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第七章 朝顔のない庭にて
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――咲かずとも、美しい。
――忘れなかったから、いまもここにいる。
大正十三年――秋の終わり。
朝夕の風が冷たくなり、日暮れも早くなったころ、湊はふたたびあの旧家を訪れた。
道の両脇に伸びるすすきが、風にさわりと鳴る。
草木はすでに夏の気配を脱ぎ捨て、あたりは色を失いつつある。
それでも、あの庭の空気はどこか懐かしく、やわらかい。
門をくぐった瞬間、湊の胸がかすかに鳴った。
まるで心が、この場所を覚えていたかのように。
庭は、ひっそりとしていた。
雑草は控えめに伸びていたが、荒れた様子はない。
あの朝顔の蔓だけが、去年と同じように、塀に沿って伸びている。
だが――咲いていない。
蔓は生きている。
だが花は、一輪も、咲いていない。
それが、湊にはたまらなく嬉しかった。
彼は、そっと庭の端に腰を下ろす。
そして、ポケットから包みを取り出した。
それは、澪の姿が消えたあとも残されていた、
一枚の、干からびた朝顔の花びらだった。
あの日、光のなかに舞い上がったそれが、
庭の片隅に落ちていたのを、湊は無意識に拾っていたのだった。
「咲かなくて、よかったよ」
湊は、蔓に向かって静かに語りかけた。
花を咲かせなかったことが、いまの彼にとって何よりの証だった。
咲けば、想いを奪う。
咲かねば、想いは残る。
だから、咲かずにいてくれた。
――澪が、ここにもういなくても。
想いが咒ではなくなったからこそ、花は必要ではなくなったのだ。
「今年も、来たよ」
「来年も、きっと来る」
「咲かないままで、いてくれればそれでいい」
まるで独り言のように、あるいは文通の返事のように、湊はつぶやいた。
それは誰に届くともわからない言葉だったが、確かに“どこか”に伝わった気がした。
彼の内には、確かな温もりが残っていたからだ。
空を見上げれば、夕暮れがはじまっている。
庭に影が長く差しはじめ、蔓もやがてその影のなかに溶けていった。
だが、湊にはそれが悲しくはなかった。
“咲かぬまま、美しい”――
そう思える心が、自分のなかに残っていることが、うれしかった。
――咲かぬまま、美しい。
――記憶と祈りは、ここに残る。
風が止まった。
ふと、湊は庭の奥――去年、澪が佇んでいた場所を見つめた。
そこにはもう、誰の影もない。
だが、風が止んだことで、空気が変わった。
澄んで、透明で、どこか懐かしい。
目を閉じる。
その瞬間――“ただいま”という声が、心の奥で響いた気がした。
「……澪」
名を呼ぶ声は、喉ではなく胸の奥から漏れた。
返事はなかった。
だが、どこかにいた。
蔓に触れる。
花は咲いていない。
でも、それでいい。
湊はその柔らかな蔓を、そっと撫でた。
まるで彼女の髪に触れていたあの夜のように。
「覚えているよ」
「おまえの声も、笑い方も。あのときの涙も……」
言葉にしながら、少しずつ確信が生まれていく。
花が咲かぬことで、咒は形を変えた。
そして今、ここにあるのは――祈りだ。
想いを引き裂かず、記憶を奪わず、ただ静かに残る祈り。
湊はふと、小さく笑った。
「そうか。おまえは、咲かないことを選んだんだな」
それは、忘れられないための選択だった。
記憶とともに生きるための、美しい拒絶。
ふと風が戻り、蔓がわずかに揺れた。
まるで応えるように。
陽が沈みきる直前、湊は立ち上がった。
庭の空は、夕焼けの名残と夜の青が混じり合い、まるで夢と現の境界のようだった。
蔓はそこに、静かにからまっている。
咲かず、ただ在るだけで、こんなにも美しいものがあるのだと、湊は知った。
忘れられたものではなく、
忘れないと決めたものだけが、こんな風に残るのだと。
湊は最後に、庭へ向かって一礼した。
そして、小さくささやいた。
「来年も、来るよ」
その声に応えるように、風がまたひとつ、蔓を揺らした。
静かな庭に、花はなかった。
けれど、そこには確かに――誰かが、いた。
この物語を最後まで読んでくれて、ありがとう。
あなたの時間に、少しでも灯がともったなら嬉しいです。
――忘れなかったから、いまもここにいる。
大正十三年――秋の終わり。
朝夕の風が冷たくなり、日暮れも早くなったころ、湊はふたたびあの旧家を訪れた。
道の両脇に伸びるすすきが、風にさわりと鳴る。
草木はすでに夏の気配を脱ぎ捨て、あたりは色を失いつつある。
それでも、あの庭の空気はどこか懐かしく、やわらかい。
門をくぐった瞬間、湊の胸がかすかに鳴った。
まるで心が、この場所を覚えていたかのように。
庭は、ひっそりとしていた。
雑草は控えめに伸びていたが、荒れた様子はない。
あの朝顔の蔓だけが、去年と同じように、塀に沿って伸びている。
だが――咲いていない。
蔓は生きている。
だが花は、一輪も、咲いていない。
それが、湊にはたまらなく嬉しかった。
彼は、そっと庭の端に腰を下ろす。
そして、ポケットから包みを取り出した。
それは、澪の姿が消えたあとも残されていた、
一枚の、干からびた朝顔の花びらだった。
あの日、光のなかに舞い上がったそれが、
庭の片隅に落ちていたのを、湊は無意識に拾っていたのだった。
「咲かなくて、よかったよ」
湊は、蔓に向かって静かに語りかけた。
花を咲かせなかったことが、いまの彼にとって何よりの証だった。
咲けば、想いを奪う。
咲かねば、想いは残る。
だから、咲かずにいてくれた。
――澪が、ここにもういなくても。
想いが咒ではなくなったからこそ、花は必要ではなくなったのだ。
「今年も、来たよ」
「来年も、きっと来る」
「咲かないままで、いてくれればそれでいい」
まるで独り言のように、あるいは文通の返事のように、湊はつぶやいた。
それは誰に届くともわからない言葉だったが、確かに“どこか”に伝わった気がした。
彼の内には、確かな温もりが残っていたからだ。
空を見上げれば、夕暮れがはじまっている。
庭に影が長く差しはじめ、蔓もやがてその影のなかに溶けていった。
だが、湊にはそれが悲しくはなかった。
“咲かぬまま、美しい”――
そう思える心が、自分のなかに残っていることが、うれしかった。
――咲かぬまま、美しい。
――記憶と祈りは、ここに残る。
風が止まった。
ふと、湊は庭の奥――去年、澪が佇んでいた場所を見つめた。
そこにはもう、誰の影もない。
だが、風が止んだことで、空気が変わった。
澄んで、透明で、どこか懐かしい。
目を閉じる。
その瞬間――“ただいま”という声が、心の奥で響いた気がした。
「……澪」
名を呼ぶ声は、喉ではなく胸の奥から漏れた。
返事はなかった。
だが、どこかにいた。
蔓に触れる。
花は咲いていない。
でも、それでいい。
湊はその柔らかな蔓を、そっと撫でた。
まるで彼女の髪に触れていたあの夜のように。
「覚えているよ」
「おまえの声も、笑い方も。あのときの涙も……」
言葉にしながら、少しずつ確信が生まれていく。
花が咲かぬことで、咒は形を変えた。
そして今、ここにあるのは――祈りだ。
想いを引き裂かず、記憶を奪わず、ただ静かに残る祈り。
湊はふと、小さく笑った。
「そうか。おまえは、咲かないことを選んだんだな」
それは、忘れられないための選択だった。
記憶とともに生きるための、美しい拒絶。
ふと風が戻り、蔓がわずかに揺れた。
まるで応えるように。
陽が沈みきる直前、湊は立ち上がった。
庭の空は、夕焼けの名残と夜の青が混じり合い、まるで夢と現の境界のようだった。
蔓はそこに、静かにからまっている。
咲かず、ただ在るだけで、こんなにも美しいものがあるのだと、湊は知った。
忘れられたものではなく、
忘れないと決めたものだけが、こんな風に残るのだと。
湊は最後に、庭へ向かって一礼した。
そして、小さくささやいた。
「来年も、来るよ」
その声に応えるように、風がまたひとつ、蔓を揺らした。
静かな庭に、花はなかった。
けれど、そこには確かに――誰かが、いた。
この物語を最後まで読んでくれて、ありがとう。
あなたの時間に、少しでも灯がともったなら嬉しいです。
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