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第一章 咲いてはならぬ庭
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山あいの道を登り詰めたその先、霧のような風が吹いていた。
湊はトラックの扉を乱暴に閉め、肩から下げた革の工具袋を揺らしながら、前を見上げた。
その旧家は、思っていたよりも朽ちていなかった。
「……あれで、空き家なんだよな」
呟きは、森の奥へ吸い込まれていく。木々の隙間から覗く屋根瓦にはわずかに苔が生え、門の柱は年季を感じさせるものの、倒壊の気配はない。むしろ手を入れさえすれば、すぐにでも人が住めそうな気配すらあった。
だが、玄関の取っ手に触れたとき、湊はどこか背筋が冷えるのを感じた。
この屋敷には、「触れてはならぬ時間」が閉じ込められている。
そんな気がした。
依頼は奇妙なものだった。明確な発注者の名がなく、連絡は東京にいる湊の師匠を介して届いた。内容は簡素で、「大正12年10月4日より、山中の旧家にて庭の整備に従事のこと。報酬は日当で支給。宿泊場所は家屋内にあり」とある。
「仕事には違いない。妙な話だが、どうせただの古家だろう」
そう高を括ったのは、出発の前夜だった。
だが、湊がこの庭に第一歩を踏み入れた瞬間、それまでの考えが静かに、しかし確実に崩れていった。
――咲いていた。
そこに咲いていたのだ、朝顔が。
しかも、青紫の、雨に濡れたような艶を帯びた見事な朝顔が、朽ちかけた石灯籠のそばに、整然と五輪。
思わず手袋を脱ぎ、花弁に指先を近づける。
触れたわけではない。ただ、そっと、確かめるように間近で見ただけだった。
けれど湊の背後を、するりと風が抜けた。
いや――風ではなかった。
「……」
湊はその場で立ち止まり、呼吸を整える。
鳥の声すら聞こえない。森の奥では蝉が鳴いているというのに、この庭だけがどこか、音を絶たれているような気がした。
朝顔の季節ではない。
そして、こんな場所に咲いているはずもない。
湊は腰を屈め、あらためて根元を確かめた。
蔓は地面から這い上がっている。鉢に植えたわけでも、誰かが挿した形跡もない。まるでこの庭の“地”から、自然と生えてきたように思えた。
しかし、それはありえない。
湊は胸の奥に、名づけようのない違和感を飲み込んだ。
すべてはただの偶然だ。
風変わりな誰かがこっそり種を撒いたか、それともこの屋敷の古い庭には、朝顔の宿根が眠っていたのか。
それだけのこと――だと、思いたかった。
昼過ぎには、ひととおりの草刈りと剪定を終えた。
湊は縁側に腰を下ろし、缶の甘酒を開ける。秋のはじまりとはいえ、山の空気はもう冷たい。彼の吐く息が白く見えるほどだった。
「朝顔……あれだけは、抜けなかったな」
草刈り機も鎌も、一切寄せつけなかった。刃が届く前に、どこかで手が止まってしまうのだ。
不自然だった。だが、それを「咒い」とは言いたくなかった。
音のない庭に、ぽつりと咲く五つの花。
その姿が、どこか人の“眼”を思わせる。
夜になった。
湊は家屋の中、かつて客間だったと思われる畳の部屋で寝床を広げていた。食事は持ち込んだ缶詰とおにぎりで済ませ、ランプの灯りを頼りに日誌をつける。
そのとき――
障子の向こうから、微かな音がした。
風ではない。葉がこすれる音でもない。
“足音”だった。
湊はそっと立ち上がり、懐中電灯を手に障子へと近づいた。
軋む音。わずかに開いた障子の隙間から、月の光が落ちる。
その向こうに――
女が、立っていた。
青紫のワンピース。朝顔の色をそのまま染めたような深い色合いで、月の光を受けるたびに、布地が花弁のように淡く揺れた。
膝下まで届くその裾は、風もないのにわずかに波立ち、彼女の歩みの静かさを際立たせていた。
髪は肩でふんわりと切り揃えられている。艶やかでありながら重たさのない黒。夜の底に沈む静けさを宿したような、清らかで柔らかな髪だった。
その横顔には、どこか幼さの名残と、時を超えたような静けさが同居している。
目は大きくはないが、深く澄んでいて、見つめられると心の底を映されるような感覚を覚える。まなざしに、喜びも哀しみも、なぜか同時に漂っていた。
素足のまま立っているはずなのに、足音は一切しない。
その歩みは、地を踏まず、空気を裂かず、ただそこに「現れている」ような気配だった。
手の動きは極めて慎ましく、まるで空気を傷つけぬようにと配慮しているかのようだった。
朝顔に触れはしない。ただ、その輪郭をなぞるように指先を浮かせて、見つめる。
まるで、愛しいものの名を心のなかで唱えているかのように。
声は――とても静かだった。
けれど、それが湊の耳に届くとき、まるで胸の内から直接囁かれているように感じられた。
囁くようでいて、決して弱々しくはない。言葉の奥に、決意のような硬さがある。
風の音や木の葉の囁きを知っている者なら、きっとあの声に「生きていた記憶の名残」を感じ取るだろう。
彼女の存在は、夜の庭そのものだった。
音を殺し、色を失い、ただ月の光だけが――彼女の輪郭を、かろうじてこの世に留めている。
けれど、たしかにそこにいた。夜の闇を背景に、静かに立っていた。
「……あの」
声をかけようとした湊の口元に、そっと冷たい指先が添えられたような気がした。
女は、視線を動かさないまま、ぽつりと囁いた。
「……摘まないで」
それだけだった。
湊がもう一歩踏み出したとき、女の姿はすでに庭の向こう、薄明かりの中へと溶けていた。
懐中電灯の光を頼りに庭へ出て、辺りを探したが、誰の気配もない。
しかし――
朝顔だけは、確かにそこに、五輪のまま咲いていた。
まるで、最初から誰もいなかったかのように。
それは夢だったのか、現だったのか。
湊は布団の中で身じろぎもせず、じっと天井を見つめていた。
月明かりはもう射してこなかった。夜は深く、山の闇は重い。
それでも、目を閉じればあの声が聞こえる。
――摘まないで。
囁きだった。
それなのに、鼓膜ではなく心に直接触れてきたような響きだった。
翌朝、湊は目が覚めると、真っ先に庭へ出た。
まだ霧がわずかに残っていた。空気は冷え、朝露が草を濡らしていた。
けれど、それでも――
朝顔は、咲いていた。
五輪のまま、欠けることなく。
湊は立ち尽くし、そして息を吸い込んだ。
やはり間違いではない。幻覚でも錯覚でもない。
昨夜、確かに“彼女”はここにいた。言葉を残し、去っていった。
ならばあれは――
「……幽霊、か?」
声に出してみても、実感は湧かない。
しかし湊の胸の奥に広がる静かな確信が、その問いに微かに頷いていた。
昼過ぎ、湊は庭の端に埋もれていた小さな祠を見つけた。
風でめくれた笹の葉の下、木の香りと共にその姿はあった。
古びた小祠。手入れはされていない。けれど不思議と崩れておらず、軒先にはひと房の榧の実が落ちていた。
「……」
何の神を祀っているのかはわからない。扁額もなく、名前も記されていない。
けれど、湊の目にはそれが“何かを鎮めるため”のものに見えた。
咲いてはならぬ朝顔。
現れてはならぬ女。
そして、その傍に置かれた名もなき祠。
湊は思い切って、草を払い、祠の前に正座した。
「この屋敷に、何があったんですか」
答えは、風だけだった。
作業は淡々と進んだ。
旧家の庭は、手入れが行き届けば見違えるようになる。
苔は抑えられ、飛び石は輪郭を取り戻し、古木も枝を整えれば空を仰ぐ。
けれど――朝顔だけは、決して手を付けることができなかった。
その理由は、もはや恐れではない。
ただ、触れてはいけないと、心が告げていた。
三日目の夜、湊は筆を執り、作業報告とは別に、日誌を記した。
そこにはこんなことが書かれていた。
月の光が差すたびに、彼女は現れる。
名前は名乗らず、ただ朝顔の傍に佇む。
言葉は一度きり、「摘まないで」。
それは懇願であり、戒めでもあった。
私は彼女のことを、夢とは思わない。
けれど、名を問う勇気が持てない。
朝顔が咲いている限り、彼女はここにいるのだろうか。
咲かなくなったら、もう逢えないのだろうか。
……私は、あの声を、もう一度、聞きたいと思っている。
それは自問であり、すでに答えのようでもあった。
湊はペンを置き、机に灯るランプの火を見つめた。
そのとき、廊下の先で、きい、と障子の開く音がした。
まただ――
今夜も、彼女が来る。
庭に降り立つと、彼女はすでに朝顔の前にいた。
青紫のワンピース。裸足。乱れのない髪。
そして、かすかに揺れる月の光に包まれて。
湊は、今度は声を出さず、ただ彼女の隣に立った。
彼女は視線を逸らさず、朝顔を見たまま、言った。
「……あなた、花を世話してくれてるのね」
初めて、彼女のほうから声をかけてきた。
「いえ……何も。草を抜いたり、苔を削ったりしただけです」
「それで、十分。あの子たち、嬉しそう」
“あの子たち”。
まるで朝顔を人のように語る声に、湊の胸が震えた。
「あなたは……この屋敷の方なんですか?」
恐る恐る尋ねると、彼女はふっと微笑んだ。
「……いいえ。わたしは、咲かされた人。だから、ここにいる」
「咲かされた?」
「咲いてはならぬ庭に、咲いてしまった者。
でも、それでも……月の光が優しい夜には、また咲けるの」
意味はわからなかった。
けれど、そこにある“哀しみ”だけは、手に取るように伝わってきた。
「あなたは、――」
名を問おうとした。
しかしその瞬間、彼女の表情がかすかに翳った。
そして、そっと告げた。
「名を問えば、朝顔は散るの。
……まだ、摘まないでいてくれる?」
その声は、風よりも柔らかく、火よりも切なかった。
湊は、ただ頷いた。
彼女はそれを見届けると、もう一度朝顔に目をやり、月を見上げた。
「ありがとう。あなたが、わたしの咲ける夜をくれたの」
そう言い残し、彼女は庭の奥、闇の方へと溶けていった。
朝顔は、夜気に濡れながら、五輪のまま、揺れていた。
それから湊は毎晩、朝顔のそばに立つようになった。
彼女が現れる夜もあれば、現れぬ夜もある。
けれど、月が出て、朝顔が咲いている限り――
彼は、待ち続けるのだった。
湊はトラックの扉を乱暴に閉め、肩から下げた革の工具袋を揺らしながら、前を見上げた。
その旧家は、思っていたよりも朽ちていなかった。
「……あれで、空き家なんだよな」
呟きは、森の奥へ吸い込まれていく。木々の隙間から覗く屋根瓦にはわずかに苔が生え、門の柱は年季を感じさせるものの、倒壊の気配はない。むしろ手を入れさえすれば、すぐにでも人が住めそうな気配すらあった。
だが、玄関の取っ手に触れたとき、湊はどこか背筋が冷えるのを感じた。
この屋敷には、「触れてはならぬ時間」が閉じ込められている。
そんな気がした。
依頼は奇妙なものだった。明確な発注者の名がなく、連絡は東京にいる湊の師匠を介して届いた。内容は簡素で、「大正12年10月4日より、山中の旧家にて庭の整備に従事のこと。報酬は日当で支給。宿泊場所は家屋内にあり」とある。
「仕事には違いない。妙な話だが、どうせただの古家だろう」
そう高を括ったのは、出発の前夜だった。
だが、湊がこの庭に第一歩を踏み入れた瞬間、それまでの考えが静かに、しかし確実に崩れていった。
――咲いていた。
そこに咲いていたのだ、朝顔が。
しかも、青紫の、雨に濡れたような艶を帯びた見事な朝顔が、朽ちかけた石灯籠のそばに、整然と五輪。
思わず手袋を脱ぎ、花弁に指先を近づける。
触れたわけではない。ただ、そっと、確かめるように間近で見ただけだった。
けれど湊の背後を、するりと風が抜けた。
いや――風ではなかった。
「……」
湊はその場で立ち止まり、呼吸を整える。
鳥の声すら聞こえない。森の奥では蝉が鳴いているというのに、この庭だけがどこか、音を絶たれているような気がした。
朝顔の季節ではない。
そして、こんな場所に咲いているはずもない。
湊は腰を屈め、あらためて根元を確かめた。
蔓は地面から這い上がっている。鉢に植えたわけでも、誰かが挿した形跡もない。まるでこの庭の“地”から、自然と生えてきたように思えた。
しかし、それはありえない。
湊は胸の奥に、名づけようのない違和感を飲み込んだ。
すべてはただの偶然だ。
風変わりな誰かがこっそり種を撒いたか、それともこの屋敷の古い庭には、朝顔の宿根が眠っていたのか。
それだけのこと――だと、思いたかった。
昼過ぎには、ひととおりの草刈りと剪定を終えた。
湊は縁側に腰を下ろし、缶の甘酒を開ける。秋のはじまりとはいえ、山の空気はもう冷たい。彼の吐く息が白く見えるほどだった。
「朝顔……あれだけは、抜けなかったな」
草刈り機も鎌も、一切寄せつけなかった。刃が届く前に、どこかで手が止まってしまうのだ。
不自然だった。だが、それを「咒い」とは言いたくなかった。
音のない庭に、ぽつりと咲く五つの花。
その姿が、どこか人の“眼”を思わせる。
夜になった。
湊は家屋の中、かつて客間だったと思われる畳の部屋で寝床を広げていた。食事は持ち込んだ缶詰とおにぎりで済ませ、ランプの灯りを頼りに日誌をつける。
そのとき――
障子の向こうから、微かな音がした。
風ではない。葉がこすれる音でもない。
“足音”だった。
湊はそっと立ち上がり、懐中電灯を手に障子へと近づいた。
軋む音。わずかに開いた障子の隙間から、月の光が落ちる。
その向こうに――
女が、立っていた。
青紫のワンピース。朝顔の色をそのまま染めたような深い色合いで、月の光を受けるたびに、布地が花弁のように淡く揺れた。
膝下まで届くその裾は、風もないのにわずかに波立ち、彼女の歩みの静かさを際立たせていた。
髪は肩でふんわりと切り揃えられている。艶やかでありながら重たさのない黒。夜の底に沈む静けさを宿したような、清らかで柔らかな髪だった。
その横顔には、どこか幼さの名残と、時を超えたような静けさが同居している。
目は大きくはないが、深く澄んでいて、見つめられると心の底を映されるような感覚を覚える。まなざしに、喜びも哀しみも、なぜか同時に漂っていた。
素足のまま立っているはずなのに、足音は一切しない。
その歩みは、地を踏まず、空気を裂かず、ただそこに「現れている」ような気配だった。
手の動きは極めて慎ましく、まるで空気を傷つけぬようにと配慮しているかのようだった。
朝顔に触れはしない。ただ、その輪郭をなぞるように指先を浮かせて、見つめる。
まるで、愛しいものの名を心のなかで唱えているかのように。
声は――とても静かだった。
けれど、それが湊の耳に届くとき、まるで胸の内から直接囁かれているように感じられた。
囁くようでいて、決して弱々しくはない。言葉の奥に、決意のような硬さがある。
風の音や木の葉の囁きを知っている者なら、きっとあの声に「生きていた記憶の名残」を感じ取るだろう。
彼女の存在は、夜の庭そのものだった。
音を殺し、色を失い、ただ月の光だけが――彼女の輪郭を、かろうじてこの世に留めている。
けれど、たしかにそこにいた。夜の闇を背景に、静かに立っていた。
「……あの」
声をかけようとした湊の口元に、そっと冷たい指先が添えられたような気がした。
女は、視線を動かさないまま、ぽつりと囁いた。
「……摘まないで」
それだけだった。
湊がもう一歩踏み出したとき、女の姿はすでに庭の向こう、薄明かりの中へと溶けていた。
懐中電灯の光を頼りに庭へ出て、辺りを探したが、誰の気配もない。
しかし――
朝顔だけは、確かにそこに、五輪のまま咲いていた。
まるで、最初から誰もいなかったかのように。
それは夢だったのか、現だったのか。
湊は布団の中で身じろぎもせず、じっと天井を見つめていた。
月明かりはもう射してこなかった。夜は深く、山の闇は重い。
それでも、目を閉じればあの声が聞こえる。
――摘まないで。
囁きだった。
それなのに、鼓膜ではなく心に直接触れてきたような響きだった。
翌朝、湊は目が覚めると、真っ先に庭へ出た。
まだ霧がわずかに残っていた。空気は冷え、朝露が草を濡らしていた。
けれど、それでも――
朝顔は、咲いていた。
五輪のまま、欠けることなく。
湊は立ち尽くし、そして息を吸い込んだ。
やはり間違いではない。幻覚でも錯覚でもない。
昨夜、確かに“彼女”はここにいた。言葉を残し、去っていった。
ならばあれは――
「……幽霊、か?」
声に出してみても、実感は湧かない。
しかし湊の胸の奥に広がる静かな確信が、その問いに微かに頷いていた。
昼過ぎ、湊は庭の端に埋もれていた小さな祠を見つけた。
風でめくれた笹の葉の下、木の香りと共にその姿はあった。
古びた小祠。手入れはされていない。けれど不思議と崩れておらず、軒先にはひと房の榧の実が落ちていた。
「……」
何の神を祀っているのかはわからない。扁額もなく、名前も記されていない。
けれど、湊の目にはそれが“何かを鎮めるため”のものに見えた。
咲いてはならぬ朝顔。
現れてはならぬ女。
そして、その傍に置かれた名もなき祠。
湊は思い切って、草を払い、祠の前に正座した。
「この屋敷に、何があったんですか」
答えは、風だけだった。
作業は淡々と進んだ。
旧家の庭は、手入れが行き届けば見違えるようになる。
苔は抑えられ、飛び石は輪郭を取り戻し、古木も枝を整えれば空を仰ぐ。
けれど――朝顔だけは、決して手を付けることができなかった。
その理由は、もはや恐れではない。
ただ、触れてはいけないと、心が告げていた。
三日目の夜、湊は筆を執り、作業報告とは別に、日誌を記した。
そこにはこんなことが書かれていた。
月の光が差すたびに、彼女は現れる。
名前は名乗らず、ただ朝顔の傍に佇む。
言葉は一度きり、「摘まないで」。
それは懇願であり、戒めでもあった。
私は彼女のことを、夢とは思わない。
けれど、名を問う勇気が持てない。
朝顔が咲いている限り、彼女はここにいるのだろうか。
咲かなくなったら、もう逢えないのだろうか。
……私は、あの声を、もう一度、聞きたいと思っている。
それは自問であり、すでに答えのようでもあった。
湊はペンを置き、机に灯るランプの火を見つめた。
そのとき、廊下の先で、きい、と障子の開く音がした。
まただ――
今夜も、彼女が来る。
庭に降り立つと、彼女はすでに朝顔の前にいた。
青紫のワンピース。裸足。乱れのない髪。
そして、かすかに揺れる月の光に包まれて。
湊は、今度は声を出さず、ただ彼女の隣に立った。
彼女は視線を逸らさず、朝顔を見たまま、言った。
「……あなた、花を世話してくれてるのね」
初めて、彼女のほうから声をかけてきた。
「いえ……何も。草を抜いたり、苔を削ったりしただけです」
「それで、十分。あの子たち、嬉しそう」
“あの子たち”。
まるで朝顔を人のように語る声に、湊の胸が震えた。
「あなたは……この屋敷の方なんですか?」
恐る恐る尋ねると、彼女はふっと微笑んだ。
「……いいえ。わたしは、咲かされた人。だから、ここにいる」
「咲かされた?」
「咲いてはならぬ庭に、咲いてしまった者。
でも、それでも……月の光が優しい夜には、また咲けるの」
意味はわからなかった。
けれど、そこにある“哀しみ”だけは、手に取るように伝わってきた。
「あなたは、――」
名を問おうとした。
しかしその瞬間、彼女の表情がかすかに翳った。
そして、そっと告げた。
「名を問えば、朝顔は散るの。
……まだ、摘まないでいてくれる?」
その声は、風よりも柔らかく、火よりも切なかった。
湊は、ただ頷いた。
彼女はそれを見届けると、もう一度朝顔に目をやり、月を見上げた。
「ありがとう。あなたが、わたしの咲ける夜をくれたの」
そう言い残し、彼女は庭の奥、闇の方へと溶けていった。
朝顔は、夜気に濡れながら、五輪のまま、揺れていた。
それから湊は毎晩、朝顔のそばに立つようになった。
彼女が現れる夜もあれば、現れぬ夜もある。
けれど、月が出て、朝顔が咲いている限り――
彼は、待ち続けるのだった。
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