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第二章 名を記すことなき人
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帳面の束は、納戸の奥にしまわれていた。
湊は埃を払いながら、一冊ずつ中身を確認していった。
紙は乾ききって脆く、墨の色もほとんど褪せていたが、達筆な筆跡と、年ごとの日付が辛うじて判別できた。
「大正九年」「大正十年」――そして「大正十一年」。
それらの帳面は、まるで日常の記録のようだった。
朝、何時に誰が来た。昼は何を食べた。庭にどこまで手を入れたか。
それだけのことが、淡々と記されている。
だが、「大正十一年十月」の項だけが、頁の途中で破れていた。
「……この家で、何かが途切れた?」
そう思ったときだった。
束の底から、異質な一冊が現れた。
薄墨で縁取られた装丁。表紙には何も書かれていない。
開くと、そこにはたったひとこと――
「朝顔咲ク夜、名ヲ呼ブコト勿レ」
震えるような筆跡。縦書きで、墨が滲んでいた。
湊の指先が、ぴたりと止まる。
まるで、この言葉に触れること自体が、誰かの意志に反しているような気がした。
その夜、月が静かに昇った。
湊は庭の縁に腰を下ろし、帳面の内容を思い返していた。
やはり、彼女はこの屋敷に“かつていた誰か”なのだろうか。
だが、名はどこにも記されていなかった。
そして、今夜も朝顔は咲いていた。
その花の傍に、彼女は再び現れた。
青紫のワンピースが風もなく揺れ、肩口で切り揃えられた髪が、月光をすべらせていた。
素足のまま、彼女は湊の傍に立つ。
「こんばんは」と声をかけようとしたが、湊は思いとどまった。
代わりに、そっと彼女の隣に腰を下ろす。
彼女は視線を朝顔に向けたまま、囁くように言った。
「……あなた、もう知ってしまったのね。帳のこと」
「見てしまった。……けれど、まだ何もわかってない」
彼女は目を伏せ、わずかに首を振る。
月明かりが彼女の睫毛に降り、ひとすじの影が頬に揺れた。
その瞳には、光と影が共に宿っていた。
透明でありながら、その奥に“消えなかった悲しみ”がひそんでいる。
それは湊の心を、見透かすようで、そして、救おうとするようでもあった。
沈黙の中、彼女が手を伸ばした。
朝顔のひとつに、指先がそっと近づいていく。
けれど、触れはしない。
その動きには、ほんの一瞬のためらいがあった。
まるで、かつて触れて、壊してしまった記憶が指先に残っているかのように。
指はふるえ、やがて何も触れぬまま、胸の前へと引き寄せられる。
それは、祈りのようだった。
湊は思わず問いかけた。
「あなたは、なぜ……咲いてはならないんですか」
彼女は微かに笑った。
それはとても静かな笑みで、まず目元に浮かび、やがて唇の端に届いた。
その笑みが現れた瞬間、空気が変わった。
焚き火が最後に放つぬくもりのような、許しにも似たやさしさ。
「咲いてしまったら、終わってしまうから。
……咲くことは、忘れられてしまうことなの。
わたしは、忘れたくないのに」
その言葉は、確かに笑っていた。
けれど――湊の胸には、ほんの少しの痛みが残った。
その夜、湊は決意する。
彼女の名を探そうと。
忘れられたままにしないために。
朝顔が咲く限り、咲いてはいけなかった記憶を、もう一度拾い上げるために――
翌朝、湊は再び納戸へ向かった。
前日見つけた帳面の奥、さらに布をめくると、木箱が現れた。
桐でできた浅い箱。留め金は錆び、開閉の音はきい、と湿った。
中にあったのは、一通の封筒と、白磁の小さな香炉だった。
封筒には筆でしたためられた文字がある。
けれど、受取人の名が書かれていない。代わりに、こうあった。
「君ノ名ハ記シ得ズ」
湊は喉の奥を締めつけられるような感覚に襲われた。
記せない――それは、記さなかったのではなく、できなかったという意味だ。
香炉には、微かに香木の香りが残っていた。白檀のような、静かな甘さ。
だが、それがかえって不安を煽る。
香は供えられたものか、封じられたものか。
湊の中に、ひとつの疑念が芽を出した。
彼女は、本当に“ただの幽霊”なのか。
あるいは――この家に、名を奪われた“なにか”なのではないか。
その夜も、彼女は現れた。
月は前夜よりも細く、光も弱い。
それでも朝顔は、変わらず咲いていた。まるで彼女の代わりに記憶を咲かせるように。
彼女の姿も、いつもと少し違っていた。
青紫のワンピースの裾がわずかに濡れている。月明かりがその影に混じり、肌に薄く冷えの色を添えていた。
「……探してくれたのね」
彼女はそう言って、湊の手に視線を落とす。
そこには、白磁の香炉があった。
「これに……何かが封じられているんですか?」
彼女は答えない。
けれど、表情がひとつ、微かに崩れた。
それは、泣き笑いのようでもあり、諦めのようでもあった。
「名を記すことは、ほんとうは――とても、怖いこと」
そう言って、彼女は庭の方へと歩き出す。
足音はなく、影だけが石の上を渡るようにして進んでゆく。
湊は彼女の背を追い、並んだ。
「でも、僕は知りたい。
あなたが、何者だったのかを。
忘れられたくないって、言ったじゃないですか」
彼女は立ち止まった。
そしてゆっくりと湊の方へ振り返る。
その瞳には、やはり名もなき哀しみの影があった。
だが、それを覆うように、今夜は強い光も宿っていた。
「ありがとう。
でも、わたしが名を持てば――この咲いている花は、もう……咲けなくなるの」
「……それは、どういう――」
「咲かない花は、永遠に咲ける。
でも咲いてしまえば、それは枯れて、終わってしまうの。
咲いてはならぬ理由、わかったでしょう?」
湊は言葉を失った。
それは、愛しさのなかで咲きたくなる衝動と、
咲いたら最後、もう戻れないという“祈りにも似た恐れ”だった。
彼女の指先が、朝顔に伸びる。
前と同じように、ためらい、触れず、そして手を胸に戻す。
その一連のしぐさが、湊の胸を静かに締めつけた。
しばらくの沈黙ののち、彼女はぽつりと呟く。
「君が名を呼ぶなら、わたしは、その名でここを離れられる。
でもそのときは、もう――会えないかもしれない」
それは、選ばせる言葉だった。
救いと喪失の、両方を抱えた問いかけ。
湊は答えられなかった。
ただ、彼女の顔を見て、笑ってほしいと願った。
彼女は、またあの微笑を浮かべた。
目元から光が差すような、空気がふと優しく変わるような、
――世界が許される、あの微笑。
そして、月を背に、再び闇へと還っていった。
その後も朝顔は咲き続けた。
名もなく、声もなく。
ただ、彼女の想いだけがその花弁の奥に宿っていた。
湊は知っていた。
彼女の名を記す日が来れば、すべてが終わるかもしれない。
それでも、彼はもう――名を探すことを、やめられなかった。
湊は埃を払いながら、一冊ずつ中身を確認していった。
紙は乾ききって脆く、墨の色もほとんど褪せていたが、達筆な筆跡と、年ごとの日付が辛うじて判別できた。
「大正九年」「大正十年」――そして「大正十一年」。
それらの帳面は、まるで日常の記録のようだった。
朝、何時に誰が来た。昼は何を食べた。庭にどこまで手を入れたか。
それだけのことが、淡々と記されている。
だが、「大正十一年十月」の項だけが、頁の途中で破れていた。
「……この家で、何かが途切れた?」
そう思ったときだった。
束の底から、異質な一冊が現れた。
薄墨で縁取られた装丁。表紙には何も書かれていない。
開くと、そこにはたったひとこと――
「朝顔咲ク夜、名ヲ呼ブコト勿レ」
震えるような筆跡。縦書きで、墨が滲んでいた。
湊の指先が、ぴたりと止まる。
まるで、この言葉に触れること自体が、誰かの意志に反しているような気がした。
その夜、月が静かに昇った。
湊は庭の縁に腰を下ろし、帳面の内容を思い返していた。
やはり、彼女はこの屋敷に“かつていた誰か”なのだろうか。
だが、名はどこにも記されていなかった。
そして、今夜も朝顔は咲いていた。
その花の傍に、彼女は再び現れた。
青紫のワンピースが風もなく揺れ、肩口で切り揃えられた髪が、月光をすべらせていた。
素足のまま、彼女は湊の傍に立つ。
「こんばんは」と声をかけようとしたが、湊は思いとどまった。
代わりに、そっと彼女の隣に腰を下ろす。
彼女は視線を朝顔に向けたまま、囁くように言った。
「……あなた、もう知ってしまったのね。帳のこと」
「見てしまった。……けれど、まだ何もわかってない」
彼女は目を伏せ、わずかに首を振る。
月明かりが彼女の睫毛に降り、ひとすじの影が頬に揺れた。
その瞳には、光と影が共に宿っていた。
透明でありながら、その奥に“消えなかった悲しみ”がひそんでいる。
それは湊の心を、見透かすようで、そして、救おうとするようでもあった。
沈黙の中、彼女が手を伸ばした。
朝顔のひとつに、指先がそっと近づいていく。
けれど、触れはしない。
その動きには、ほんの一瞬のためらいがあった。
まるで、かつて触れて、壊してしまった記憶が指先に残っているかのように。
指はふるえ、やがて何も触れぬまま、胸の前へと引き寄せられる。
それは、祈りのようだった。
湊は思わず問いかけた。
「あなたは、なぜ……咲いてはならないんですか」
彼女は微かに笑った。
それはとても静かな笑みで、まず目元に浮かび、やがて唇の端に届いた。
その笑みが現れた瞬間、空気が変わった。
焚き火が最後に放つぬくもりのような、許しにも似たやさしさ。
「咲いてしまったら、終わってしまうから。
……咲くことは、忘れられてしまうことなの。
わたしは、忘れたくないのに」
その言葉は、確かに笑っていた。
けれど――湊の胸には、ほんの少しの痛みが残った。
その夜、湊は決意する。
彼女の名を探そうと。
忘れられたままにしないために。
朝顔が咲く限り、咲いてはいけなかった記憶を、もう一度拾い上げるために――
翌朝、湊は再び納戸へ向かった。
前日見つけた帳面の奥、さらに布をめくると、木箱が現れた。
桐でできた浅い箱。留め金は錆び、開閉の音はきい、と湿った。
中にあったのは、一通の封筒と、白磁の小さな香炉だった。
封筒には筆でしたためられた文字がある。
けれど、受取人の名が書かれていない。代わりに、こうあった。
「君ノ名ハ記シ得ズ」
湊は喉の奥を締めつけられるような感覚に襲われた。
記せない――それは、記さなかったのではなく、できなかったという意味だ。
香炉には、微かに香木の香りが残っていた。白檀のような、静かな甘さ。
だが、それがかえって不安を煽る。
香は供えられたものか、封じられたものか。
湊の中に、ひとつの疑念が芽を出した。
彼女は、本当に“ただの幽霊”なのか。
あるいは――この家に、名を奪われた“なにか”なのではないか。
その夜も、彼女は現れた。
月は前夜よりも細く、光も弱い。
それでも朝顔は、変わらず咲いていた。まるで彼女の代わりに記憶を咲かせるように。
彼女の姿も、いつもと少し違っていた。
青紫のワンピースの裾がわずかに濡れている。月明かりがその影に混じり、肌に薄く冷えの色を添えていた。
「……探してくれたのね」
彼女はそう言って、湊の手に視線を落とす。
そこには、白磁の香炉があった。
「これに……何かが封じられているんですか?」
彼女は答えない。
けれど、表情がひとつ、微かに崩れた。
それは、泣き笑いのようでもあり、諦めのようでもあった。
「名を記すことは、ほんとうは――とても、怖いこと」
そう言って、彼女は庭の方へと歩き出す。
足音はなく、影だけが石の上を渡るようにして進んでゆく。
湊は彼女の背を追い、並んだ。
「でも、僕は知りたい。
あなたが、何者だったのかを。
忘れられたくないって、言ったじゃないですか」
彼女は立ち止まった。
そしてゆっくりと湊の方へ振り返る。
その瞳には、やはり名もなき哀しみの影があった。
だが、それを覆うように、今夜は強い光も宿っていた。
「ありがとう。
でも、わたしが名を持てば――この咲いている花は、もう……咲けなくなるの」
「……それは、どういう――」
「咲かない花は、永遠に咲ける。
でも咲いてしまえば、それは枯れて、終わってしまうの。
咲いてはならぬ理由、わかったでしょう?」
湊は言葉を失った。
それは、愛しさのなかで咲きたくなる衝動と、
咲いたら最後、もう戻れないという“祈りにも似た恐れ”だった。
彼女の指先が、朝顔に伸びる。
前と同じように、ためらい、触れず、そして手を胸に戻す。
その一連のしぐさが、湊の胸を静かに締めつけた。
しばらくの沈黙ののち、彼女はぽつりと呟く。
「君が名を呼ぶなら、わたしは、その名でここを離れられる。
でもそのときは、もう――会えないかもしれない」
それは、選ばせる言葉だった。
救いと喪失の、両方を抱えた問いかけ。
湊は答えられなかった。
ただ、彼女の顔を見て、笑ってほしいと願った。
彼女は、またあの微笑を浮かべた。
目元から光が差すような、空気がふと優しく変わるような、
――世界が許される、あの微笑。
そして、月を背に、再び闇へと還っていった。
その後も朝顔は咲き続けた。
名もなく、声もなく。
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