EchidnaProjectⅠ-ラミアの眼

ukon osumi

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第二十話「繭の中で」

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 その朝、蓮は一言も発しなかった。
 起きて、着替えて、食卓に座った――それだけ。茶碗も箸も取らない。呼びかけても返事はない。無表情のまま、ただ自分の前にいるエキドナを見つめていた。
 「蓮……おなか、すいてない?」
 声に出すと、わずかに視線が動いた。だがその目は、美沙を通り過ぎていった。目の前にいる“母親”を視認していない。いや、それどころか、もう“視る”という行為そのものが内向しているようだった。
 しろは、そんな蓮の膝の上で、まるで“寄生体”のように身体を沈めていた。耳も動かさず、呼吸の音もほとんど立てない。白く、球状に、黙して沈黙の殻にこもっている。
 食卓には蒸気の立たない味噌汁と、冷めたご飯だけが並んでいた。
 美沙は手を伸ばし、蓮の肩に触れようとした。けれど、その指先がほんの数センチ手前で、どうしても止まってしまう。
 触れたら、何かが壊れるような気がした。
 いや、**もう何かが“壊れてしまっている”**のかもしれない。
 午前九時。燈子が車で迎えに来た。事前に連絡はなかったが、その表情に一切の無駄はなかった。
 向かう先は、再開発指定地域の一角――かつて「桜山小児医療センター」が存在していた場所だった。
 現在はすでに解体され、フェンスで囲まれた空き地となっている。だが燈子によれば、そこが“構造的中心”だという。
 「都市構造の中で、祈りの動線がどこへ流れ込んでいるかを調べたの。子供たちの夢、記憶の揺らぎ、エキドナの行動……全部が、この一点を指してた」
 道中、車内はほとんど会話がなかった。
 エンジン音とタイヤの軋みだけが、時間の通過を知らせている。
 燈子は視線をフロントガラスに向けたまま言った。
 信号待ちの間、美沙はバックミラー越しに蓮の顔を見た。
 肌の色は青くもなく、熱もなかった。けれど、まるでどこか別の“空間”に呼ばれ続けているかのような、内なる引力が彼の身体全体を包んでいる。
 胸の内に、じわじわと焦燥が広がっていく。
 言葉も、声も、表情も、何ひとつ“届かない”という恐怖。
 そしてその中に、このまま蓮を失ってしまうかもしれないという、具体的な実感。
 やがて、車はフェンスに囲まれた空き地の前にたどり着いた。
 かつてそこが病院だった面影は一切残されていない。防音壁のように高く組まれた金属フェンスが、都市の断面のように空間を遮断していた。
 だが、その内側だけが“閉じている”ようだった。光の届き方が鈍く、視界がわずかに曇って見える。
 美沙は一歩、柵に近づいた。
 地面は剥き出しの土と、半ば枯れた雑草に覆われている。中央には、白く四角い建物の基礎部分だけが残っていた。だが、目を凝らせば、そこに“残留しているもの”がある。
 ――あれは……。
 気づけば、フェンスのこちら側に子供たちがいた。
 五人、いや六人。みな、無言で立っている。年齢も服装もばらばら。だが奇妙な共通点があった。“誰ひとりとして、こちらを見ていない”のだ。
 全員の視線は、フェンスの内側。まるでその空き地の“中心”に何かがあるかのように。音も立てず、身動き一つしない。呼吸の気配すら薄い。まるで、もともと人間ではない“像”がそこに置かれているかのようだった。
 「……あの子たち、何してるの?」
 思わず声に出すと、燈子はすでに後部座席のドアを開け、双眼鏡を取り出していた。
 「ただの“立ち止まり”じゃないわ。……見て」
 燈子が指さした先に、白い球体がいた。
 エキドナ。子供の足元に、それぞれ一体ずつ、静かに寄り添っている。ぬいぐるみのように丸まって動かない。
 「共鳴してる……?」
 美沙の声は、言葉というよりも吐息に近かった。
 フェンス越しにいる子供たちと、その足元のペットたちが、わずかに震えた。
 微細な“ずれ”を持って順番に伝播していく。
 「これは――“反射”よ」
 燈子の声が静かに重なる。
 「無意識でもなく、命令でもない。都市構造の“反射行動”……。ある種の“物理的な返礼”として、彼らは今、あそこに立ってるのよ」
 “彼ら”という言葉に、美沙の胸がざらついた。
 子供たちは、意志でここに来たわけではないのか? では、なぜ立っている? どこから歩いてきた? 親は? 学校は? そのどれにも答えはなかった。だが、彼らがそこに“到達してしまった”という事実だけが、都市の全体構造と交差し始めていた。
 「蓮も……」
 思わず、美沙は呟いた。
 ――もし、蓮があの子たちと同じように“呼ばれた”ら?
 ――もし、あの中に紛れていたら?
 想像するだけで、喉の奥が焼けるようだった。けれど、その不安を口にすることすら、今は“呼び水”になりそうで、美沙は言葉を呑み込んだ。
 「美沙」
 横にいた燈子が、低く言った。
 「視線を、合わせないで。……彼らの眼を、覗き込んじゃだめ」
 その声に、思わず美沙は目を伏せた。
 静かに、風が吹いた。
 音もなく、空き地の土がわずかに舞う。
 それはまるで、呼吸を始めた胎内のようだった。
 フェンスの向こうには、ただの空き地が広がっているはずだった。だがその地面には、かつて存在していた建物の輪郭が、まるで“記憶の化石”のように刻まれていた。コンクリの断片、雑草の隙間に覗く配管、そして地表を斑に染める土壌の変色。そのすべてが、何かを祀るための“痕跡”に見えた。
 「やっぱり……ここよ」
 燈子がつぶやくように言い、美沙は息を呑んだ。
 フェンスの外には、すでに二十人以上の子供たちが並んでいた。その一人ひとりが、白く丸いエキドナを抱えている。言葉もなく、視線を動かすこともなく、ただ“中心”を見ている。中心――それは、美沙たちの立つ地点から見ても、空き地の中央にあたる、灰色に崩れかけた小さな石の円だった。
 「何か……あるの?」と美沙。
 燈子はうなずいた。「記録によれば、この地には戦前から“子供の神”を祀る祠があった。センター建設時、それは移設されたことになっている。でも――私は、動かされていないと思う」
 空気がひどく乾いていた。秋の風ではなく、記憶を剥がすような無機質な風。枯葉のひとつもないはずの地面を、どこからともなく吹きつけるその気配に、美沙はぞっと背中を冷やした。
 「これは、信仰なの?」
 「信仰というより――共鳴」
 そのとき、柵の向こうの子供たちが、いっせいにエキドナを地面に置いた。
 まったく同じ動きで。
 「……!」
 呼吸が詰まりそうになる。子供たちはそのまま、小さく手を合わせるような仕草を見せた。だがそれは祈りではなかった。“操作”だった。まるで、何かの装置を起動するように、同じ角度で、同じタイミングで。
 そして地面が、わずかに震えた。
 「地下に……何かがある……?」
 美沙の声が震えた。
 「そうよ。たぶん“器”が、ここに」
 美沙は思わず足を踏み出しかけて、止まった。
 フェンスの向こう、子供たちは身じろぎもせず、ただ地面の“中心”を見つめていた。置かれたエキドナたちもまた、静かにそこを囲んでいる。誰一人声を発せず、目を合わせず――だが全員が、同じ視線を注いでいた。
 視線の先にあるのは、雑草の切れ目に覗く小さな石の円。そこだけ、地面がわずかに沈み、黒く影を落としていた。
 「……ここが、核」
 燈子の声が低く震えた。
 「意識が収束する、“中心構造”。都市が組み上げてきた祈りと記憶の……繭よ」
 “繭”――その言葉が、美沙の全身にしみわたった。
 母性をなぞり、祈りを模倣し、集められた子供たちの眼差しと、都市が持つ無数の動線が――この空き地に収束している。街のあちこちで見えた“奇跡”と“暴走”の源。それらは偶然でも狂気でもなく、“必然の呼び声”だった。
 誰かが開ければ、中から何かが羽化する。
 だがそれは――希望ではない。
 終末の使者だった。
 母性という名の殻に包まれ、静かに成長を続けている“それ”が、今まさに目を覚ましかけている。
 「……まだ、間に合うの?」
 思わず美沙が口にすると、燈子は目を細めた。
 「まだ、手を触れなければ――」
 そのときだった。
 置かれていたエキドナのひとつが、わずかに身体を動かした。
 ほんの数ミリ、地面の中央に向かって、じり……と転がる。
 それに呼応するように、他の個体たちも動き始めた。全員が円を描くように、ゆっくりと、滑るように、中心へと寄っていく。
 それはもはや“ペット”ではなかった。
 意識体の触手であり、同調の媒体であり、都市が生み出した“感応する手”だった。
 風が吹いた。空は白く濁り、光は斜めに差し込む。
 まるで、どこか別の世界が、この空間を透かしているように思えた。
 ――蓮は車に残っている。
 今はまだ、“繭”の外にいる。
 だがこのままでは、彼もまた――
 繭に触れ、包まれ、“母”へと還ってしまうかもしれない。
 美沙は拳を強く握った。
 子供たちは今も、微動だにせず立ち尽くしている。
 風にそよぐ髪の隙間から、その顔を一人ひとり確かめたが、どの目も、もはや“自分の目”ではなかった。
 ――誰かが、そこから覗いている。
 “母”ではない。けれど“母性”の顔をした、何かが。
 その視線が、フェンスの向こうから美沙へ向かっていた。
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