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第六章 咲いて、枯れても
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その朝顔は、夜明けまで咲き続けていた。
風がひとつ吹いて、空が少し白みはじめたころ、
湊はまだ庭にいた。
咲いたはずの咒の花が、今はただ静かに揺れている。
その姿は、かつて見たどの朝顔よりも、美しかった。
咲いてしまったのに――
記憶は、消えていなかった。
むしろ、その逆だった。
澪の声も、微笑みも、触れた手の温もりも、
すべてが鮮やかに、胸の奥に刻まれている。
湊は、朝顔を見つめたまま、ひとつ深く息を吐いた。
「咲いたのに……忘れられないんだな」
独り言のように漏らした声が、空に溶けていく。
そう、咲いてしまったのに。
いや、咲いたからこそ――忘れられなかったのかもしれない。
想いが届いたから、咒の“かたち”が変わったのだ。
かつてこの花は、「想われること」に怯えた誰かの祈りだった。
誰かに愛されるたび、心が苦しくなる。
忘れてほしいと願いながら、忘れられるたびに寂しくて、
やがてその想いが、咒として根を張った。
けれど今、この庭には、そうした苦しみの気配はもうない。
ただ静かに、凪いだような空気が流れていた。
湊はしゃがみ込み、朝顔の蔓に手を伸ばした。
花に触れるのが、どこか怖かった。
でもそれ以上に、もう一度あの温もりに触れたかった。
そっと、指先が葉をなぞる。
手応えは、あった。
そこに咒の毒はない。
朝露に濡れた葉が、ひやりとしただけだった。
そして、そのとき――風もないのに、
葉がかすかに揺れた。
「澪……?」
思わず名を呼んでいた。
その名に応じるように、ふわりとした光が庭に差す。
彼女の姿は、もう見えなかった。
けれど、確かに“そこにいた”という実感だけが残っている。
耳を澄ませば、言葉にならない声が、どこか遠くで響いていた。
――ありがとう。
それは湊の心の奥に直接、優しく触れてくる声だった。
澪は、もうこの世のものではない。
けれど、想いはここに残っている。
咲いた朝顔も、枯れた朝顔も、
記憶とともに――ここにいる。
湊は目を閉じ、掌にあの手のぬくもりを思い出す。
「……あのとき、俺はちゃんと、触れられたんだよな」
あれが幻ではなかったこと。
想いが通じた証であったこと。
それが、いまも湊を支えていた。
朝日はまだ、遠かった。
だが、空はもう夜をやめようとしている。
湊は立ち上がり、手ぬぐいで手をぬぐった。
湿った葉の感触が、まだ手の中に残っている。
「咲いて、枯れても……忘れないからな」
言葉は風に乗り、どこかへ飛んでいった。
それが彼女に届いたかどうかはわからない。
けれど、言葉にしたことが、湊の胸を少し軽くした。
静けさのなか、朝露が庭を濡らしている。
草も木も、咲ききった花も、すべてが眠る前の息をつくように、しんと沈んでいた。
そのとき――湊の前に、ふたたび彼女が現れた。
澪だった。
けれど、昨夜までの姿とは違っていた。
輪郭が淡く、まるで朝霧のなかに咲いた月光のように揺れている。
髪はさらりと肩にかかり、朝顔の青紫を思わせるワンピースが風もなく揺れていた。
澄んだ瞳が、まっすぐ湊を見ている。
「……澪」
湊が名を呼ぶと、彼女は優しく微笑んだ。
「咲いて、しまいましたね」
その声には、かすかな安堵と寂しさが混ざっていた。
だが、泣いていなかった。
「でも……うれしかったの。
あなたに、触れてもらえて。
忘れたくないって、言ってもらえて。
あんなに、強く、想ってもらえたのは、はじめてでした」
湊は言葉が出なかった。
胸が、きゅっと締めつけられた。
それは感傷ではなく、別れの予感でもない。
ただ純粋に、彼女が“救われていく”という確信だった。
「湊さん……もう私は、咒ではありません。
あなたのおかげで、ただのひとりの、女の子に戻れたの」
言いながら、澪はゆっくりと歩み寄ってきた。
ふたたび、湊の前に立つ。
手が、すっと伸びる。
湊の頬に、そっと触れる。
あたたかい。
それは確かに、風ではない。幻想でもない。
想いが触れた先に、ほんとうの温もりがあった。
「ありがとう、湊さん。……さようなら」
声が震えなかったのは、もう迷っていないからだろう。
澪は、微笑みながら言った。
その唇が、そっと湊の額に触れる。
ひととき、世界が止まったようだった。
そして――
光が、澪の体からあふれた。
まばゆいほどの光。
金と白が溶け合うような輝きが、庭いっぱいに広がった。
葉の露が光を受けてきらめき、
咲いていた朝顔が、ひとつ、またひとつと、静かに花を閉じてゆく。
彼女は、何も言わなかった。
ただ、湊を見ていた。
それは、すべてを言い終えた者のまなざしだった。
やがてその姿は、光のなかに溶けていった。
風が吹いた。
その風には、香りがあった。
夏の終わりに咲く、朝顔の香り。
湊はしばらく、何も言えずに立ち尽くしていた。
目に涙はなかった。
けれど、心の奥に何かが静かに染みこんでいくのを感じていた。
「……昇華、したんだな」
思わずそうつぶやいた。
それは誰に言うでもなく、ただ静かに響いた。
霊は、本来この世のものに触れられない。
けれど、澪は違った。
湊が彼女を「愛おしい」と願い、彼女もまた湊に「触れたい」と心から願ったから、
二つの魂は一瞬だけ――同じ場所に立てた。
風がひとつ吹いて、空が少し白みはじめたころ、
湊はまだ庭にいた。
咲いたはずの咒の花が、今はただ静かに揺れている。
その姿は、かつて見たどの朝顔よりも、美しかった。
咲いてしまったのに――
記憶は、消えていなかった。
むしろ、その逆だった。
澪の声も、微笑みも、触れた手の温もりも、
すべてが鮮やかに、胸の奥に刻まれている。
湊は、朝顔を見つめたまま、ひとつ深く息を吐いた。
「咲いたのに……忘れられないんだな」
独り言のように漏らした声が、空に溶けていく。
そう、咲いてしまったのに。
いや、咲いたからこそ――忘れられなかったのかもしれない。
想いが届いたから、咒の“かたち”が変わったのだ。
かつてこの花は、「想われること」に怯えた誰かの祈りだった。
誰かに愛されるたび、心が苦しくなる。
忘れてほしいと願いながら、忘れられるたびに寂しくて、
やがてその想いが、咒として根を張った。
けれど今、この庭には、そうした苦しみの気配はもうない。
ただ静かに、凪いだような空気が流れていた。
湊はしゃがみ込み、朝顔の蔓に手を伸ばした。
花に触れるのが、どこか怖かった。
でもそれ以上に、もう一度あの温もりに触れたかった。
そっと、指先が葉をなぞる。
手応えは、あった。
そこに咒の毒はない。
朝露に濡れた葉が、ひやりとしただけだった。
そして、そのとき――風もないのに、
葉がかすかに揺れた。
「澪……?」
思わず名を呼んでいた。
その名に応じるように、ふわりとした光が庭に差す。
彼女の姿は、もう見えなかった。
けれど、確かに“そこにいた”という実感だけが残っている。
耳を澄ませば、言葉にならない声が、どこか遠くで響いていた。
――ありがとう。
それは湊の心の奥に直接、優しく触れてくる声だった。
澪は、もうこの世のものではない。
けれど、想いはここに残っている。
咲いた朝顔も、枯れた朝顔も、
記憶とともに――ここにいる。
湊は目を閉じ、掌にあの手のぬくもりを思い出す。
「……あのとき、俺はちゃんと、触れられたんだよな」
あれが幻ではなかったこと。
想いが通じた証であったこと。
それが、いまも湊を支えていた。
朝日はまだ、遠かった。
だが、空はもう夜をやめようとしている。
湊は立ち上がり、手ぬぐいで手をぬぐった。
湿った葉の感触が、まだ手の中に残っている。
「咲いて、枯れても……忘れないからな」
言葉は風に乗り、どこかへ飛んでいった。
それが彼女に届いたかどうかはわからない。
けれど、言葉にしたことが、湊の胸を少し軽くした。
静けさのなか、朝露が庭を濡らしている。
草も木も、咲ききった花も、すべてが眠る前の息をつくように、しんと沈んでいた。
そのとき――湊の前に、ふたたび彼女が現れた。
澪だった。
けれど、昨夜までの姿とは違っていた。
輪郭が淡く、まるで朝霧のなかに咲いた月光のように揺れている。
髪はさらりと肩にかかり、朝顔の青紫を思わせるワンピースが風もなく揺れていた。
澄んだ瞳が、まっすぐ湊を見ている。
「……澪」
湊が名を呼ぶと、彼女は優しく微笑んだ。
「咲いて、しまいましたね」
その声には、かすかな安堵と寂しさが混ざっていた。
だが、泣いていなかった。
「でも……うれしかったの。
あなたに、触れてもらえて。
忘れたくないって、言ってもらえて。
あんなに、強く、想ってもらえたのは、はじめてでした」
湊は言葉が出なかった。
胸が、きゅっと締めつけられた。
それは感傷ではなく、別れの予感でもない。
ただ純粋に、彼女が“救われていく”という確信だった。
「湊さん……もう私は、咒ではありません。
あなたのおかげで、ただのひとりの、女の子に戻れたの」
言いながら、澪はゆっくりと歩み寄ってきた。
ふたたび、湊の前に立つ。
手が、すっと伸びる。
湊の頬に、そっと触れる。
あたたかい。
それは確かに、風ではない。幻想でもない。
想いが触れた先に、ほんとうの温もりがあった。
「ありがとう、湊さん。……さようなら」
声が震えなかったのは、もう迷っていないからだろう。
澪は、微笑みながら言った。
その唇が、そっと湊の額に触れる。
ひととき、世界が止まったようだった。
そして――
光が、澪の体からあふれた。
まばゆいほどの光。
金と白が溶け合うような輝きが、庭いっぱいに広がった。
葉の露が光を受けてきらめき、
咲いていた朝顔が、ひとつ、またひとつと、静かに花を閉じてゆく。
彼女は、何も言わなかった。
ただ、湊を見ていた。
それは、すべてを言い終えた者のまなざしだった。
やがてその姿は、光のなかに溶けていった。
風が吹いた。
その風には、香りがあった。
夏の終わりに咲く、朝顔の香り。
湊はしばらく、何も言えずに立ち尽くしていた。
目に涙はなかった。
けれど、心の奥に何かが静かに染みこんでいくのを感じていた。
「……昇華、したんだな」
思わずそうつぶやいた。
それは誰に言うでもなく、ただ静かに響いた。
霊は、本来この世のものに触れられない。
けれど、澪は違った。
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