 瑠璃が言葉の最後に少し照れたように笑ったその瞬間、尚吾の胸に、やわらかな熱が満ちていった。
 ふたりの足音が、桜の並木道に静かに響いていた。
 その偶然が、“願いの石”を目覚めさせたのか。
 彼女は意図せず、尚吾の未来を知り、そこから全てが動き出したのだ。
 だが、それを本人の口からこうして聞くのは、これが初めてだった。
 「ケーキか……それがきっかけ、だったんだな」
 「うん。でも、不思議だったの。落としただけなのに……ずっと、何かを待ってた気がして」
 彼女の声は静かだったが、尚吾の胸には強く届いた。
 今、この場所で、ふたりはもう一度出会った。
 再会ではない。過去に戻るのではなく、ここから始まる出会い直し。
 「瑠璃――」
 尚吾は彼女の名前を呼んだ。
 彼女は、優しく微笑んで頷いた。
 桜の花が、ふたりの間を舞う。
 心に、春が戻ってきたようだった。

  ふたりはゆっくりと歩き出した。
 桜の花びらが、ひらひらと舞い落ちる午後の校庭。
 風が優しく、陽の光も穏やかだった。
 尚吾は、隣を歩く瑠璃の横顔をそっと見た。
 そこには、どこか懐かしくて、あたたかい表情があった。
 何ひとつ思い出せなくても、この人といると――胸が安らぐ。
 言葉にできない感覚が、静かに胸に広がっていく。
 「ねぇ」
 瑠璃がふいに言った。「なんだか、不思議だよね。ほんとは初対面みたいなのに……」
 尚吾は少しだけ笑った。
 「初対面っていう感じでもないよ。なんていうか……“懐かしい初対面”?」
 「それ、いいね」
 瑠璃もくすりと笑う。その声音に、春の陽だまりのようなやさしさが宿っていた。
 しばらく沈黙が続く。けれど、重くはない。
 ふたりの間に流れる空気は、どこまでも軽やかだった。
 尚吾はそっと手を伸ばし、彼女の指先に触れた。
 驚いたように彼女が見上げる。だが、その瞳の奥には、戸惑いではなく――喜びがあった。
 「……こうしてても、いい?」
 問いかけに、瑠璃は何も言わず、そっと指を絡め返した。
 ただそれだけで、胸が満ちる。
 歩幅を合わせ、ふたりは並んで歩く。
 前を見つめる瑠璃の頬はほんのり染まっていて、尚吾はそれを横目で見ていた。
 どんな記憶よりも、この瞬間の方がずっと鮮やかだった。
 やがて、夕暮れが近づき、空が茜に染まりはじめる。
 尚吾はふと空を見上げた。桜の花びらが、黄金色の光を浴びて舞っていた。
 一方、尚吾と瑠璃は、校庭の出口に差しかかっていた。
 ふたりの背後で、校舎が静かに夕暮れに沈んでいく。
 尚吾はもう一度、ノートを見つめた。
 瑠璃が胸に抱えたそれは、ふたりの新しい“始まり”を象徴するように、柔らかく輝いて見えた。
 「これから、どうする?」と尚吾が尋ねると、
 「わたし、あなたと歩いていく」と瑠璃が答えた。
 記憶じゃない。言葉じゃない。
 心が、ふたりを結び直した。
 ――そして、ふたりは歩き出す。
 今度は、心で。
(了)
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