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第十九話「終わらない夜」
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その言葉を聞いたとき、美沙は思わず足を止めた。
「もうみんな、おかあさんの中にいるよ」
蓮は、まっすぐに美沙を見ていた。けれどその瞳は、なにかを透かすように、彼女の背後――**もっと遠くの“誰か”**を見ているようだった。
言葉の意味は理解できた。文法も発音も正しい。だが、“誰が”話したのかがわからなかった。
その声は蓮の口から発されたはずなのに、どこか別の場所から“伝えられた”ような――言葉の肉体が欠けている、そんな不気味さがあった。
「蓮……今、なんて言ったの?」
訊き返しても、蓮は何も言わなかった。ただ、美沙の肩越しに視線を送り続けていた。焦点の合わない目。まばたきすら、ぎこちない。
そのとき、美沙は気づいた。
蓮の視線が“誰か”を追っている。
それも、いま、ここにいない誰かを。
リビングに戻り、テレビをつける。画面の中では、街頭インタビューの映像が流れていた。深夜、複数の施設や駅構内で“無言の破壊行動”が確認されたという。
「やっぱり、また起きてる……」
美沙は独りごちた。映像には映っていないが、そこにいたのは“子供たち”なのだ――坂東が現場で実際に、小柄な影が動くのを目撃していたと聞いていた。その確かな証言と、蓮の言葉とが繋がっている気がしてならなかった。美沙には、すべてが同じ流れの中にあるとしか思えなかった。
昨夜――確かに蓮は、外に出ようとしていた。
鍵は閉まっていた。けれど、しろは玄関マットの上にいた。まるで、誰かを迎え入れるように。
「……私が、止めなければ……」
美沙は立ち上がる。少し身体が重い。けれどそれは、疲れというより、**判断を曇らせる“何か”**が頭の奥に留まっているせいだった。
その日、道場の稽古は休みにした。子どもたちの登校にも異変が出ている。複数の家庭で“原因不明の倦怠”を訴える例が続出し、通学を控える動きが見られていた。
街は、静かだった。だが、その静けさこそが異常だった。
ふだんなら朝の時間帯、コンビニからは揚げ物の匂いが流れてくる。駅前のベンチには制服姿の高校生が集まって、携帯を覗き込んでいる。
けれど今日は、どこかのスイッチが切れたかのように、街の“活動音”が消えていた。
交差点の信号が切り替わる音だけが、やけに大きく耳に残る。
蓮は、まだ眠っていた。
朝食には手をつけず、静かに横たわっている。まるで、夢の中で“別の場所”に行っているかのように。顔色は悪くない。呼吸も穏やか。けれど、その姿はあまりにも“無防備”すぎて、美沙の胸をざわつかせた。
「……夢、見てる?」
誰にともなく呟いたその言葉に、返事はなかった。
ふと、蓮の右手が微かに動いた。けれどそれは反射ではなく、“誰かと手をつなぐ仕草”のように見えた。
見えない誰かと、確かに“交信”している――そんな気がしてならなかった。
昼過ぎ、燈子が訪ねてきた。
蓮はまだ目を覚ましておらず、美沙は居間で静かにコーヒーを淹れていた。
「やっぱり……外出してたのね。蓮くん」
「ええ。私の目を見ていなかった。“誰かの目”を通して、私を見てた」
「視線を乗っ取られてる……。それは、“子供の身体が、情報端末化している”証拠」
燈子は、バッグから封筒を取り出した。中には、都市構造の一部を図式化したスケッチが入っていた。
「都市のあちこちに、“記憶の揺らぎ”があるの。わかりやすい例で言えば、“昨日そこにあった看板が、今日なくなってる”とか、“いつも通ってる通学路なのに、道幅が狭くなった気がする”とか」
「……記憶の錯覚?」
「そう言ってしまえばそれまで。でも、それが複数人に同時に起きているの。しかも、共通するのは“子供が近くにいた”という点」
燈子の目は真剣だった。
「これは、意識の改竄……つまり、“母性の記録そのものが、書き換えられてる”可能性がある」
その言葉に、美沙の手が止まる。
“母性の記録”。
それは、自分の中にしかないものだと思っていた。
けれど――もしかしたら、それすらも、誰かに“見られ”、模倣され、“上書き”されているのだとしたら。
「私は……誰の母なの?」
思わず出たその言葉は、美沙自身が思っていた以上に重かった。
それは不安ではなく、強烈な違和感だった。
まるで、自分の“母”としての役割が、誰か別の“母”に徐々に置き換えられていくような。
その夜。
蓮は、はっきりと目を開けた。
けれど、美沙の目を見なかった。
その代わりに――誰もいない廊下の先を見つめながら、ぽつりと呟いた。
「もう、あの子たちは帰らないよ。……みんな、おかあさんの中にいるから」
その口調には、幼さも怯えもなかった。
ただ、言わされているのではない、完全に“同意している者”の声だった。
美沙の背筋が、音もなく凍りついた。
それは――蓮の言葉ではなかった。
だが同時に、“完全に蓮の声”だった。
駅前の無人パン屋からの通報が入ったのは、午後十時四十分だった。
「ガラスが割られている」「中が荒らされている」「だが、何も盗まれていない」
状況だけを並べれば、いつもと変わらない――いや、“何も盗られていない”という時点で、いつもと明らかに違っていた。動機の見えない破壊。明確な目的を持たない侵入。
坂東は、すでにこの異常の“かたち”を知っていた。
別の地点で起きた出来事と同じだ。
静かに侵入し、的確に破壊する。物は盗らない。音も立てない。
その“無言の痕跡”こそが、共通点だった。
続けざまに、別の店舗からも通報が入った。今度は無人コンビニ。
坂東は現場対応の警備員から送られてきた防犯映像のダイジェストを受信した。画質は悪くなかった。店内には、深夜にもかかわらず三つの人影が現れていた。
けれど、それらの顔はすべて、光の反射で潰れていた。
店内の天井照明が逆光になり、カメラに強く白飛びする――その説明で済むならいい。だが、三体すべての顔だけが、まるで意図的に覆い隠されたように“認識不能”なのだ。
「小柄だな……子供か?」
声に出してしまってから、坂東は口を閉じた。
その問いに、答えてはいけない――答えが出たら、捜査が崩れる。
事務所に戻った坂東は、状況報告をまとめるふりをしながら、ノートPCに映像を映し出し続けた。繰り返す。巻き戻す。再生速度を変える。
けれど、答えは出なかった。
いや、答えは出ているのに、目が拒否していた。
そこへ、美沙からのメッセージが届いた。
《蓮がまた起きました。“もう帰らない”って言いました。“みんなおかあさんの中にいる”と》
読みながら、坂東は椅子に深く背を預けた。
――またか。
同じ言葉だ。
桜南町の児童相談所、北環の学童保育、桜山小の放課後教室――それぞれの施設の職員が、異口同音に言っていた。
「“おかあさんがいるから、帰らなくていい”と子供が言った」
「“うちにはもう、帰る場所がない”と、誰かが囁いたようだった」
けれど、どの子も“その言葉を言った記憶がない”と答えた。
発話されたのに、記憶されていない言葉。
それはもう、“自分の意志で話した言葉”ではなかったということだ。
そして、その言葉の送り手が――“ラミア”だ。
坂東は、改めて机の上の書類を見渡す。小学校、保育園、放課後施設、通報者、警備会社、そして神原美沙。
今、彼女の家庭にも、“何か”が接続されつつある。
映像に戻る。
割られた自動扉、倒された棚。きれいに並べられていたパンが、均等に落とされていた。何かを探して荒らされたのではない。整えるために壊したような規則性があった。
「命令されていない……けれど、“同意”しているんだな」
そのつぶやきが、坂東の胸の内で確信に変わっていく。
破壊は反乱ではない。
それは、**祈りのような“参加の意志”**だった。
そこへ、久世燈子からの連絡が入る。
「今、都内で“記憶のズレ”が増えてるわ。地図の標記ミス、看板の配置変更、同じ道を通ったはずなのに“違う風景”を見たという証言。複数よ。単なる記憶違いとは思えない」
「……それって、意識の干渉?」
「可能性はある。たぶん、ラミアはもう“視覚”にとどまっていない。都市そのものに記憶の回路を構築してる」
坂東は、通話越しの沈黙に、微かな震えを感じた。
「つまり、見ていないものを“見たように記憶させる”ってことか?」
「ええ。それも、母性の記録を介して。……“誰の目で見たか”ではなく、“誰の記憶を信じたか”が、現実になる」
それは、都市の“祈り”が再構築されているということだった。
そして、祈りの形式は、声ではなく――沈黙。
坂東は静かに画面を閉じた。
深く、ゆっくりと息を吸う。
今、何かが収束しようとしている。
都市に張り巡らされた“網”の全体像が、見えないままに立ち上がりはじめている。
そして、自分たちは――
子供たちがどこまで“帰ってこられるか”を、見届けるしかないのかもしれない。
その夜、久世燈子は書斎の窓を開けたまま、じっと耳を澄ましていた。
都心では珍しいほどの静けさだった。かすかな風も吹かず、車の音も遠い。代わりに、聞こえないはずの音が耳の奥でざわめいていた。人の気配。呼吸の重なり。どこかで何かが“記録されていく”音。
ノートの端に、彼女はまたひとつ、観測点の印をつけた。
“通学路脇の防音壁、文言の改変。以前の写真と一致せず”
“街路灯の色温度、記憶より暖色化。近隣三名が同じ違和感を証言”
どれも科学的には些細な齟齬に過ぎない。けれど、それらが「同時多発的に起きている」こと自体が異常だった。
物理ではなく、記憶そのものが書き換えられている。
そしてそれは――“母性”を起点とした祈りの構造に結びついていた。
「“あの子たちはもう帰らない。みんな、おかあさんの中にいる”……」
電話越しの美沙の言葉が、頭の中で反響する。
それは誰かが与えた台詞ではない。けれど、蓮の本心とも違う。語らされた意志。しかもそれは、本人にも違和感を残さないほどに深く埋め込まれていた。
まるで“信仰”のように。
燈子は机の脇の引き出しを開け、古いファイルを取り出す。そこには数年前まで自身が追っていたある失われた神話群の資料がまとめられている。
その中に、一枚の走り書きがある。
《子を喰らう女――ラミア(Lamia)。元は母であり、嫉妬と呪いにより怪物へ堕ちた存在。子供たちを取り込むことで、かつての母性を模倣し、都市に潜む“沈黙の母”となる》
なぜ“それ”をラミアと呼んだのか――。
燈子は、数ヶ月前に美沙から預かった蓮の言葉の断片を思い返す。
「“しろ”はね、お母さんを探してるんだって」
その時は、曖昧な比喩と受け取っていた。だが、今ならわかる。
探していたのは“育ての母”ではない。
集合意識の中枢となる“全体母”。
都市に広がる“祈りの残滓”を受け取る、ただ一つの受信母体――ラミア。
それは神話のラミアが持っていた意味――
“子を産む能力を失った後も、子を欲しがり、奪い、抱え込む”という、母性の歪曲形そのものだった。
ノートにペンを走らせながら、燈子はようやく言語化する。
《ラミアとは、母性の“空洞”に宿る意志である。
それは与えるのではなく、同化する。
育てるのではなく、集める。
そして、子供たちは自ら進んで“祈りの残りかす”を手にし、ラミアの一部となっていく――》
手が止まる。
ラミアはもう“存在”ではない。
都市に張り巡らされた母性の信号、それそのものが名を持ち始めたのだ。
そして、美沙と蓮――二人は、すでにその“中心構造”に接続されている。
燈子は再び机の上の都市地図に目をやる。複数の家庭で報告された“記憶の揺らぎ”と“発話の同一性”が、まるで神経回路のように都市の網目をつなげている。
神経核は、おそらく旧桜山モール跡地。
その中枢に蓮が“参加”しているとすれば、彼を引き戻すには――
「……それを断ち切れる“母”が必要」
美沙にしかできないことがある。
美沙だけが、蓮を中心構造から引き離せる可能性を持っている。
だが同時に、美沙はその“中心構造に最も深く侵入されている”存在でもある。
燈子は机の上の携帯を取った。通話履歴から神原美沙の番号を押す。
数コールのあと、受話器の向こうから疲れた声が聞こえた。
「……蓮、まだ寝てるわ。でも、眠ってる顔じゃない。……目は閉じてるのに、視線を感じるの。……誰かの」
「それ、あの子自身の目じゃないのよ。……もう、“見てる側”じゃなくて、“見られてる側”なの」
その言葉を言いながら、燈子の背筋に、はっきりとした寒気が走った。
蓮の身体を通して、誰かが“観測”している。
蓮は端末となり、美沙は中継点であり、ラミアは“沈黙のネットワーク”そのものになりつつある。
そして夜は、まだ終わらなかった。
その静けさの中で、都市のどこかにいる子供たちが、また新たな“交信”の形を獲得していく。
祈る声も、泣く声もいらない。
ただ、沈黙のまま――視線と記憶を通して。
「もうみんな、おかあさんの中にいるよ」
蓮は、まっすぐに美沙を見ていた。けれどその瞳は、なにかを透かすように、彼女の背後――**もっと遠くの“誰か”**を見ているようだった。
言葉の意味は理解できた。文法も発音も正しい。だが、“誰が”話したのかがわからなかった。
その声は蓮の口から発されたはずなのに、どこか別の場所から“伝えられた”ような――言葉の肉体が欠けている、そんな不気味さがあった。
「蓮……今、なんて言ったの?」
訊き返しても、蓮は何も言わなかった。ただ、美沙の肩越しに視線を送り続けていた。焦点の合わない目。まばたきすら、ぎこちない。
そのとき、美沙は気づいた。
蓮の視線が“誰か”を追っている。
それも、いま、ここにいない誰かを。
リビングに戻り、テレビをつける。画面の中では、街頭インタビューの映像が流れていた。深夜、複数の施設や駅構内で“無言の破壊行動”が確認されたという。
「やっぱり、また起きてる……」
美沙は独りごちた。映像には映っていないが、そこにいたのは“子供たち”なのだ――坂東が現場で実際に、小柄な影が動くのを目撃していたと聞いていた。その確かな証言と、蓮の言葉とが繋がっている気がしてならなかった。美沙には、すべてが同じ流れの中にあるとしか思えなかった。
昨夜――確かに蓮は、外に出ようとしていた。
鍵は閉まっていた。けれど、しろは玄関マットの上にいた。まるで、誰かを迎え入れるように。
「……私が、止めなければ……」
美沙は立ち上がる。少し身体が重い。けれどそれは、疲れというより、**判断を曇らせる“何か”**が頭の奥に留まっているせいだった。
その日、道場の稽古は休みにした。子どもたちの登校にも異変が出ている。複数の家庭で“原因不明の倦怠”を訴える例が続出し、通学を控える動きが見られていた。
街は、静かだった。だが、その静けさこそが異常だった。
ふだんなら朝の時間帯、コンビニからは揚げ物の匂いが流れてくる。駅前のベンチには制服姿の高校生が集まって、携帯を覗き込んでいる。
けれど今日は、どこかのスイッチが切れたかのように、街の“活動音”が消えていた。
交差点の信号が切り替わる音だけが、やけに大きく耳に残る。
蓮は、まだ眠っていた。
朝食には手をつけず、静かに横たわっている。まるで、夢の中で“別の場所”に行っているかのように。顔色は悪くない。呼吸も穏やか。けれど、その姿はあまりにも“無防備”すぎて、美沙の胸をざわつかせた。
「……夢、見てる?」
誰にともなく呟いたその言葉に、返事はなかった。
ふと、蓮の右手が微かに動いた。けれどそれは反射ではなく、“誰かと手をつなぐ仕草”のように見えた。
見えない誰かと、確かに“交信”している――そんな気がしてならなかった。
昼過ぎ、燈子が訪ねてきた。
蓮はまだ目を覚ましておらず、美沙は居間で静かにコーヒーを淹れていた。
「やっぱり……外出してたのね。蓮くん」
「ええ。私の目を見ていなかった。“誰かの目”を通して、私を見てた」
「視線を乗っ取られてる……。それは、“子供の身体が、情報端末化している”証拠」
燈子は、バッグから封筒を取り出した。中には、都市構造の一部を図式化したスケッチが入っていた。
「都市のあちこちに、“記憶の揺らぎ”があるの。わかりやすい例で言えば、“昨日そこにあった看板が、今日なくなってる”とか、“いつも通ってる通学路なのに、道幅が狭くなった気がする”とか」
「……記憶の錯覚?」
「そう言ってしまえばそれまで。でも、それが複数人に同時に起きているの。しかも、共通するのは“子供が近くにいた”という点」
燈子の目は真剣だった。
「これは、意識の改竄……つまり、“母性の記録そのものが、書き換えられてる”可能性がある」
その言葉に、美沙の手が止まる。
“母性の記録”。
それは、自分の中にしかないものだと思っていた。
けれど――もしかしたら、それすらも、誰かに“見られ”、模倣され、“上書き”されているのだとしたら。
「私は……誰の母なの?」
思わず出たその言葉は、美沙自身が思っていた以上に重かった。
それは不安ではなく、強烈な違和感だった。
まるで、自分の“母”としての役割が、誰か別の“母”に徐々に置き換えられていくような。
その夜。
蓮は、はっきりと目を開けた。
けれど、美沙の目を見なかった。
その代わりに――誰もいない廊下の先を見つめながら、ぽつりと呟いた。
「もう、あの子たちは帰らないよ。……みんな、おかあさんの中にいるから」
その口調には、幼さも怯えもなかった。
ただ、言わされているのではない、完全に“同意している者”の声だった。
美沙の背筋が、音もなく凍りついた。
それは――蓮の言葉ではなかった。
だが同時に、“完全に蓮の声”だった。
駅前の無人パン屋からの通報が入ったのは、午後十時四十分だった。
「ガラスが割られている」「中が荒らされている」「だが、何も盗まれていない」
状況だけを並べれば、いつもと変わらない――いや、“何も盗られていない”という時点で、いつもと明らかに違っていた。動機の見えない破壊。明確な目的を持たない侵入。
坂東は、すでにこの異常の“かたち”を知っていた。
別の地点で起きた出来事と同じだ。
静かに侵入し、的確に破壊する。物は盗らない。音も立てない。
その“無言の痕跡”こそが、共通点だった。
続けざまに、別の店舗からも通報が入った。今度は無人コンビニ。
坂東は現場対応の警備員から送られてきた防犯映像のダイジェストを受信した。画質は悪くなかった。店内には、深夜にもかかわらず三つの人影が現れていた。
けれど、それらの顔はすべて、光の反射で潰れていた。
店内の天井照明が逆光になり、カメラに強く白飛びする――その説明で済むならいい。だが、三体すべての顔だけが、まるで意図的に覆い隠されたように“認識不能”なのだ。
「小柄だな……子供か?」
声に出してしまってから、坂東は口を閉じた。
その問いに、答えてはいけない――答えが出たら、捜査が崩れる。
事務所に戻った坂東は、状況報告をまとめるふりをしながら、ノートPCに映像を映し出し続けた。繰り返す。巻き戻す。再生速度を変える。
けれど、答えは出なかった。
いや、答えは出ているのに、目が拒否していた。
そこへ、美沙からのメッセージが届いた。
《蓮がまた起きました。“もう帰らない”って言いました。“みんなおかあさんの中にいる”と》
読みながら、坂東は椅子に深く背を預けた。
――またか。
同じ言葉だ。
桜南町の児童相談所、北環の学童保育、桜山小の放課後教室――それぞれの施設の職員が、異口同音に言っていた。
「“おかあさんがいるから、帰らなくていい”と子供が言った」
「“うちにはもう、帰る場所がない”と、誰かが囁いたようだった」
けれど、どの子も“その言葉を言った記憶がない”と答えた。
発話されたのに、記憶されていない言葉。
それはもう、“自分の意志で話した言葉”ではなかったということだ。
そして、その言葉の送り手が――“ラミア”だ。
坂東は、改めて机の上の書類を見渡す。小学校、保育園、放課後施設、通報者、警備会社、そして神原美沙。
今、彼女の家庭にも、“何か”が接続されつつある。
映像に戻る。
割られた自動扉、倒された棚。きれいに並べられていたパンが、均等に落とされていた。何かを探して荒らされたのではない。整えるために壊したような規則性があった。
「命令されていない……けれど、“同意”しているんだな」
そのつぶやきが、坂東の胸の内で確信に変わっていく。
破壊は反乱ではない。
それは、**祈りのような“参加の意志”**だった。
そこへ、久世燈子からの連絡が入る。
「今、都内で“記憶のズレ”が増えてるわ。地図の標記ミス、看板の配置変更、同じ道を通ったはずなのに“違う風景”を見たという証言。複数よ。単なる記憶違いとは思えない」
「……それって、意識の干渉?」
「可能性はある。たぶん、ラミアはもう“視覚”にとどまっていない。都市そのものに記憶の回路を構築してる」
坂東は、通話越しの沈黙に、微かな震えを感じた。
「つまり、見ていないものを“見たように記憶させる”ってことか?」
「ええ。それも、母性の記録を介して。……“誰の目で見たか”ではなく、“誰の記憶を信じたか”が、現実になる」
それは、都市の“祈り”が再構築されているということだった。
そして、祈りの形式は、声ではなく――沈黙。
坂東は静かに画面を閉じた。
深く、ゆっくりと息を吸う。
今、何かが収束しようとしている。
都市に張り巡らされた“網”の全体像が、見えないままに立ち上がりはじめている。
そして、自分たちは――
子供たちがどこまで“帰ってこられるか”を、見届けるしかないのかもしれない。
その夜、久世燈子は書斎の窓を開けたまま、じっと耳を澄ましていた。
都心では珍しいほどの静けさだった。かすかな風も吹かず、車の音も遠い。代わりに、聞こえないはずの音が耳の奥でざわめいていた。人の気配。呼吸の重なり。どこかで何かが“記録されていく”音。
ノートの端に、彼女はまたひとつ、観測点の印をつけた。
“通学路脇の防音壁、文言の改変。以前の写真と一致せず”
“街路灯の色温度、記憶より暖色化。近隣三名が同じ違和感を証言”
どれも科学的には些細な齟齬に過ぎない。けれど、それらが「同時多発的に起きている」こと自体が異常だった。
物理ではなく、記憶そのものが書き換えられている。
そしてそれは――“母性”を起点とした祈りの構造に結びついていた。
「“あの子たちはもう帰らない。みんな、おかあさんの中にいる”……」
電話越しの美沙の言葉が、頭の中で反響する。
それは誰かが与えた台詞ではない。けれど、蓮の本心とも違う。語らされた意志。しかもそれは、本人にも違和感を残さないほどに深く埋め込まれていた。
まるで“信仰”のように。
燈子は机の脇の引き出しを開け、古いファイルを取り出す。そこには数年前まで自身が追っていたある失われた神話群の資料がまとめられている。
その中に、一枚の走り書きがある。
《子を喰らう女――ラミア(Lamia)。元は母であり、嫉妬と呪いにより怪物へ堕ちた存在。子供たちを取り込むことで、かつての母性を模倣し、都市に潜む“沈黙の母”となる》
なぜ“それ”をラミアと呼んだのか――。
燈子は、数ヶ月前に美沙から預かった蓮の言葉の断片を思い返す。
「“しろ”はね、お母さんを探してるんだって」
その時は、曖昧な比喩と受け取っていた。だが、今ならわかる。
探していたのは“育ての母”ではない。
集合意識の中枢となる“全体母”。
都市に広がる“祈りの残滓”を受け取る、ただ一つの受信母体――ラミア。
それは神話のラミアが持っていた意味――
“子を産む能力を失った後も、子を欲しがり、奪い、抱え込む”という、母性の歪曲形そのものだった。
ノートにペンを走らせながら、燈子はようやく言語化する。
《ラミアとは、母性の“空洞”に宿る意志である。
それは与えるのではなく、同化する。
育てるのではなく、集める。
そして、子供たちは自ら進んで“祈りの残りかす”を手にし、ラミアの一部となっていく――》
手が止まる。
ラミアはもう“存在”ではない。
都市に張り巡らされた母性の信号、それそのものが名を持ち始めたのだ。
そして、美沙と蓮――二人は、すでにその“中心構造”に接続されている。
燈子は再び机の上の都市地図に目をやる。複数の家庭で報告された“記憶の揺らぎ”と“発話の同一性”が、まるで神経回路のように都市の網目をつなげている。
神経核は、おそらく旧桜山モール跡地。
その中枢に蓮が“参加”しているとすれば、彼を引き戻すには――
「……それを断ち切れる“母”が必要」
美沙にしかできないことがある。
美沙だけが、蓮を中心構造から引き離せる可能性を持っている。
だが同時に、美沙はその“中心構造に最も深く侵入されている”存在でもある。
燈子は机の上の携帯を取った。通話履歴から神原美沙の番号を押す。
数コールのあと、受話器の向こうから疲れた声が聞こえた。
「……蓮、まだ寝てるわ。でも、眠ってる顔じゃない。……目は閉じてるのに、視線を感じるの。……誰かの」
「それ、あの子自身の目じゃないのよ。……もう、“見てる側”じゃなくて、“見られてる側”なの」
その言葉を言いながら、燈子の背筋に、はっきりとした寒気が走った。
蓮の身体を通して、誰かが“観測”している。
蓮は端末となり、美沙は中継点であり、ラミアは“沈黙のネットワーク”そのものになりつつある。
そして夜は、まだ終わらなかった。
その静けさの中で、都市のどこかにいる子供たちが、また新たな“交信”の形を獲得していく。
祈る声も、泣く声もいらない。
ただ、沈黙のまま――視線と記憶を通して。
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