〈影咒記(EIJUKI)〉江戸咒譚 第四篇 ― 黄泉灯籠迷図(よみとうろうめいず) ―

ukon osumi

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第六章「炎に濡れし、哀しみの誕」

第三話「消えぬ火、断たねばならぬもの」

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  灯籠が流れ去った川面に、再び異様な光が灯ったのは――すべてが終わった、と思われたその刹那だった。
 榊原新右衛門が焔陰を鞘に納め、深く息を吐いたとき。
 おせんがふと顔を上げ、道明が眉を寄せたとき。
 それは、川の奥――流れの静かな淀みに蠢く、禍々しい紅の光。
「……何だ、あれは」
 新右衛門が低く呟いた。
 水面の一角が膨らみ、ぐらりと形を変える。
 そこから、まるで底から這い出すかのように、炎の柱が立ち上がった。
「これは……“火”が、まだ残っていたのか」
 道明が霊符を握り直す。
「いや、違う。これは仁兵衛のものではない。もっと古く、深く……長年の供養を受けぬ“顔なき怨霊”だ」
 その言葉に、新右衛門の背筋がぞわりと粟立った。
 川面に浮かぶ炎の中、形の定かでない顔がいくつも現れては、消えていく。
 目鼻も曖昧なそれらは、苦悶と嘆きの波動を纏い、悲鳴のような風音となって夜気を裂いていた。
「これが……“顔を持たぬ者”の成れの果てか」
 新右衛門の脳裏に、かつて耳にした伝承が蘇る。
 お盆の灯籠流しは、魂を慰め、送るためのもの。
 だが、名もなく、誰にも祈られぬまま死した者たちは、川の底に絡まり、やがて“形を持たぬ影”として漂い続ける。
 この“火”は、それらが積もり積もって生まれた化生――もはや想いすら持たぬ、“業火”そのもの。
「新右衛門」
 道明の声が響く。
「これは送りでは済まぬ、“断ち切るべき影”じゃ」
 新右衛門は頷き、焔陰を納めると、腰の裏に差していた影斬り刀へと手を伸ばした。
「……そうだな。これは、斬らねばならぬ」
 鞘を払った瞬間、刀身が夜の光を反射し、薄く紫の焔を揺らめかせた。
 影斬り刀。
 それは、“形を持たぬ”ものを断つための刀。
 新右衛門の気配が変わったことに、おせんも静かに目を伏せた。
「今度の相手は、声も名も持たぬものよ」
「分かっている」
 川面の火が、不意にうねった。
 何本もの炎の腕のようなものが水上を這い、岸辺へと伸びてくる。
 灯籠の残骸が触れられるたびに、ぼうっと音を立てて燃え上がる。
「来るぞ!」
 新右衛門は叫ぶと、身を沈めた。
 そして、迫る火のうねりを正面から見据え、刀を振り上げる。

 ――第一の斬撃。

 火の腕が斬られると同時に、炎の中から一つ、何かが叫び声のようなものを上げて崩れた。
 それはまるで、人の影のようでもあり、虚空に消える過去の嘆きのようでもあった。
「……これは、まだ終わらんぞ」
 道明の言葉どおり、次なる火の波が起きる。
 新右衛門は地を蹴り、第二の一閃を放つ。
 炎が裂け、その中から現れた顔なき影が、形も声も持たぬまま消えた。
 だが、次から次へと現れる“残り火”は、まるで人々の忘却が生み出した哀しみそのもの。
「……祈られなかった魂……誰にも思い出されなかった人生……」
 おせんの呟きが、夜の風に溶けていく。
「新右衛門。斬るだけでは足りない。想いを乗せて……送りながら、断て」
 新右衛門は小さく頷くと、深く呼吸を整えた。
「……無念を、忘れはしない」
 刀が、第三の影を貫いたとき。
 火の奔流が止まり、川がようやくその流れを取り戻し始めた。
 そして、最後の残光が夜空に滲み、ひとつ、またひとつと火が消えていった。
 灯籠も、炎も、残るはただ、川のせせらぎだけ。
 新右衛門は静かに影斬り刀を納めた。
 川辺には、おせんと道明が静かに立っていた。
「終わった……のか?」
 おせんが頷いた。
「今夜の分は、ね」
 道明がひとつ息をつき、背を伸ばした。
「影は、またどこかに潜んでいるかもしれぬ。だが今夜の火は、確かに断たれた」
 新右衛門は焔陰と影斬り刀、二つの刀を腰に収めると、ゆっくりと夜空を仰いだ。
 雲が流れ、星が姿を現す。
 その星は、まるで祈りのように、彼ら三人の足元を静かに照らしていた。
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