リベナイト

ukon osumi

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第1章 火神 ― カグツチ

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「炎の神は、死と共に生まれる。燃え残るものは、骨か、それとも記憶か。」

 四十畳ほどの広い部屋は、仕切りの壁がなく、家具の配置でいくつかの区画に分けられていた。窓のカーテンは厚手の布で閉め切られ、外の街灯の明かりは完全に遮られていた。点いている蛍光灯は中央の二列だけで、端の方は影が沈み込むように暗かった。

 奥にはダブルベッドが置かれた寝室の区画があり、毛布が乱れたまま積まれていた。枕元の小さな読書灯は点いておらず、シーツには人の形の皺が深く残っていた。香織は休日で病院に出ていたため、そこに気配はなかった。

 左手は香織の仕事用スペースで、白いデスクの上に開いたままのノートや医療資料が散らばり、蛍光ペンのキャップが外れたまま転がっていた。小型のモニターは黒い画面を映し、コードは机の下で絡まっていた。椅子の背には白衣が掛けられ、袖口が机の端に触れて折れ曲がっていた。

 右手には慎二の机があり、黒いノートパソコンの液晶が唯一の光源となっていた。画面の青白い光が机の表面を照らし、そこに置かれた緑茶のペットボトルや空の弁当パック、折り畳まれたレシートを浮かび上がらせていた。壁際に積まれた雑誌の束は斜めに傾き、その影が光でかすかに揺れていた。床には薄いカーペットが敷かれていたが、中央部分は踏み跡で毛が潰れ、色が濃く変わっていた。延長コードが机の下で絡まり、差し込まれたプラグの赤いランプが断続的に点滅していた。

 部屋の手前はセントラルキッチンと居間の区画で、流し台には洗われていない皿とコップが積まれ、水滴が蛇口の先に溜まっていた。冷蔵庫のモーター音が低く続き、壁際の本棚には背表紙の色褪せた参考書と漫画が無秩序に並んでいた。テーブルの周囲にはソファと椅子が置かれ、ソファの背には黒いジャケットが掛けられて袖口が折れ、座面には衣服の山が半分崩れていた。

 空気は動かず、甘い菓子パンの匂いとインスタント食品の香りが薄く漂っていた。窓ガラスは曇り、昼間の結露が乾いた跡が縦に残っていた。天井の隅には蜘蛛の巣が張り付き、動きはなかった。

 池脇慎二は椅子の背もたれに深く腰を下ろし、右手の人差し指でノートパソコンのキーボードを押していた。画面には白い文字が絶え間なく並び、行頭には番号が振られている。投稿の間隔は一分もかからず、ページの下端がすぐに押し上げられていく。スクロールバーをマウスのホイールで回すと、新しい書き込みが勢いよく流れ込んだ。パソコンのファンの音と、時折ペットボトルが机上できしむ音だけが、この四十畳の空間に存在を示していた。

「見たら七日で死ぬ」

 同じ言葉を貼り付ける者が複数現れ、黒地に白文字の画像が繰り返し表示された。ゴシック体の直線的な文字が、スクリーンの明るさを強調するように目に飛び込んできた。慎二は顔を近づけ、瞼を瞬かせずに文字列を凝視した。呼吸が鼻から短く吸い込まれ、口から小さく吐き出される。息が乾いた空気に混じり、耳の奥で微かな音として残った。

「くだらねえ…」と唇がわずかに動いたが、声は漏れなかった。指先は止まらず、さらに下へスクロールを続けた。掲示板の住人たちは絵文字で笑いを添えたり、「またかよ」と冷やかしたりしている。しかし、その合間に「身近で自殺があった」「昨日のニュース見たか」といった書き込みが交じっていた。

 慎二は姿勢を正し、背筋を伸ばした。左手でペットボトルをつかみ、口元に持ち上げて一口飲む。液体が喉を通る音がかすかに響き、ペットボトルを机に戻したとき、キャップが固い音を立てて机面に当たった。視線は再び画面へ戻り、彼は記事へのリンクをクリックした。

 別のブラウザタブが開き、ニュースサイトの記事が表示された。「二十代女性、自宅で死亡」「三十代女性、遺書なく飛び降り」。地域は異なるが、数日のうちに立て続けに報じられている。記事の右横には、例の「七日後に死ぬ」の画像がサムネイルとして貼られていた。慎二は唇を固く結び、眼球を左右に小さく動かして記事を追った。眉間の皮膚が寄り、呼吸の速度が速くなった。

 画面をスクロールし、別の記事を開いた。被害者は女性に限られていた。年齢も近い。男性のケースは一つも見当たらない。慎二は椅子から腰を浮かせ、机に両肘を置いて身を乗り出した。モニターとの距離を縮め、視線を走らせた。スクロールホイールを回す指は力がこもり、滑るように文章を追った。

「なんで女ばっかりだ…」声には出さず、唇が動き、喉仏が上下した。呼吸が浅く、短く切れた。胸の上下動が早まり、シャツの襟がわずかに膨らんで戻るのを繰り返した。彼は机の左端に置いていたスマートフォンを右手で取り、親指で画面を弾いた。SNSのタイムラインにも同じ画像が何度も流れており、リツイート数は数百に達していた。コメント欄には「本当に七日後に死んだ人がいる」と書き込む者もいれば、「ただの釣り」と切り捨てる者もいた。

 慎二は画面を上下にスクロールさせ、似た書き込みを一つ一つ目で追った。呼吸の間隔が不規則になり、指先が汗で滑り、スマートフォンを持つ手を一度膝の上に下ろして拭った。膝に当たったスマートフォンの背面が冷たく、手のひらに残った温度差が不快に感じられた。再び持ち直して画面を開き、さらに情報を追った。

 机の上の時計は午後十一時二十七分を示していた。秒針の音は小さいが、耳を澄ますと規則的に刻んでいた。慎二は椅子の背もたれに体を預け、両腕を胸の前で組んだ。視線は天井へ上がりかけたが、すぐにパソコンの画面へ引き戻された。スクリーンには「七日後に死ぬ」という文言が繰り返され、画像が再び貼り付けられていた。

 彼はマウスを握り直し、指先に力を込めてクリックした。新しいスレッドが開き、冒頭の書き込みに再び「七日後に死ぬ」が現れた。その下に「昨日の飛び降り、これが原因じゃないか」という投稿が続いていた。投稿時刻は事件のニュースとほぼ同時刻だった。慎二は背筋をさらに伸ばし、視線を画面に固定した。呼吸は短く、口元の筋肉が強張ったまま動かない。

 部屋の隅に置かれたコンセントタップのランプが赤く光っていた。パソコンのファンが回り続け、低い音が室内にこもった。外の車の走行音は遠く、ほとんど届かなかった。部屋は閉じられ、慎二の指先と視線だけが動き続けていた。

掲示板のスレッドは更新をやめない。「見たら七日で死ぬ」。その文言は嘲笑とともに貼られ、冷笑と恐怖が入り混じった反応が返されていた。慎二の胸郭は細かく上下し、瞳は乾いて瞬きを増やした。視線は次の投稿に移り、次のリンクをクリックした。画面の中で繰り返される同じ文言が、彼の時間を食い尽くしていった。

 現場となったのはB棟の二階の一室だった。玄関ドアの前に鑑識の器材が置かれ、白い手袋の作業員が出入りしていた。ドアは金属製で、塗装は擦れて曇り、郵便受けの口は塞がれていた。隣の部屋のベランダには植木鉢が並び、枯れた葉が風に揺れていた。規制線は階段の入口から張られ、周囲には立ち入り禁止の表示が立てられていた。

四棟全体は築二十年以上と見え、ところどころに補修の跡があった。外壁の継ぎ目にはシーリング材が新しく塗られていたが、古い部分はひび割れて黒ずんでいた。雨どいは所々で歪み、落ち葉が詰まっていた。集合住宅全体が人々の日常を抱え込んだまま、今は規制線によって異様な静けさに包まれていた。

敷地の正面には低い植え込みが連なり、冬枯れの枝が風に揺れていた。アスファルトの通路は細く、両側に並ぶ自転車置き場には錆びたフレームが混じり、倒れかけた自転車が一台だけ鎖で繋がれていた。掲示板には古びた回覧と町内会の張り紙が重なり、端の方は雨で波打って剥がれかけていた。郵便受けの前にはチラシの束が散らばり、足跡で湿っていた。

その集合住宅の前には黄色い規制線が張られ、冷たい風に揺れていた。灰色の外壁は冬の光を反射し、駐車場の舗道は夜の雨で黒く濡れていた。近所の住民が数人、マフラーに顔をうずめ、互いに低く囁き合っていた。吐息が白く空に散り、空気は張り詰めていた。

慎二はコートの内ポケットから紹介状の控えを取り出し、入口の警官に示した。彼は死んだ女子学生の主治医で、脳神経科の外来で彼女を診ていた。半年ほど片頭痛の訴えを聞き続け、数日前にも受診していた。警官は紙を確認し、無言で頷いて立ち入りを許可した。

建物内は静まり返り、エレベーター前に立つ制服警官が短く会釈した。慎二は階段を上り、二階の突き当たりにある現場へ向かった。扉の前では簡易の照明が置かれ、鑑識が三脚を組んでカメラを構えていた。フラッシュが一度光り、白い壁に影が走った。

室内は既に遺体が搬出され、ベッドの布団が乱れたまま残っていた。窓は閉じ切られ、湿気を含んだ冷たい空気が漂っていた。机の上にはノートパソコンが置かれ、鑑識員が白手袋でマウスを操作していた。画面は黒く消えているが、横のメモ用紙に「閲覧履歴 午前一時/三時/五時」と手書きされていた。

森下亮介刑事が画面を覗き込み、声を潜めた。
「例のページ、残ってます。『七日で死ぬ』ってやつです」

窓際に立っていた年配の刑事――葉山勇作が、腕を組んだまま表情を変えずに吐き捨てるように言った。
「ネットがどうかしたか。くだらん」

室内は一瞬だけざわついたが、すぐに静けさに戻った。

慎二はそのやり取りを耳にし、額にわずかな緊張を覚えた。昨夜、自宅で見ていた掲示板の投稿時刻と、ここに記された数字が重なっていた。しかし表情を変えず、胸ポケットからカルテの控えを取り出し、机の端に置いた。
「先生、少しお時間を」
背後から声がかかった。振り向くと、黒のコートを着た刑事が名刺を差し出していた。四十前後、背筋は真っ直ぐで、目の下にうっすらと影があった。

「葉山勇作、所轄の刑事です。被害者の主治医だと伺いました」

慎二は名刺を受け取り、軽く会釈した。
「はい。脳神経科で診ていました」

勇作は手帳を開き、短く頷いて問いを重ねた。
「どんな症状だったんですか」

「片頭痛です。特に夜間に発作が多く、光をまぶしく感じると言っていました。発作の間隔が通常より短く、少し気になる点はありましたが、薬の効果は一時的に出ていました」

勇作は視線を落とし、ペン先を走らせた。手帳の紙をめくる音が小さく響いた。
「精神的な要因は?」

「大学生活のストレスや睡眠不足はありました。記録にも残しています」慎二はカルテのコピーを差し出した。封筒には受診日と処方薬が時系列で並んでいる。

勇作は封筒を受け取り、封を切らずに脇に抱えた。
「ありがとうございます。追加で聞くことがあれば、また連絡します」

声は淡々としており、余計な言葉はなかった。慎二は短く頷き、返答を控えた。

部屋の隅では、森下刑事が小型のデジタルカメラを構え、机や床を記録していた。シャッター音が規則的に鳴り、白い光が壁に反射した。床には女性向け雑誌が散らばり、表紙の笑顔が静けさと不釣り合いに浮かび上がっていた。

慎二は視線をそこに落としたまま、無意識に喉を鳴らした。呼吸は浅く、指先は冷えていた。背筋をわずかに丸め、コートの裾を握り直したが、冷えは掌に残ったままだった。診察室で、彼女が額を押さえ、光を避けるように目を細めていた姿が記憶に浮かぶ。言葉少なに「大丈夫です」と笑った表情と、この部屋の冷えた空気が重なった。
勇作は手帳を閉じ、名刺を指で軽く叩いてからポケットに戻した。
「ご協力感謝します。これで結構です」

「はい」慎二は静かに答え、部屋を出た。

廊下の窓から差し込む光は白く、舗道の濡れた面を照らしていた。建物を出ると、冷たい風が頬に当たり、呼吸がさらに浅くなった。慎二はスマートフォンを取り出し、掲示板を開いた。画面にはまだ「七日で死ぬ」という文字列が貼られ続けていた。指を動かすたび、同じ文言が流れた。

端末を胸ポケットに押し込み、歩き出した。足取りは速く、深呼吸はできなかった。確証はない。ただ、主治医として向き合った患者の死と、昨夜目にした噂が線でつながる感覚だけが胸に残った。現場は冷徹に片づけられていく。だが、自分の中のざわつきは消えず、答えはどこにも見えなかった。

歩道を進むと、金属製のフェンスが風に震え、細い音を立てた。足元では水たまりが靴底を濡らし、冷えが靴下に伝わった。慎二は視線を落としたまま数歩進み、背筋を伸ばしきれずに肩をすくめた。周囲の雑踏は遠く、耳に届くのは自分の呼吸の浅い音だけだった。
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