蕣花月光譚(しゅんかげっこうたん)

ukon osumi

文字の大きさ
5 / 7

第五章 朝顔、咲いてしまえば

しおりを挟む
 朝顔が咲いていた。
 咲いてはならぬ花が。
 忘却を呼ぶ花が。
 想いを奪い、記憶を沈める咒の花が。
 それでも湊の胸には、ただ「きれいだ」と思える、それだけがあった。
 庭の隅、石灯籠の影に咲いた青紫の花。
 夜露をまとい、月光に照らされたその花は、ひどく静かに、美しかった。
 だが同時に、湊の頭の奥では、何かが擦れ合う音がした。
 ――誰だっけ?
 花の名は、覚えている。
 けれど、その花を教えてくれた女の名が、言葉にならなかった。
 指先が震える。
 記憶が、一枚ずつ?がれていくように。
 彼女の声、瞳の色、笑ったときのかすかな息づかい。
 すべてが、まるで朝霧のように、陽に溶けていく。
 湊は、庭に立ち尽くしたまま、両の手で顔を覆った。
 自分の中から、大切な何かが零れていく。
 怖い。
 取り戻せないものが、消えていく音がした。
「もう……いやだ」
 口をついて出た言葉に、自分の声さえ遠く感じる。
 まるで自分自身が、霧の向こうにいるようだった。
 ふと、視界に――火が見えた。
 縁側の奥。道具箱の中から取り出した、火打ち石と火皿。
 そして、彼女が遺したと記憶している、“咒の巻紙”。
 そこには、こう書かれていた。
「咲いたなら、焼き払いなさい。忘れたいなら、迷わずに」
 湊は、ゆっくりと火皿に火を入れた。
 朝顔の前に立ち、揺れる炎をその蔓へ向けようとする。
「忘れたくないんだよ……俺は」
 声が震える。
 だが、手は止まらない。
 火が紙を舐め、じりじりと音を立てる。
 そのとき――背後から、ふわりと風が吹いた。
 月光の下、影が差す。
 そして、その気配は確かに、湊の背に、そっと手を添えた。
「それで、いいのよ」
 澪の声だった。
 忘れかけていた、その声が。
 湊の心の奥に、一滴の水音のように沁み込んでくる。
 振り返れば、そこに彼女が立っていた。
 月光の中、白く輝く肌。
 青紫のワンピースが、夜風に揺れている。
 髪は肩で切り揃えられ、素足のまま、庭石に立っていた。
 そしてその瞳には、かすかに、哀しみの光が宿っていた。
 湊は、気づいていた。
 彼女はこの世の者ではない。
 名を失い、咒に取り込まれた、“忘れられることを願った霊”。
 けれど今、なぜかその姿は、やけに鮮明だった。
 揺れる月の輪郭よりも、ずっと確かに――そこにいる。
「澪……」
 ようやく湊の唇から、その名が零れたとき。
 彼女の表情が、微かに崩れた。
 目元にふっと光が差し、まるで“世界が許される”ような、優しい微笑みを浮かべる。
 その笑顔に、湊はただ歩み寄っていた。
 足元はふらついていた。記憶はすでに、いくつも欠けていた。
 だが、彼女を愛おしいと思う心だけは、たしかに残っていた。
 彼女もまた、湊の手を探すように、そっと差し出していた。
 指先と指先が――触れ合った。

 >本来、霊は人に触れることはできない。
 >だが、誰かを“愛おしい”と願い、想いが交差したとき、
 >境界は溶け合い、わずかにその手は届く。
 >想いが、奇跡を許す――たとえ、それが一瞬であっても。
 湊は、その指先をぎゅっと包んだ。
 確かに、そこに温もりがあった。
 風のない空気の中で、彼女のぬくもりだけが、やわらかく灯っていた。
 彼女の手が、湊の頬に触れる。
 ふわりと、月光が落ちたようだった。

 触れた。
 確かに、触れられた。
 彼女の指先は、湊の頬をなぞった。
 冷たくない。むしろ、あたたかい。
 まるで、春先の朝に触れた光のように――柔らかく、懐かしい。
「……湊さん」
 その声は、ごく近くから聞こえた。
 耳に触れる風ではなく、心に届くささやきとして。
 湊は、もう何も言えなかった。
 何を言えばいいのかもわからない。
 ただ――彼女がここにいて、
 いま、自分を見てくれている。
 それだけで、胸がいっぱいだった。
「わたし、ずっと……誰にも触れられなかったの」
 澪がそうつぶやいた。
 風に溶けそうなその声に、澪の瞳が揺れていた。
「触れてほしいと思っても、届かなかった。
 誰かに見てほしいと思っても、見えなかった。
 だから……湊さんが、触れてくれて……うれしかった」
 彼女の頬を伝った涙が、ひとすじ。
 それは地面に落ちる前に、湊の指がそっと受け止めていた。
「俺も……澪に会えて、うれしかった」
 湊は、震える声でそう答えた。
 もう言葉はうまく出てこなかった。
 でも、彼女にはちゃんと伝わっていると、思えた。
 ふたりの距離が、すっと近づく。
 風も、虫の声も、夜の音も消える。
 ただ――
 ふたつの魂のあいだにあった“境界”が、
 やわらかく溶けていく。
 月光の中、澪はそっと目を閉じた。
 湊もまた、導かれるように彼女の額へと唇を寄せる。
 キスは、長くはなかった。
 けれど、それはたしかに“結ばれた”ということだった。
 言葉ではなく、触れ合うだけで伝わる想い。
 咒が何であれ、禁じられた朝顔が咲こうとも、
 この想いは誰にも奪えない。
「湊さん」
 目を開けた澪が、静かに笑った。
 その笑みはどこか寂しく、けれどやさしかった。
「咲いてしまったから、もう……わたし、戻れない」
 その言葉に、湊はぎゅっと彼女の手を握った。
「……それでもいい。俺は、忘れない」
 澪は目を伏せて、ゆっくりと頷いた。
 花が、月の光に透けている。
 咲いてしまった朝顔は、咒のように記憶を吸い取る。
 でも湊は、もう怯えなかった。
 記憶がすべてじゃない。
 名を忘れても、顔を思い出せなくても、
 この夜、この温もり、このキスだけは――魂に焼き付いている。
「ありがとう、澪」
「わたしのほうこそ……ありがとう」
 ふたりの手は、そっと離れる。
 澪の姿が、ゆっくりと月に溶けていく。
 笑っていた。
 泣いていた。
 その微笑みを、湊はずっと忘れないと誓った。
 咲いた朝顔が、いまも風に揺れている。
 それはもう咒ではなく――ふたりの記憶そのものだった。
しおりを挟む
感想 0

あなたにおすすめの小説

短な恐怖(怖い話 短編集)

邪神 白猫
ホラー
怪談・怖い話・不思議な話のオムニバス。 王道ホラーではない。人の業をテーマにしたホラー。 人の醜さ・弱さ・愚かさ・儚さを問う。 こんなにも憐れで美しいのは──人の本質。 じわじわと痛みの伴う読後感。そんなホラーはいかがですか? ゾクッと怖い話から、ちょっぴり切ない話まで。 なかには意味怖的なお話も。 ※追加次第更新中※ YouTubeにて、怪談・怖い話の朗読公開中📕 https://youtube.com/@yuachanRio

葬祭会館で働いて

夕暮
ホラー
一級葬祭ディレクター 葬儀司会者として現場に立ち続け、実体験のホラーを書いてます 煎茶道師範 茶道恋愛小説

わたしの下着 母の私をBBA~と呼ぶことのある息子がまさか...

MisakiNonagase
青春
39才の母・真知子は息子が私の下着を持ち出していることに気づいた。 ネットで同様の事象がないか調べると、案外多いようだ。 さて、真知子は息子を問い詰める? それとも気づかないふりを続けてあげるか? そのほかに外伝も綴りました。

不倫商法_full

美凪ましろ
ホラー
 ――本当にいけないことをしたと分かっています。  誰もが憧れる有名女優Mと結婚し、二児を授かった幸福の絶頂にあるはずの俳優兼歌手である藤春清高は、世間を騒然とさせる記者会見を行った。彼はスペインに高飛びするが目論見は別のところにあり……。  不倫を行う当事者、家族、子どもたちが受ける被害、差別をリアルに描いた一話完結型の短編集。  モキュメンタリー/ミステリー/ホラー要素あり。

上司、快楽に沈むまで

赤林檎
BL
完璧な男――それが、営業部課長・**榊(さかき)**の社内での評判だった。 冷静沈着、部下にも厳しい。私生活の噂すら立たないほどの隙のなさ。 だが、その“完璧”が崩れる日がくるとは、誰も想像していなかった。 入社三年目の篠原は、榊の直属の部下。 真面目だが強気で、どこか挑発的な笑みを浮かべる青年。 ある夜、取引先とのトラブル対応で二人だけが残ったオフィスで、 篠原は上司に向かって、いつもの穏やかな口調を崩した。「……そんな顔、部下には見せないんですね」 疲労で僅かに緩んだ榊の表情。 その弱さを見逃さず、篠原はデスク越しに距離を詰める。 「強がらなくていいですよ。俺の前では、もう」 指先が榊のネクタイを掴む。 引き寄せられた瞬間、榊の理性は音を立てて崩れた。 拒むことも、許すこともできないまま、 彼は“部下”の手によって、ひとつずつ乱されていく。 言葉で支配され、触れられるたびに、自分の知らなかった感情と快楽を知る。それは、上司としての誇りを壊すほどに甘く、逃れられないほどに深い。 だが、篠原の視線の奥に宿るのは、ただの欲望ではなかった。 そこには、ずっと榊だけを見つめ続けてきた、静かな執着がある。 「俺、前から思ってたんです。  あなたが誰かに“支配される”ところ、きっと綺麗だろうなって」 支配する側だったはずの男が、 支配されることで初めて“生きている”と感じてしまう――。 上司と部下、立場も理性も、すべてが絡み合うオフィスの夜。 秘密の扉を開けた榊は、もう戻れない。 快楽に溺れるその瞬間まで、彼を待つのは破滅か、それとも救いか。 ――これは、ひとりの上司が“愛”という名の支配に沈んでいく物語。

(ほぼ)1分で読める怖い話

涼宮さん
ホラー
ほぼ1分で読める怖い話! 【ホラー・ミステリーでTOP10入りありがとうございます!】 1分で読めないのもあるけどね 主人公はそれぞれ別という設定です フィクションの話やノンフィクションの話も…。 サクサク読めて楽しい!(矛盾してる) ⚠︎この物語で出てくる場所は実在する場所とは全く関係御座いません ⚠︎他の人の作品と酷似している場合はお知らせください

紅葉-くれは-

菊池まりな
ホラー
山間の小さな町で行われる秋祭り。 提灯の灯りが揺れる夜、少女・くれはは謎めいた声に導かれるように姿を消した。 必死に探す母・春香は、その瞬間に悟る。 ──これは二十年前にも起きた「忌まわしい出来事」と同じ始まりだ。 町に伝わる古い言い伝え。 “赤い森に呼ばれた者は戻らない” だが、外から赴任してきた刑事・祐真は、その話をただの迷信と切り捨てる。 少女の失踪を追ううちに、彼は次第に目を逸らせぬ現実に直面していく。 森に蠢くもの。木々に浮かぶ人の顔。 血のように濡れた葉が降りしきる中で、人々はひとり、またひとりと消えていく──。 過去と現在が交錯し、町の秘密が暴かれるとき、 くれはの名を呼ぶ声の正体が明らかになる。

洒落にならない怖い話【短編集】

鍵谷端哉
ホラー
その「ゾワッ」は、あなたのすぐ隣にある。 意味が分かると凍りつく話から、理不尽に追い詰められる怪異まで。 隙間時間に読める短編ながら、読後の静寂が怖くなる。 洒落にならない実話風・創作ホラー短編集。

処理中です...